コバコのコ
柏木椎菜
一話
急に目が覚めた――って言えばいいんだろうか。とにかくあたしは目覚めて、意識を取り戻した。……意識? これはあたしの意識なんだよね? うーん、それすらもはっきりしないなあ。って言うか、この状況がまずわかってない。あたしは、どこにいるの? 動こうにも動けないし、手足を動かそうとしても……あれ? あたしの手と足、どこ? 身体どこいっちゃったの? ……え、待って。何か怖くなってきたんだけど。あたしって……誰? 自分のことがまったくわかんない。名前は……何だっけ。あるはずだよね。えっと……あー……あれ? 何でわかんないの? 一文字すら思い浮かばないなんてある? 自分の名前だよ? どうしてだろう。まさか、あたしって名前ないの? いやでも、名前のない人なんか――待った。そもそもあたしって、人だよね? 人間だよね? え? わかんない。そんなこともわかんなくなってる……何なの? どうなっちゃってるの、あたし。記憶が、全部なくなってるの? そ、そんなわけないよ。意識はこうしてはっきりしてるんだから、一回落ち着こう。冷静になって、そうすれば何か思い出せるかも……。
ふと気付いたら、目の前に見慣れない景色が広がってた。薄い霧みたいなものがかかっててぼやっとしてるけど、見えるのは誰かの部屋みたいだ。だけどあたしには見覚えがない。記憶がないせいかもしれないけど、初めて見る部屋だ。カーテンのかかった窓、横長の机に柔らかそうなソファー、視界の隅には大きなベッド、床一面には模様の入った絨毯が敷かれてる。派手ってわけじゃないけど、何か、いい暮らししてるっぽい部屋だな。だけど誰の部屋なの? まさかあたしの部屋じゃないよね? それは違う。だって趣味が渋すぎるもん。あたしの好みは……あれ? あたしの部屋ってどんなだったっけ? やっぱり思い出せない……。
その時、離れたところからパタンと物音がしたと思うと、あたしのぼやけた視界に誰かが入って来た。
「――本当に、上手く行ってよかったよ」
「あなたが寝る間も惜しんで頑張ったからよ。お疲れ様」
現れたのは二人の男女だった。……誰? 何となく見える顔から、二、三十代ぐらいの人っぽいけど……あたしにこんな友達なんていたかな。
男の人は机に置いてあった酒瓶からグラスに注ぐと、それを一口飲んでから女の人にグラスを差し出す。
「アンナも飲むか?」
「ええ。貰うわ」
アンナと呼ばれた人はグラスを受け取り、男の人の飲みかけの酒をぐいっと流し込んだ。……二人の格好はガウン姿だから、これは寝酒ってことだろうか。それにしても、二人はあたしの存在に気付いてないの? まるで気にする素振りもなく、二人だけの世界に浸ってる感じだけど。
「でも正直、商談がここまで上手くまとまるとは思ってもいなかった」
「こんな短期間でなんて、私も驚いてるわ。それももしかすると――」
アンナさんの視線が急にあたしのほうへ向くと、笑顔を浮かべながらこっちへ歩み寄って来た――ちゃんと存在に気付いてたか! そりゃそうだよね。同じ部屋にいて気付かないわけがないし。で、でもどうしよう。とりあえず挨拶ぐらいして、こっちの事情を――
「これを買ったおかげかもね」
アンナさんの手が伸びて来ると、あたしの視界の上のほうに触れた……っぽかった。何せわずかも動けないから、上を向いて確かめることもできない。だから多分触れたとしか言えない。だとして、これを買ったって、一体何を買ったんだろ……いやいやその前に、あたしの存在、無視されてない? こんな間近なのに気付いてないの?
「ああ、前に呪術師に勧められて買ったとかいうやつか。しかし意外だったな。アンナがそういうまじないの類を信じるたちだったなんて」
「何もかも信じてるわけじゃないけど、あの時はあなたが仕事で苦しんでる様子だったから、駄目元で頼ってみただけよ。安かったしね。でも買って正解だったわ。ご利益の詰まった幸運の小箱……こんな成果が出るなんて驚きよ。今度あの呪術師にお礼に行かなくちゃ」
小箱? それが買ったものらしい。だけどご利益とか幸運とか、あたしは胡散臭さしか感じないけど。この人、思い込んでるだけで騙されてない?
「だがご利益も永遠に続くものじゃないだろう。いつまで効果があるか聞いたか?」
「それは聞いてなかったわ。言われてみれば確かにそうね。お礼のついでに聞いておかなきゃ。でも少なくとも、今はまだ効果は続いてるわ」
アンナさんはあたしに背中を向けて離れて行くと、グラスの酒を飲み干し、それを机に置く。そして男の人の首に両手を絡めて身体をすり寄せた。
「ねえジョルジ、私、子供が欲しいの」
「エレナがいるじゃないか」
「エレナ一人だけじゃ、あの娘も寂しいわ。だから……今度は男の子がいい」
そう言いながらアンナさんはジョルジさんにチュッチュッとキスを繰り返す――何を見せてくれるのよ。こっちは自由がきかなくて目をそむけることもできないのに。
「酔ったのか?」
「一杯だけじゃ酔わないわよ。……これは真面目なお願いよ」
「そうか……そうだな。いずれ子をもうけるなら、ご利益があるうちのほうがいいか」
「ええ。きっと健康で可愛い子に恵まれるわ。あなたにそっくりな、ね」
「似るならアンナに似たほうがいい。君は誰よりも聡明で、美しいから……」
二人はキスをしながらベッドへ移動し――もう勘弁してよ。あたしにはのぞきとか変態趣味はないんだから。おっぱじめるなら別の場所でしてよね。って言うか、どっか行くならあたしのほうか。この部屋は明らかにあの二人の部屋みたいだし。でもどう頑張ってみても動けないのよね。目をそむけたくても、閉じたくても、あたしの意思は通じてくれない。身体もあるのかどうかよくわかんないし。だけど視界だけは見たくもないものをしっかり映してくる。この状態って何なの? あたしって何? あの二人にも気付いてもらえないし、一体どうしたらいいのか。今できることと言ったら、周囲の様子を見て、考えることだけ……はあ……せめて耳を塞げたら、いちゃつく声を聞かずに集中して考えられるのに!
そんなわけのわかんない状態は長いこと続いて、終わりや変化のきざしもなく、あたしは動けないその場にい続けてた。ぼんやりと見える窓の外では日が昇っては暮れてを繰り返し、もう何日も経ってた。変わらない景色に自由を奪われた状態……どうしようもなく退屈だった。でも不思議なことに、なぜか苦痛は感じなかった。身動きは取れないけど、どっかが痛むとか、気持ちが塞いでくるとか、そういうことは一切なかった。ただ退屈な感覚だけが心にあくびをさせてた。
だけどあたしだって一日中ぼーっとしてるわけじゃない。動けないなりに情報収集はしてた。それでわかったのは、アンナさんとジョルジさんは夫婦で、エレナっていう娘がいること。そしてジョルジさんは実業家で、今は仕事が順風満帆だってことだ。この部屋は夫婦の寝室で、二人を見る限り、家庭も仕事もどっちも上手く行ってるようだった。幸せを絵に描いたような家族……って言えばいいのかな。こっちの状況と比べると羨ましく思うし、何であたしがそれを見守らなきゃいけないのか、理不尽にも感じるけど、でもあたしの存在を知らない二人に当たっても仕方ない。そのうち気付いてくれないかなって思いながら、あたしは退屈な時間を過ごすだけだった。
そんな代わり映えしない日々が続いてたある日、あたしの固定された視界に小さな人物が入って来た。水色のワンピースを着て、茶の髪をリボンで結った可愛らしい女の子だった。あどけない顔と歩き方から見て、まだ三、四歳ぐらいかな。多分夫婦の娘のエレナちゃんだ。実際に見るのは初めてだけど、ほっぺが真ん丸で可愛いな。
エレナちゃんは一人で寝室に入って来ると、何かを探すみたいにしばらくキョロキョロしてたけど、そのつぶらな目がふとこっちを見ると、一直線に近付いて来た。え? まさか、あたしのことにやっと気付いてくれる人が――と思ったら、エレナちゃんはあたしを無視して、すぐ横のほうへ手を伸ばして何かを取った。……駄目か。やっぱりあたしっていう存在は見えてないのか。
エレナちゃんが取ったのは母親の口紅だった。動けないあたしは見えないけど、どうやらあたしの周りには化粧道具が置かれてるみたいで、アンナさんはよくあたしの前に座って化粧をしてた。エレナちゃんはその化粧道具に興味があるらしい。
口紅をしげしげと見ると、細長いキャップを取ったエレナちゃんは、それを自分の唇に押し当てて、まるでクレヨンで絵を描くみたいにゴリゴリと塗り始めた。紅い色が小さくすぼめた唇からはみ出して、自分の顔を血に飢えた怪物チックに変えて行く――なるほど。女の子なら化粧ってものに一度は興味を持つもの。アンナさんがいない隙に、きっと自分でやってみたくなったのね。子供のやることって可愛いなあ。化粧した顔はひどいものだけど。
口紅を塗り終えて満足したエレナちゃんは、次に白粉を手に取り、パフを使って自分の顔に付け始めた。力の加減ができないせいで、エレナちゃんの周りには白粉が舞い踊る。ぼやけた視界が余計に白くかすんで見えない。子供だなあ。ただお母さんの真似をしてみたいだけなんだろうな。綺麗になれるっていうより、道具を使ってみたいっていう気持ちのほうがまだ強いんだろう。舞った白粉が消えた後に見えたのは、まだらに塗られた白い顔だった。せっかく塗った口紅も白粉で台無しになってる。でもエレナちゃんはこの上なく満足そうに笑ってた。本人がいいならそれでいい。きっと彼女は美にこだわらないたちなんだ。満足したものが自分の求めるもの。見かけなんて気にしないんだ。そんな気持ち、大人になっても持っててほしいもんだね……。
化粧を終えたエレナちゃんは次は何しようと、香水瓶やマニキュアなどいろいろ手に取っては試してたけど、おもむろにその目が再びあたしのほうへ向けられた。
「……何だろ、これ」
白粉で白くなった手があたしの視界をさえぎる――気付いたの? やっと気付いてくれたの? エレナちゃん! あなたが触れてるの、あたしです! ――でも向こうからの反応は何も返って来ない。……あれ? 今頃気付いたけど、もしかしてあたしの声って相手に届いてない? 自分の身体が見当たらないんだから、声帯もなくて当たり前ってこと……?
その時、塞がれた視界がぱっと戻った。目の前にあったのはいつもの景色じゃなく、白くなったエレナちゃんの間近に迫った顔だった。……ち、近いな。その顔だと、ちょっと圧迫感が……。
「中、何か入ってるかな」
視界がグラグラ揺れて傾く。あたし、エレナちゃんにつかまれてる? でもそういう感触は感じないな。身体がないせいかも。視界の半分がエレナちゃんの手で覆われて、何か、ガチャガチャ音がする。何の音だ? これ。
「エレナー、どこなの? エレナー……あっ! エレナ!」
その時、アンナさんの声が部屋に入って来て、どうやらエレナちゃんのやらかしを見つけたようだった。白い顔が驚いて振り返った瞬間、あたしの視界は大きく、素早く動いて、次に見えたのはあたしのほうを見上げるエレナちゃんの姿だった。……あたし、アンナさんに取り上げられたみたい。
「駄目よエレナ! お母さんの物を勝手にいじっちゃ! 何てひどい顔になってるの」
「うぅ……」
叱られてエレナちゃんはうつむく。
「こういう時は何て言うの? 前に教えたでしょ?」
「……ごめんなさい……」
「そうね。ちゃんと謝ってくれるなら、許してあげるわ」
「ううっ……お母さん、ごめんなさい!」
べそをかいたエレナちゃんは両手を伸ばしてお母さんに抱き付く。するとあたしの視界も動いてエレナちゃんの茶の髪に埋まる――あんまり動かされると、めまぐるしくて疲れるんだけど。
再び動いた視界がとらえたのは、同じ目線の高さになったエレナちゃんの泣きそうな白い顔だった。
「もう勝手にいじらないって約束できる?」
「うん……」
「本当に? 絶対よ?」
「うん……いじらない」
「わかったわ。お母さん、エレナを信じるからね。じゃあそのお化粧、落としてすっきりしましょ」
アンナさんも悪気があってのことじゃないってわかってるみたいだ。強く叱られずに済んでよかった。
「ねえ、お母さん……」
「ん? 何?」
「それ、何が入ってるの?」
エレナちゃんはあたしのほうを指差して聞いた。
「これ? これにはね、大事なものが詰まってるのよ」
「大事なものって?」
「私やエレナを幸せにしてくれるものよ。だから開けちゃいけないの。開けるとそれがどこかへ飛んで行っちゃうから」
「見ちゃダメなの?」
「そう。見ても駄目よ。この小箱は絶対に開けちゃいけないの。開けないって、これも約束できる?」
「うん。絶対に開けない」
「ありがとう。じゃあこれはここに置いて、顔を洗いに行きましょ」
エレナちゃんの前から視界が移動して、あたしは何かの台の上に置かれた。周りにはエレナちゃんが散らかした化粧道具が見える。……これは鏡台? 目の前に大きな鏡があって、そこには見慣れた部屋の景色が反転して映ってる。ああ、あたしはずっとこの鏡台の上にいたんだ。でも今は後ろを向かされて鏡越しに部屋を見る形になってしまった。……ってことは、あたし、鏡に映ってるんじゃないの? これで自分のことがちょっとは思い出せるんじゃ――興奮する気持ちを抑えながら、あたしは鏡の中をまじまじと見つめた。映ってるのは部屋の景色と、側にある化粧道具、そして金属製の黒い小箱だけ……あたしはどこ? 人らしきものは目を凝らしてもどこにもない。本当にあたし、身体がないんだろうか。じゃあこの意識は何? 自分では人間だと思ってたけど、間違った認識なの? あたしが人じゃないなら、こうして考えてる自分って何なの?
もう一度鏡を見つめて、あたしは気付いた。自分がいるはずの位置には、黒い小箱が置いてある。……え、本当に? でも鏡に映る位置と距離からして、小箱は間違いなくあたしと同じ場所にある。疑う頭がさっきの母娘の言葉を思い出させる。
『中、何か入ってるかな』
『――この小箱は絶対に開けちゃいけないの――』
二人がこの小箱に触れたと同時に、あたしの視界は塞がれたり揺れたりした――その事実に愕然としながら、あたしは鏡の中のそれを凝視した。信じられない……けど、それが多分現実……やっぱりあたしは、人間じゃなかったんだ。動物でも虫でもなく、まさか無機物の小箱だったなんて……。
コバコのコ 柏木椎菜 @shiina_kswg
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