第8話 ∞ 音楽家 坂本 隆一 ∞

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 急いで駆けつけてくれたムリプロの事務所の車に乗せられて、有希子さんが向かった先は、世界的に有名な音楽家坂本 隆一さんの日本での保養地の一つ。

 空気の綺麗な小高い丘の上に建っていた。


 和風の造りで、庭の中には川のような池があって高級な錦鯉が泳いでいた。

 赤っぽい色彩の橋が架かっていて、その上を平気で笑顔で渡る岡野 有希子さん。

「もうすぐ、憧れの坂本 隆一さんに会えるんだもの」

 声がすでに1トーン上になってウキウキしている。

「弥生さん、錦鯉がきれいだね。白っぽい金色のが多いけど、紅と白のも素敵」

 弥生がすかさずシャッターを切った。


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「さすがに隆一さんの豪邸はすごいね」

「時価数億は下らないらしいよ」

「すごいね」

 真咲さんも隣で目を見張っている。

「お金もあるところにはあるんだよね」

 みんなで顔を見合わせて笑った。


 趣味の良い、装飾品とごたごたしたガラクタが点在した住みごこちのよさそうな住まい。

 不気味などこか外国のお土産らしい「目」の置物を見て、気持ち悪いねと囁きあった。

 観葉植物が所々に置かれて、オリエンタルなムードが満点の渡り廊下。

 たくさんのギターに混じって、南国風の楽器が見え隠れする。どんな音がするんだろうね?

 あれはケーナっていう楽器なんだよ。音楽の仕事でそういうことに詳しい真咲さんがちょっと誇らしげに教えてくれる。


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 早速、グランドピアノの前で作曲に没頭している隆一さんの前に通された。

「はい」

 いつものクールで知的な大人の雰囲気があるTVのイメージそのままの坂本 隆一さんの笑顔があった。

「最後の楽曲をわたしのために提供してくださってありがとうございました」

 丁寧に挨拶する岡野 有希子さんの前で、坂本 隆一さんはおもむろにトレードマークのコートを脱いで、鷹の顔の模様の壁掛けに掛けた。

「死んじゃって、残念だね。淋しかったよ。また、会えるなんてね、思ってなかった」

 目尻の涙を指で拭いながら、精一杯の笑顔を見せてくださった教授。


「ところで、有希子ちゃんは確か絵を描くのが大好きだったよね? 大女優になった暁にはバカンスに南の島にひとりで行って、絵でものんびり描いて過ごしたいなんて、言ってなかったっけ?」

「あっ……覚えていてくれたんですね。嬉しいな。有希子」

「そうだったよね? いいものがあるから、ちょっと上まで来てみて」

「えっ? いいんですか」

 ますます笑顔で元気に、坂本 隆一さんの後について階段を上がっていく有希子さん。


 すっかり元気になっちゃったね。

 真咲さんが持ってきていた鷹のマークの栄養ドリンクを1本づつ分け合って飲んだ。

「疲れるね、真咲さん」

 二人でくすくすと笑いながら、後に続いて階段を上がった。

 二階の奧の部屋には、額縁がたくさん飾ってあった。

 あちこちで集められたらしい、珍しい一風変わった額縁───。


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「どれでも好きなのを持っていっていいよ」

「いいんですか?」

「うん。本当に絵の好きな人に、使ってもらえたらいいんだ」


 有希子さんは注意深く、全部の額縁を見た後、白っぽくてオリエンタル風の装飾が施された1枚の額縁を選んだ。

「それでいいの?」

「はい」

 素直に頷く有希子さんに。

「きみならその額縁にどんな絵を飾るの?」

「青い海と、白い建物───例えばトーマス・マックナイトさんみたいな異国情緒豊かな絵を飾りたいな」

「それもいいね。1昨年に地中海を旅行したけど、あちらの気候は暑くても日本みたいにむしむししてなくていいね。なんだかカラッとしてね。音楽も解放的だね」


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 尊敬と羨望が入り交じった瞳で、眩しそうに坂本 隆一さんの手を見つめている有希子さん。その瞳がとても綺麗だった。


「確か前に、トレント・リャドの絵を自分の家に飾りたいとか言ってなかったっけ」

 坂本 隆一さんがいいことを思い出したというように軽く目配せした。

「いいから、こっちに来てみて」

 坂本 隆一さんは、広い廊下の壁に掛けられた、白いシルクの布生地の覆いを勢いよく剥ぎ取った。

「あっ……」

 そこにはトレント・リャドの初期の名作「ジヴェルニーのバラ」(Roses Giverny)が飾られてあった。その隣には、「朝の光」(aiguamolls)「アルファビアの朝」(Vegetacion)「ライの薔薇」(L'Hay)の代表作が飾られていた。


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「素敵ですね、教授」

「こういう絵の描き方知ってる? お祭りのヨーヨーの入れ物のような風船の中に、色とりどりの絵の具を詰めて数メートル先から、キャンパスに向けて投げつけるんよ。こういう風に」

 坂本 教授がピッチャーマウンドに立った少年野球の選手のように、ボールを2階の壁に向かって投げつける真似をして見せた。

 目を輝かせて天然少女のように瞬きひとつせずに見とれる有希子さんと、はにかんだ笑顔で答える教授。


「それはそうと、きみに捧げたかった曲があるんだよ。今だったらもっといい曲があるんだ。今のきみの顔を見てひらめいた」

 すぐさま下に降りると、いともたやすく、即興で美しいMelodyのフレーズを弾いてみせた。


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「きみは本当はどういう楽曲を歌いたかったのかな?」

「坂本 隆一さんの、ガラスのように繊細で心がふるえるような、それでいて子供の心をどこか残したようなピュアな楽曲が大好きだったんです。それにオリエンタルな広大なアジアを感じさせる広がりのある曲に一度挑戦したかったんです」

「そんな感じでいいの?」

「あと、お願いしたいのは、前奏にオルゴールのような壊れそうに儚いMelodyと、鼓動のBeatのような時計の音を効果音として入れてもらえますか?」

 坂本 隆一さんはしばらく考えた後、

「おやすい御用だよ。今、いいアイディアを思いついた」

 と言い残して、自宅の隣のレコーディングスタジオに直行した。

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