二話

 声も出なければ動けもしないし苦痛も感じない。そりゃそうだよね。ただの小箱なんだから。


 あれからあたしは相変わらず鏡台の上に安置された状態だった。でもアンナさんが化粧道具を並べ直して、あたしの位置は鏡の真ん前になって、より自分が黒い小箱なんだと意識させられることになって、正直心がへこんだ。だってずっと人間だと思い込んでたから、それは違いますよ、あなた小箱ですよっていきなり言われたら、少なからずショックは受ける。一応、人間っぽい意識は持ってるから。って言うか、じゃあこの意識って何? ってなると、自分の中で謎が深まるばかりだから、そこはあんまり考えないようにしてる。どうせ答えなんて出ないし。だからあたしはこの悪夢なのか何なのかわかんない現実を受け入れるしかなかった。どうにかしたくても方法すらないから。ただ鏡越しに、今じゃ親近感も湧きつつある家族三人の暮らしを、ひたすら眺める毎日を繰り返すだけだ。


 動けず退屈でしょうがない中でも情報収集だけは続けてる。って言っても家族の会話を聞いてるだけなんだけど。それしかできることないしね。このアポストル家は今日現在も幸せな様子だ。ジョルジさんは仕事がはかどってるみたいだし、アンナさんは部屋の掃除をしてる時によく鼻歌を歌ってて常に機嫌がいい。エレナちゃんはそんな二人に遊んでもらって楽しそうに過ごしてる。何て理想的な家族。アンナさんはこの状況を、あたしのおかげだって頻繁に言ってた。あたしっていうのはつまり、黒い小箱のことだ。


 夫婦の以前の会話から察するに、あたしこと小箱は、呪術師から買ったもので、話じゃご利益が詰まった幸運の品物らしい。自分じゃまったく自覚ないけど、あたしってそういう存在なんだろうか。真偽は置いといて、とにかくアンナさんはそう信じ込んでるようだった。だからいつも鏡台の前に来ると、必ずあたしを一撫でして行く。幸せが続けと祈るように。ジョルジさんも少しは信じてるっぽかったけど、アンナさんはさらに強く信じてて、ある会話の中で、友達に景気がよさそうと言われた時に、あたしの話をしたそうだ。幸運の小箱を買ったおかげだって。だからあなたも買ってみたら? って呪術師のいる店を紹介したらしい。それと似た話で、ジョルジさんも仕事相手から、どうすればあなたのように上手くやれるのかって聞かれて、答えに困り、妻に助けられてるって言って、あたしのことを少し話したそうだ。二人は今の幸せがあたしのおかげだって思ってるみたい。いや、全部がそうだとは思ってないだろうけど、そう思ってる部分が少なからずあるみたいだ。何か、自覚はないけど、あたしが誰かを幸せにしてるって思うと、ちょっと誇らしくも感じてくる。気のせいとか勘違いであっても、そう信じることで幸せを感じてるのは事実だからね。


 でも、そんな様子を眺めてると、時々不安に思ったりもする。これって本当は偽物の幸せなんじゃないかって。だってあたしは何もしてないし、売った呪術師がご利益があるって言ってるだけで根拠はないわけだし、アンナさんはそれを信じてるだけで、あたしのおかげっていうのは、単なる幻想かもしれない。でもそれならそれでいいんだろう。あたしのおかげじゃなきゃ、二人の努力が幸せを作ったってことになるから。偽物の幸せを信じさせたあたしは、そのうちゴミ箱行きになるかもしれない。それって結構悲しいけど。


 そうなったとしても、家族の幸せには何の影響もないはずだ。そもそもあたしが影響してなかったってことだからね。だけど人の幸せなんて長く続くものじゃない。大なり小なり不幸な目に遭っちゃうもんだ。この家族にもいつかきっとそんな日が来てしまう――そう想像しちゃうと、ただ微笑ましく眺めてるだけじゃいられない心境にもなる。変な心配してるなって思うけど、でも、人生ってそういうものだと思うし、変化って必ずやって来るから、それができればいい変化であるようにって、あたしは一応祈っておこうかな。小箱の祈りなんて誰が聞き届けてくれるか知らないけど。はあ……他人の暮らしをのぞき見てると、心配性になるもんなのかな。


 そんな退屈で心配な日々が続いたある日……とうとうこの家族に不幸な出来事は起こってしまった。


「お母さん、早く!」


「はいはい、行くから待って」


 部屋の外からエレナちゃんに急かされて、アンナさんは鏡台の前で急いでイヤリングを付ける。その姿をあたしは鏡越しに眺めてた。普段より念入りにされた化粧、美容院で綺麗に結い上げられた髪、品がありながらも豪華な紫色のイブニングドレス……今夜はジョルジさんの仕事関係の晩餐会があるとかで、この時間から夫婦でお出かけだ。ちなみにエレナちゃんはおばあちゃんの家に預けられるらしい。仕事関係じゃ子供連れは難しいか。


 鏡に近付いたアンナさんは、顔を左右に軽く振ってイヤリングを確認すると、最後に全身を確かめてから鏡台を離れた。


「お待たせ。じゃあ行きましょうか」


「おばあちゃん、何してるかな」


「きっとエレナのためにごちそう作って待ってるわよ――」


 親子の会話が遠ざかると、部屋の照明がパッと消えて、辺りは一瞬で暗闇に変わった。窓に引かれたカーテンの隙間から、月明かりっぽい青白い光がぼんやりと入ってるのだけが見える。今夜は帰りが遅くなるかな。見るものも聞くものもなくてつまんない。しばらくぼーっとしてるしかないな――そう思いながら暗い部屋の片隅で何十分と経った頃だった。


 窓際にある唯一の光が揺れた気がして、あたしはすぐに視線を向けた。よく見ると揺れたのは光じゃなくてカーテンだった。……ん? 何でカーテンが? 窓は開いてないはずだし、部屋に風が吹き込んでる様子もないのに。三人もまだ帰って来てない。辺りは静まり返って――と思った次の瞬間、ギイ、ときしむ音が聞こえたのと同時に、カーテンが風に煽られるように大きくはためいた。月明かりが眩しいぐらいに差し込むと、その中に黒い影がひた、と足を着いた――人間の身体があれば、あたしは息を呑む状況だ。これは、多分、いや絶対、侵入者だ。泥棒だ。空き巣だ!


 はためくカーテンをわずらわしそうにめくって男の姿は現れた。月明かりの逆光でよく見えないけど、服装は何だか小汚そうで、顔は無精ひげを生やしてて、歳は……二十代半ばぐらいかな。格好から部屋を眺める仕草から、どう見ても空き巣だ。


 早速物色するのかと思いきや、男はバタバタ暴れるカーテンを押さえながら窓の外に向かって小さな声で言う。


「おい、風があるから一旦窓は閉めるが、ちゃんと見張っておけよ」


 そう言って男は言葉通り窓を静かに閉めた。どうやら外に仲間がいるらしい。風をさえぎって静けさを取り戻すと、男はさて、と呟いて動き始めた。


「……へへ、噂通り、溜め込んでるな」


 夫婦のクローゼットやタンスを探り始めた男は、そこにしまわれてた金銀の装飾品を片っ端から盗り、用意してた布袋の中に入れて行く――まずいよね? ど、どうすればいいの? このままじゃ金目の物全部持って行かれちゃう! こんな緊急時に動けない自分が歯がゆ過ぎる。せめて声ぐらい出せれば……。


 そんなあたしが見てることも知らずに、男は部屋の隅々まで物色して悠々と夫婦の私物を盗んで行く。……ああ、それはジョルジさんがアンナさんにプレゼントした指輪! なくなったら二人とも悲しんじゃうよ。やめて! それ以上盗まないで! ――口も声も持たないあたしがいくら叫んでみたところで、男の手が止まるわけもなく、その姿はやがてあたしのいる鏡台にもやって来た。


「……化粧品ねえ……どれも高そうだが、香水なら売れるかな」


 男はあれこれ手に取ると、香水瓶だけを選んで袋に入れた。アンナさんのお気に入りが……。


「ん、これは何だ……」


 鏡越しに男の視線があたしに向いたのを見て、思わず身構えた。実際はできないから気持ちだけだけど。男が伸ばした手が身体――黒い小箱をわしづかみにして持ち上げた。暗い中で視界がふわりと浮き上がる。


「宝物でも入ってるか……?」


 男はあたしをグルグル回して観察すると、次に蓋を開けようと手に力を入れてつかむ。でも開かないようだ。これは別にあたしのせいじゃない、と思う。中から押さえるとか、そんなことできないし。


「ああ? 何で開かない? 鍵……はなさそうだな。中で何か引っ掛かってんのか?」


 ちょっと苛立った声で言うと、男はあたしを上下左右に振り始めた。その振動で蓋が小刻みに揺れてガチャガチャ音を立てる――これは視界が揺れるだけで、別に大きな苦痛じゃないけど、それよりも泥棒があたしをつかんでることのほうがすごく不快だ。早く離してくれないかな。


「……中身、あんのか? 大して音が――あ」


 男は急に手を止めると、あたしを正面からじっと見つめてきた。


「もしかして、これなのか……?」


 閃いたような顔が呟く。……これ? 何のことだ?


「だったら開けないほうがいいな。へへ……」


 卑しい笑い声を漏らすと、男はあたしを袋の中へ落とした――え? あたしも盗むの? ただの小箱なのに? 宝石も金細工も付いてない、蓋も開かないような小箱だよ? 待って! 何で盗もうって思ったのよ。あたしのどこに価値を見い出したってのよ。嫌だ! 泥棒なんかと一緒にいたくない! それなら退屈でもここの家族を眺めてるほうがましだ! 袋から出して! あたしをここに置いて行け!


「……よし、粗方見終えたな。長居は無用だ」


 視界をさえぎられた袋の中で、あたしはゆさゆさ揺らされながら男の声を聞く。……帰っちゃうの? 部屋出る気? あたしは行きたくないの! あたしだけでも袋から出してよ! あの幸せ家族とこんな別れ方しなきゃならないの? そりゃ声出して別れの言葉は言えないけど、それにしたってひどいよ! 空き巣被害がきっかけなんて、悲し過ぎるじゃない!


 あたしのことなんか微塵も気付いてない男は、こっちの心からの叫びも聞かずに窓から外へ出て行った。袋の中にいるから見たわけじゃないけど、多分出た。ガタガタ音がしてたし。風の音もするし。


「……どうだった? いい物あったか?」


 初めて聞く声がした。きっと外で待ってた仲間だ。


「噂通りだったよ。高そうなもん、しこたま盗って来たぜ」


 そう言った男は持ってる袋を揺らした。あたしの下敷きになってる貴金属がジャラっと高そうな音を鳴らす。


「大量そうだな……さすが儲けてる実業家の家だ。下見に時間かけた甲斐があったな」


 下見? そんなことしてたの? じゃあジョルジさんの家は前からすでに狙われて、これも計画的に……。


「ああ。買った情報も合ってたし、その話に出て来たやつも手に入れた」


「え? 何だよ、出て来たやつって」


「忘れたのか? 家主の妻が……あー、立ち話は後だ。誰かに見られる前にさっさとずらかるぞ」


 そう言うと二人が走り出す音と共にあたしの入る袋も揺れ出した。あの笑顔の絶えない家族とも、これでお別れなんて……ひどい別れ方だけど、あたしには抵抗する術もない。ただつかまれて、運ばれるだけ。遠ざかってるだろう三人の住む家に、この暗い袋の中から、今回の不幸を乗り越えて頑張ってと応援しておこう。そしていつまでも幸せに……さようなら。あたしは泥棒にさらわれます。不安しかないけど、こっちも頑張ります!


 ガタガタジャラジャラうるさい音を聞かされること数十分、袋の揺れがやっと治まると、泥棒達の走る気配もなくなって、久しぶりに静けさが戻って来た。……とうとう、泥棒の家に着いちゃったっぽい。


 バタンと音がして、しばらくすると真っ暗だった視界が布越しにほんのり白く明るくなった。照明がついたんだろう。すぐ側で二人が動く物音がする。と次の瞬間、あたしは袋ごとどこかに落とされて、その衝撃に視界がぶれた。


「ふう、無事帰還、と」


「成功の祝杯でも上げるか?」


「はは、いいね。盗って来たもん、肴にして飲むか」


 すると袋がゴソゴソ動いて、薄暗い視界がパッと明るくなった。そこに見えたのは無精ひげの男の顔。そしてあの夫婦の渋くて綺麗な部屋とは比べ物にならないほど、狭くて小汚くてぼろい部屋の景色だった。

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