第7話
アンジェリーナが父王に呼び出されたのはカトリーヌと一緒に眠るようになってから、三週間が経とうという頃だった。
その時にはすっかり、セドニアの皇太子の夜這いもすっかり無くなっていて睡眠不足も解消されている。
季節は春真っ盛りの四月から五月に変わろうとしていた。初夏に入り、日の光も穏やかなものから厳しいものになりつつあった。
「アンジェ。この間の夜にセドニアの皇太子殿がお前の部屋に忍び込んできたそうだな。本当か?」
執務室にアンジェリーナが入るなり、父王のヴィルヘルムが問いかけてきた。あまりに直球な質問の仕方に驚き、アンジェリーナは答えに詰まった。妹のカトリーヌは存外、抜け目がないらしい。
「…父様。妹から聞いたのですか?」
やっとの事で問い返すと父王はそうだがと頷いた。
「…ああ。やはり、カトリーヌの話は本当だったか。あの疾れ者(しれもの)め、皇太子でなかったらセドニアの皇帝に文句の一つでも言ったんだが」
「父様。そういうことはなるべく、穏便にしてくださいよ。ただでさえ、ルクセン王国、我が国は西と東にスルティアやセドニアといった大国に囲まれているのです。ちょっとした事で両国と仲違いしてしまったら取り返しのつかない事態になりかねません」
「…わかっている。我が国が危うい均衡の上で成り立っているのは。だが、静養中だというのに侍女ではなく、王女に手を出そうとしたのだ。これはさすがに許しがたい」
そうですねとアンジェリーナは頷いて同意を示した。その後、ヴィルヘルム王は第一王女のアンジェリーナにセドニア帝国の皇太子との婚約は白紙に戻すと告げた。そう、帝国の皇帝に申し渡すとも言ったのであった。
あれから、また一週間が過ぎた。セドニアの皇太子のアルバートからは抗議もなく、白紙案はすんなりと通過した。のように見えたが。
皇帝からは「バカ息子がしでかした事については謝罪はする。だから、白紙は撤回してほしい」と書状で返事があり、寸でのところで白紙案は無くなったのである。これには宰相や他の重臣たち、王たちも大いに呆れ返り、落胆していた。
やはり、あのセドニアの放蕩皇太子と我が国の王女を結婚させねばならないのかと。当の本人のアンジェリーナもこれには頭が痛い思いであった。何で、あんな遊び人でスケベな顔だけいい男と結婚しなければならないのか。
世の中、不公平にも程がある。そんな気持ちでため息をつきたくなった。
「…やあ、姉上。お久しぶりです」
兄弟の内、長男でこの国の王太子であるカイルが食堂にてアンジェリーナに挨拶をしてきた。後ろには弟のアンリやウェルシスもいる。
三人でどうしたのだろうと思っていたら、カイルとアンリがいきなり、アンジェリーナの手を握ってきた。「…アンジェ姉上!セドニアに行かないでください!」
泣きながら言ったのは次男のアンリであった。驚いて、どうしたのと聞いたらアンリは母のカトレア王妃から教えてもらったと言うのだ。隣にいるカイルやウェルシスもそうだと頷く。
「そうです。僕らはあんな放蕩者の皇太子殿との縁組みには反対です。母上も姉上が夜這いをかけられた事に怒っていました。いくらなんでも、ふざけていると」
アンリがそういい募るがアンジェリーナは頬がひくりとなる。どこで夜這いを覚えたんだ?というか、誰が教えた。
ちょっと、義母のカトレアに文句を言いたくなった。アンジェリーナがそう思ったのには気づかず、カイルは彼女の手を再び握って、膝まずいた。
「…姉上。セドニアに行くのだったら、僕の信用の置ける騎士を付けます。それと侍女も凶手の訓練を受けた者にも同行させますので。それを受け入れてくださったら、何も言いません」
カイルの言っている事に物騒さを感じてアンジェリーナはまた、ひくりと頬が痙攣するのを止められなかった。今の自分はかなり顔がひきつっているだろう。
それだけは確信できた。
「…カイル。騎士や武術の心得のある侍女を付けようとしてくれる気遣いは有り難いのだけど。かえって、セドニアの皇帝陛下の気分を害する事になると思うの。だから、気持ちだけを受け取っておくわ」
「…ですが、姉上」
「カイル。もう、このお話は終わりにしましょう。わかったわね?」
無理矢理、話を打ち切るとカイルやアンリ、ウェルシスは渋々、引き下がってくれたが。不満げな表情でこちらを見つめているのでアンジェリーナは内心、複雑ではあった。
セドニアの皇太子ことアルバートは自室のソファーに座って一人、窓の向こうの景色を眺めていた。だが、その表情は不機嫌きわまりないものだった。
さて、あの生意気な黄金の魔女殿をどうしてくれよう。父からは王女相手に婚約もしていないのに夜這いをかけるとは何事かと文書で叱責を受けた。何でも、ルクセンのヴィルヘルム王にあの魔女の妹が夜這いの件を報告していたというのだ。
セドニアから伴ってきた側近の調べによるとヴィルヘルム王はこのたびの一件により、アンジェリーナ王女との婚約を白紙に戻してほしいと父の皇帝に手紙で訴えたという。が、自分は何もやっていない、未遂で終わったのだと父に少し後で手紙を送ったら、今回は見逃すと返事がきた。
なので、婚約白紙は危ういところで撤回となったが。ふうとため息をついた。何故、立場的には弱いルクセンの王にこちらが気を使わなければならないのか。
と、蔑む気持ちが湧いてくる。だが、婚約も正式にしていないのに夜這いはさすがに段階を踏み越え過ぎた感が拭えない。
まあ、同じことをずっと考え続けていても意味はないが。
口角を上げて一人で笑う。さて、あの王女を手に入れるのにどうしようか。ゲームは今、始まったばかりだ。
アルバートは静かに立ち上がるとドアにゆっくりと歩み寄る。開けてみると、自身に忠実な部下が控えていた。
「…アルバート様。母君様から手紙が届いています。お読みくださいますよう」
「母上が?急用でもできたか」
「いえ。静養にしては長すぎる故、早くお帰りいただきたいと仰せでございまして。その旨をしたためられたお手紙だそうです」
恭しく、手紙を両手で部下は捧げ持った。アルバートはそれをゆっくりと受け取りこう言った。
「…ご苦労。返事は明後日までには書く。下がってよい」
「御意」
部下は静かに立ち上がるとその場を立ち去った。
アルバートは手紙を持ったままで部下を見送っていた。
アンジェリーナはふうとため息をついた。あのアルバート皇太子と顔を合わせるのは苦痛になっていたからだ。
食事や課題をやっている時などはさすがにやってはこないが。
義母のカトレアや父のヴィルヘルムたちの命により、アルバートとは一日に一度は顔を合わせないといけない。妹や弟たちはいい顔をしていないが。
仕方がないかとアンジェリーナは諦めるしかなかった。金の髪と銀の髪は対のようでいて素晴らしいなどと家臣や民たちは言っているらしいが。アンジェリーナにしてみれば、迷惑この上なかった。
早く、あの皇太子、セドニアに帰ってくれないかなと考えてしまう。
そんなことを思っていたら、扉が軽くノックする音が鳴る。何事だろうかと返事をすれば、扉を静かに開けて入ってきたのは侍女のシュリであった。
年はアンジェリーナよりも三歳上の二十一歳になる。髪は黒髪と薄茶色の瞳をしていてルクセン王国では珍しい色の持ち主だ。シュリはもともと東方にある島国の出身であった。
その島国には彼女と同じような髪や瞳の人々がたくさん暮らしているらしい。シュリは両親と兄の四人で暮らしていたと言っていた。今は王宮の敷地内にある使用人の寮で暮らしている。そんな彼女はアンジェリーナ付きの侍女として長年仕えていて、実母のシェラの事も知っていた。
「…姫様。王妃様からご伝言です。『息子のカイル王太子が失礼な事を言った。本当に申し訳ない』との事だそうで。お返事はいかがいたしましょう?」
シュリが冷静沈着な表情で述べる。伝言を聞いたアンジェリーナはとっさに、数日前のカイルの言っていた事を思い出した。
確か、セドニアには行ってほしくないとかもし行くなら、護衛で信頼のおける騎士や侍女を付けると言っていたか。
「わかったわ。じゃあ、こうお伝えして。『こちらこそ、気をお使わせしてしまって申し訳ありません。王太子のお気遣いには恐れ入るばかりです』と」
「かしこまりました。では、一旦失礼いたします」
そう言いながらシュリは部屋を再び出ていった。アンジェリーナはそれを見送りながら、そっとため息をついたのだった。
カトレアからの伝言があって以来、カイルや弟たちからあれやこれやと言われる事はめっきり無くなった。それにほっとしながら、アンジェリーナは朝食の席についた。彼女の斜め前には相も変わらず、セドニアの皇太子、アルバートが椅子に腰掛けてこちらを見ていた。
「…やあ、おはよう。アンジェリーナ姫」
「……おはようございます。アルバート皇太子」
朝っぱらから、なんでこの男と顔を合わせなければならないのか。アンジェリーナは思いきり、「あんたなんかお呼ばれじゃないのよ!」と叫びそうになるのをなんとかこらえた。
挨拶だけはにっこり笑顔で告げるとさっさと自身の席についた。
机の中央には既に国王のヴィルヘルムが座している。右隣に王妃のカトレア、左隣には王太子のカイルとなっていた。
カイルの隣にアルバート、次男のアンリ、さらに三男のウェルシスとなる。
カトレアの隣にアンジェリーナ、さらに左側にカトリーヌの二人が座していた。机には朝食が用意されており、スライスされた黒パンやきれいに盛り付けられて黒胡椒がベースのドレッシングがかかったサーモンサラダなどが並べられていた。野菜が細かく刻まれてたっぷりと入ったスープやいくつもの卵を使って作られたふわりとしたオムレツもある。デザートもオレンジやリンゴなど四種類ほどの果物が大きめの皿に乗せられていた。
飲み物はリンゴとレモンをすりおろした料理長特製の果実水と紅茶を侍女と侍従が用意している。水差しを持って待ち構えているようだ。
スープやオムレツなどは湯気を立てていていかにもおいしそうである。お腹が鳴りそうなのを我慢してアンジェリーナはフォークとナイフを手に取った。
隣のカトレアやカトリーヌの目の合図によりヴィルヘルムが頷いた。
「では、皆がそろったようだし。いただくとしようか」
よく通る声で彼が言うと朝食の時間が始まった。
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