第8話 † 美少女 女鹿 ひとみ †
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ついに来るべき月曜日がやってきた。
今日は女鹿 ひとみさんと初対面の日。
何だか黒板を写す手が震えてくる。
机の中に一通の青いレターが静かに眠っている。
橘 一郎君の死ぬ直前の熱い熱い想いの、結晶が弥生にも伝わってきてなんだか胸が熱くなる。
「如月さん」
「は……はいっ」
急に当てられて思わずドキンとしてしまう。
今は古文の時間───。
「P35の「雪のいと高う降りたるを」の最初の部分を朗読して下さい」
「はいっ……雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まいりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらふに、「少納言よ、
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香炉峯の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高く揚げたれば、わらはせ給う、」
「はい、そこまで。それでは金山さん、そこまでを訳して」
「……雪がとても高く降り積もっている……」
「その先は」
「すみません。予習忘れました」
「あなたこれで何回目なの」
古典の森田先生はいつものように深くタメ息を吐いてぐるっと教室中を見回す。
「この先の訳。分かる人」
誰も手を挙げない。
弥生、まっすぐに森田先生の目を見つめる。
これが弥生と森田先生との合図だ。
「それじゃあ、弥生さん。その先を訳して」
弥生、まっすぐに立ち上がってゆっくりと教室中に響く声で朗読する。
「雪が非常に高く降り積もっているのに、い
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つもと違って御格子を下ろして、炭櫃に火をおこして、物語などをして、女房たちが集まっておそばにひかえていると、「少納言よ、香炉峯の雪はいかがでしょう」と中宮様がおっしゃっているので、御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、中宮様はにっこりとお笑いになった」
弥生の朗読が終わると、教室中が静まり返る。この快感がたまらない。
「よろしい、如月さん」
森田先生が眼鏡の奧から、にっこりと微笑んでくれる。
「それでは、次。田畑さん、朗読をお願いします」
「はい。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思いこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」という。」
「それでは田畑さん、ここの「なほ、この宮の人には、さべきなめり」のところ訳できるかしら」
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森田先生は田畑さんのことを目に付けている。いつも予習をしてこないからだ。
「……」
「また予習をやってきていないの、田畑さん」
森田先生は眼鏡の奧から、鋭い目で田畑さんを上から下まで眺める。
田畑さんは少し悔しそうに下唇を噛んで項垂れている。
「仕方ない、如月さん訳して」
また弥生に白羽の矢が立った。
「はい。やはりこの宮にお仕えする女房としてはふさわしい人のようだ」
「よろしい。ついでにこの「さ」の活用は? 如月さん」
「ラ行変格活用体言体」
「よろしい如月さん、それでは次の試験も頑張って一番を取ってね」
「はいっ」
やっと長い授業が終わった。
机の中の手紙を鞄の中にしまう。
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「弥生さん、ラブレターなのそれ?」
クラス一の美少女。高見 香織が目ざとく見つけて聞く。
「ううん。届け物なの」
弥生。さっさと片づけをして教室を後にした。可愛い女の子はこういうところに本当に目ざといんだから☆
校門を出て少し行ったところで橘 一郎が待っていた。
「弥生さん、早く行きましょう」
橘 一郎に急かされるまま学校を後にした。
数十分歩いたところで。
「ほらほら、そこのバス停です」
橘 一郎が指さした。
そこにはすらっとした美しい一人の女子高校生が、バス停で一人で本を読みながらバスを待っていた。
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「あなたが女鹿 ひとみさん?」
弥生の声で、ふっと視線を上げた。
少し面長で頬が写真よりも少し痩けていて、まだあどけなさが目元に残っていて黒目がちの瞳に透明な滴がキラリと光っていた。
「あなたは……誰?」
白いカバーの文庫本をパタリと静かに閉じて弥生の顔を見つめた。
「巫女 弥生。隣町の大尊神社の住職の娘。はじめまして」
女鹿 ひとみさんは少し不思議そうな顔をしていた。
「私、巫女さんに呼び止められるようなこと何かありますか?」
ちょっと冷たい口調で切り返す。
「すみません。お尋ねしますが、何か最近、変わったことはないですか? 誰か周りの人が消えたとか、物が無くなったとか」
「あ……っ。ひょっとしたら何か知ってるんですか」
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女鹿 ひとみさんは、何か心当たりがあるように驚いた顔をして瞳を大きく瞬かせた。
「実は私、ある人と最近お知り合いになったんです」
弥生から切り出す。女鹿 ひとみさんは少し訝しそうな顔をしながら、目を大きく興味ありげに輝かせた。
「一体、誰かしら……」
大きな目をくりくりっと動かしながら尋ねる口調はどことなく大人びていて、落ち着いた雰囲気が周りの人の心を和ませる。
「えっと……ちょっと言い出しにくいんですけど。橘 一郎くんって御存知ですか」
「橘…一郎君?あっ……クラブの先輩に確かいたと思います。優しい先輩でした」
「その橘 一郎くんが一週間ほど前に交通事故で亡くなったんです」
「まあ……」
女鹿 ひとみさんは手で顔を覆った。
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「やさしい先輩でした……それが、こんな事になるなんて」
彼女は可憐な顔を両手に埋めて泣いた。
一呼吸おいてから切り出す。
「あなたは死後の世界があることを信じますか?」
ここは橘 一郎君のためにも伝えてあげなくては。
「えっ?」
女鹿 ひとみさんは顔を静かに上げ、泣きはらした赤い目で弥生を見た。
「実は私は霊能力があって霊が見えるし話しも出来るんです」
「霊とですか?」
「信じるも信じないも勝手ですが、これからの事件解決にどうしてもあなたの力がいるんです」
「私の力が?」
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女鹿 ひとみさんは少し困ったような目をした。
「それで……橘 一郎さんはまだこの世に存在するんですか」
「存在します。信じるも信じないも自由ですが」
「それなら、今。橘さんに会わせてください」
ひとみさんの目は真剣だった。
「橘 一郎君はここにいます」
弥生はバス停の横を指さした。
「さあ一郎君、なにかしゃべって」
女鹿 ひとみさんの目は大きく見開かれた。
「ひとみさん僕はあなたのことがずっと好きでした」
「わっ……」
驚いた様子のひとみさんに橘 一郎は畳みかけるように言う。
「そして僕、目撃したんです。あなたが付き合っている人が白いワゴン車で連れ去られるのを」
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「透明人間だと思えばいいわけね」
しばらく間を置いてから、ひとみさんは驚きを必死で隠すようにそう言った。
「きっと真田先生のことを言ってるんだわ」
「その先生の話を聞いてもいいですか」
「いいわ。私の家庭教師をして下さっていて、大学の研究助手をしているの」
「何か連れ去られるような心当たりはありませんか?」
「そういえば一番最後に会った時に、重大な研究テーマが解明されたとかなんとか言ってたような気がします」
「その研究テーマに関係があるのかな」
「さあ……」
「家庭教師をされていただけの関係なので、それ以上は分かりません。お付き合いするようになったのはごく最近のことです」
「連れ去られたのはご存じでした?」
女鹿 ひとみさんは困ったように目を伏せた。
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「ここしばらく電話がつながらないんです」
「やっぱり」
事件の始まりだ。
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