第四話 訓練初日
翌日、太陽が昇る前に起床した僕は、自分の一部のように毎日続けている洗顔を始める。ささやかな幸運にも恵まれ、部屋のトイレと洗面台が分かれている。
洗面台の前に立ち、まず顔を軽く濡らす。蛇口から流れる水の冷たさが肌に触れる瞬間、後頭部にこびり付いた眠気が払拭する爽快感を感じる。次に手に取るのは、僕が気に入っている洗顔料。優しく泡立てた雲泡を顔面に広げ、円を描くように指先で按摩する。額から頬、鼻、顎まで丁寧に洗っていく。『神の塔』から得られる成分を利用した洗顔料は、一般に普及する製品と比べて美容効果が段違い。
洗顔習慣の元祖は平安中期まで遡る。式占を占った陰陽師が単騎で塔に挑み、疲労困憊で辿り着いた五階層の道中、地面から湧き出る泉の水で休息を兼ねて身を清めていると、突然誕生した海月の精霊から水の効能、医療や美容の知識を授けられた。その逸話から洗顔習慣は始まったとされている。
洗顔料を洗い流す時、また冷たい水が肌を引き締めるように感じる。手のひらにすくった水を顔にかけ、洗い残しがないようすすぐ。最後に布で優しく顔を拭き取ると、鏡にはさっぱりとした見慣れた自分の顔が映る。
「よし」
僕は鏡に映る自分を見つめ、小さく頷いた後、部屋に戻り身支度を始める。そう思って、振り返った途端、人とぶつかりそうになった。
「おっと、ごめん~新田ぁ。寝起きで視界がまだハッキリしてなくてな~」
「おはよう林君、大丈夫こっちもごめん。っあ洗面台、今使い終わったから」
ぶつかりそうになった相手の男子は同じ部屋で過ごす『林健太』、同学年でありながら僕より背が高く、いつも眠そうに虚ろな目を遠くに注ぐ不思議な雰囲気の持ち主。昨日も自己紹介を交わしたきり、ずっと毛布に包まれて昏々とぐっすり寝ていた。
「そっか~」
一言答え、今にも倒れそうな危うい足取りで洗面台に向かう彼を何とも言えない表情で見届けた僕も、自分の準備を続けることにした。塔協会側から配布された緑を基調とした訓練服に袖を通す。塔に出現する白蜘蛛が落とす糸で編んだ訓練服は支給品に関わらず、攻撃の被害を軽減する逸品。
軽い、丈夫、汚れにくいの三拍子が揃った優れもの。身支度を整え、必要な道具を確認する。
「よし、これで準備完了」
部屋を出て廊下を歩いていると、他の訓練生たちとすれ違う。目が合えば軽く会釈し一陣の風のごとく去っていく。
共有空間に隣接した食堂では、あつあつ新鮮な朝食をお盆に盛り付けて気が合った者同士囲んで楽しそうに談笑している。僕も食堂の入口に向かい、重なったお盆を手に取る。
「おはようさん!記念の初日でバテちゃイカン!朝食はたーんとお食べ。ほらおばちゃんが沢山注いであげるよ!」
厨房に立った割烹着が最上に似合う食堂のおばちゃんが皿が溢れる位、乳白色の液体を注いだ。ご飯と漬物、大盛りの鶏白湯。ほとんど喧嘩腰なデカ盛り料理に僕の胃袋が耐え切るから不明。
「朝食は一日の始まりだから、たくさん食べて一日をしっかり元気を付けるんだよ!」
「あ……ありがとうございます!頑張ります!」
折角朝早くから調理してくれた厨房全域に聞こえる声量でお礼した僕は、少し早歩き気味に空いている席へ腰掛けた。
「いただきます」
手を合わせて、橋を取る。大盛りの鶏白湯を一口啜り、漬物とご飯を交互に口に運び、時折味噌汁で流し込む。…美味い、実母の愛情を感じる。家恋しい気分に似た物が募ってくる。
「(郷愁に駆られたら駄目だ!まだ塔に挑む資格も得ていない半人前が感情的になるな!丸一年考えに考えて自身で決めたことだろ⁉)」
僕は自分に喝を入れ、無心で食事を続ける。あっという間に朝食を平らげた。
「ごちそうさまでした!」
両手を合わせて食事を終えた後、食器類を片付けて食堂を後にした僕は自室に戻り荷物をまとめて玄関へ向かう。集合時間まで時間が残っているけど玄関では僕と同じ訓練生が続々と外へ飛び出す。
「おろ?純君、今から外へ向かうと?まだ集合時間まで時間は残っとーとに偉かねー」
片隅でしゃがみ込み、下駄箱から手に取った運動靴に履き替えようと靴紐を解き、履きやすくなった靴の中に脚を滑り込ますと突如、背後から空気が抜けた穏やかな声が聞こえてきた。
名前が呼ばれた僕はしゃがんだ姿勢のまま振り返る。背丈は百七十前後と低め、肩まで伸ばした艶やかな髪が波打ち、全身から乳の甘い香りを漂わせ、年上のお姉さん方から好かれそうな庇護欲をくすぐる形容が持ち味の童顔。彼の名前は『西光寺友彦』同室で過ごす同居人。
年齢は僕の一個下で十五、中学三年に受けた特性検査で高水準を出しその場で高校入学を辞退したと語る、外見に似合わない豪快な性格の持ち主。親しげで相手の懐にうまく入り込むが上手く、既に友達を何人も作った嬉しそうに就寝前話していた。
「おはよう、友彦君。うん、初日が一番大事って言うし少し早めに広場へ集合しておこうと思ってね」
靴紐を結びながら友彦君に答える。彼は感心そうに頷いた。
「ほうほう…さすが純君、真面目やなあ。そな心構え、僕っちも見習わんば」
そう言いながら彼もしゃがみこんで自分の運動靴を履き始めた。右手で靴紐を持ち、左手で緩まないように引っ張る。二つの紐を交差させて、輪を作り、さらにもう一度通してきつく結ぶ。
「おーいトモー、はよ行こうぜ!」
近くから彼を呼ぶ声が聞こえてくる。立ち上がって軽く飛び跳ねていた友彦君は即座に反応を返し、颯と離れていく背中を尻目に僕も立ち上がる。……それにしても、どうしてこの訓練生寮の住人は不思議系な人が多く集まっているのでそうか?自分もその一人ではないと願いたい。そんな疑問を抱きながら玄関を出て昨日の広場へ向かう。
そう威勢よく歩く僕だったが、同じ方角に向かう訓練生を見渡せば、既に友人を作り、楽しそうに談話しながら歩く姿が目に入る。彼らはお互いに肩を寄せ合い、冗談を交わし合いながら進んでいる。その光景に、僕はちょっぴし気を落とす。
「みんなもう友達ができたんだな...」
一人で歩く自分の姿が、なんだか虚しく感じられる。訓練初日という緊張感も手伝って、胸の奥に不安が広がっていく。
「弱気になるな、まだこれからだ」
自分に言い聞かせながら、ずんずん足を急がせる。まだ始まったばかり、これから仲間との絆を築いていけるはずだ。危く涙を落としそうになったが気合で励ましながら心の中で誓う。
広場に到着すると、すでに多くの訓練生が集まり、各自の準備を整えている。僕もその中に混じり、気持ちを切り替えて初日の訓練に集中することに決めた。
しばらくすると、昨日知り合った美少女、朝比奈さんが楽しそうに女子グループと話している姿が目に入る。彼女は周囲の人たちと笑顔で談笑しており、その明るい雰囲気が一瞬で場を和ませていた。顔立ちが整った他の女性陣の中心を飾る朝比奈さんの魅力が周囲を惹きつけてやまない。
ふと、彼女の目がこちらに向き、偶然目が合った。僕が反応する前に、なんと朝比奈さんが太陽の笑みを浮かべて手を振ってくれた。その仕草に心が温かくなるのを実感する。喜びに体を満たす。
僕も自然と微笑んで手を振り返す。
その後も訓練生たちは次々と寮から集結し、予定の時間になる頃には広場に二百人近くの訓練生が集まった。遅刻者は見受けられない。
「おはよう諸君、訓練初日にピッタリの天気日和だ。塔も祝福していることだろう」
姿を現した三船さんは手を腰に当てて威風堂々と立つ。
皺のない軍服に身を包んだ若き教官は全員を品定めするように観察した後、口を開く。
「――――」
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