第7話 心のありか

 そもそも横領に関して、彼に罪の意識はあまりなかった。

 わからなくもない。

 彼は盗ったお金を懐に入れていたとはいえ、払い込みというかたちで会社に戻していた。

 つまり、かたちを変えて会社に入れ直していただけ。

 しかも、払い込みとして自分が払っている金額の方が圧倒的に多いのだ。


 同情はする。

 会社の人たちも同情はしたのだろう。

 だからこそ、それまで警察沙汰にはなっていなかった。

 しかし、今回の件は違う。


 彼はもう払い込みをしていない。

 今、彼がお金を盗る理由はただひとつ。

 自分の借金返済のためだ。

 横領は、どんな理由があろうと犯罪である。


 私はゆっくりと息を吐き、彼に電話をかけた。

 数コール目で、彼は電話に出る。


 私はなるべくいつも通りの口調で世間話をした。

 電話をかけたのは、彼にこう言ってほしかったからだ。


「勘違いだった。実は昨日お金は払ってもらってたんだ」

「お金は今日無事に払ってもらったよ」


 どちらでもよかった。

 勘違いでも、一度は盗ったが正気に戻って会社に戻すことにしたでも。

 本当にどちらでもよかった。

「あ、そういえばさ、昨日言ってた未入金のお客さん、今日はお金持ってきた?」

 なるべく不自然にならない流れで私はそう聞いた。


 一瞬の沈黙が、やけに長く感じられた。


「ああ、あれか! それがまだなんだよ。ホント困るんだよな。期限があるのに」

 電話の向こうで、彼が滑らかな口調で言った。


 その瞬間、胸のあたりで何かがパキッと割れる音がした。

 ああ、心って、本当に胸のあたりにあったのか……。

 ぼんやりとした頭が、現実を拒絶し始め、一瞬思考がおかしくなる。


 そのあいだも、彼は流暢に何かしゃべっていた。

 なるほど、嘘ほど饒舌にしゃべるんだな……。

 自然と電話を握る手に力が入った。

 鼓動の音がうるさいほどに耳に響く。

 私はゆっくりと口を開いた。

「へぇ、そうなんだ。でもさ……」

 声は無意識のうちに低くなっていた。

「お客さんはあなたに直接お金を渡したって、言ってたみたいだよ」


 長い沈黙。

 私の言葉で、彼はすべてを察したようだった。


「ち、違う! 少し借りるだけで! もうちょっとだから! これ、利息分だけすぐ返さないと俺……!」

 明らかに狼狽えた彼の声が耳に届いた。


 だから……!

 思わず感情的に叫びそうになった。

 どうして困ったときの第一の行動が、友人や知人に頼ることじゃなく、何も知らない人からお金を盗ることになるの!?

 それが間違いだって、ここまで来てまだわからないの!?


 私は冷静になろうとゆっくり息を吐く。


「自分が、何してるかわかってる?」

 努めて冷静に言ったつもりだったが、声に怒りが滲んでいるのは自分でもわかった。

「犯罪だよ。本当にわかってる? 捕まりたいの?」

 私はそれだけ言うと、何も聞かず電話を切った。


 わかっていた。

 一度でも怒れば、怖がりな彼が二度と自分から連絡してくることはないと。

 そして、私ももう連絡する気はなかった。


 ひとりくらい彼のそばで支えなければと思っていた。

 けれど、それではダメだったのだ。

 私だけではない、ほかの友人も、会社の人たちも彼を支えようとした。

 その結果、彼はひとりで立てなくなってしまった。

 考えることをやめ、いつか誰かが何とかしてくれると、その場その場を取り繕って過ごすようになってしまった。


 落ちるところまで落ち、もう誰も頼れなくなったとき、彼はようやく自力で立ち上がろうとするのだろう。

 転がり落ちていく彼に、周りがいくら手を伸ばそうと、彼が止まろうとしなければどうすることもできないのだ。

 私はその日、彼の手を離した。


 電話を切った後、私は仕事をこなし、いつもと同じように帰路に就いた。

 電車に乗り込み、いつものように車窓から流れていく景色を見ていた。

 何も変わらないいつもの景色。

 ふいに視界が歪み、すべてが霞んだ。

 思わず笑いが込み上げる。


 一体何の涙だよ……。


 心のありかなど知らなかったが、ただ胸が痛かった。

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