星屑の伝説ミール・アルバ
塚葉アオ
第一部 前半
始まり
第1話
フィアの最初の記憶は、およそ七歳の頃に始まった。
しかし、「およそ」という言葉が示す通り、それは非常に曖昧で、彼女自身もその確かさを信じることができなかった。
彼女の心の中には、まるで霧に包まれたように、はっきりとした輪郭を持たない思い出が漂っている。
彼女はその時、自分が七歳であることさえ意識していなかった。
周囲の大人たちが口にする「七歳」という言葉は、まるで遠い国の言葉のように響き、無関心な耳を通り過ぎていった。
記憶の奥深くを探っても、そこには「過去の経験」と呼べるものは影も形もなく、空虚な闇だけが広がっていた。
その当時のフィアは、周囲の色彩や音、匂いを感じることはできても、自分の「名前」を思い出すことができなかった。
彼女は、自分が誰であるのか、何者であるのか、そしてここがどこであるのか、全てが謎に包まれていた。
(およそ七歳の)フィアは空城で目を覚まして、身体を起こした。
彼女は覚醒したばかりで、眠気がうっすらと残り、目元には重みを感じていた。
まどろみの中に引き戻そうとするかのように、瞼が密着しようとしていた。
しかし、だるさはそれほど感じなかった。
それでも、フィアは心の奥底で「起きないといけない」と思った。
特に理由はない。
ただ、もう一度眠ろうという気にはならなかった。
なぜなら、目を覚ましたこの瞬間が、何か特別な意味を持っているように感じたからだ。
彼女は目を覚ましてから、すぐに隣で眠る一人の少女を見た。
その少女は、柔らかな顔立ちをしていて、長い髪が月明かりに照らされて輝いていた。
「だれだろう?」とフィアは考え、心の中に小さな疑問が芽生えた。
彼女は周りを見渡す。
目の前には、大きな建物が一つあった。
銀色に光るその建造物は、まるで夢の中から抜け出してきたかのような、お城のようだった。
夜空には無数の星たちが輝き、彼女の心を引きつける。
それぞれの星が、彼女に何かを語りかけているかのように思えた。
しかし、その美しい景色とは裏腹に、周りは土や木、川などがすべて指でつまんで取り除かれたかのように、何もない空間が広がっていた。
そのバッサリと切られた下は、崖のように見え、彼女の心に小さな恐怖を呼び起こす。
冷たい風が吹き抜け、白い霧が流れ、まるで彼女の周囲を包み込むように漂っていた。
『そこは、空に浮かぶ島なのだから』
フィアは落ち着いて思った。
ここはどこなのだろう?
私は誰なのだろう?
彼女はその問いを心の中で反芻しながら、隣で静かに眠る長髪の少女の肩を揺すった。
この子なら何か知っているのではないかと、漠然とした期待を抱いていた。
特に理由はない。
ただ、何かを知っているような気がしただけだった。
揺すられた少女は、微動だにせず、静かに夢の中に沈んでいた。
彼女もまた、フィアと同じようにこの場で目覚め、名前を知らず、周囲の環境に戸惑っているようだった。
彼女の顔には、無防備な眠りが漂い、どこか親しみを感じさせる。
しかし、その表情の裏には、同じように不安を抱えているのだろう。
フィアはその瞬間、彼女を見つめながら、彼女のことを忘れてはいけない人のように思えた。
名前も知らない相手でありながら、何か特別な絆があるような気がした。
忘れてはならないはずなのに、心の奥底で「忘れている」と感じるのは、不思議な感覚だった。
それでも、フィアの心の中には、彼女の近くにいなければならないという強い直感があった。
冷たい風が、彼女たちの周りを吹き抜け、フィアの髪を優しく揺らした。
彼女の心臓は、少しずつ鼓動を速め、何かが起こる予感に満ちていた。
「離れてはいけない」と、その直感が告げていた。
彼女は、目の前にいる少女が、自分にとって大切な存在であると確信し、隣に寄り添うように身体を寄せた。
『後に彼女の名はミラという』
フィアはしばらくの間、名前の知らない相手をどう呼べばいいのか悩んだ。
しかし、次第にそれがひどく重要ではないように思えてきた。
彼女もまた、私と同じように自身のことも何も分からないのだから。
私が「どう呼べばいいのか」と考えると、相手も同じように戸惑っているのだろうと、心のどこかで感じていた。
その時、ミラは空を見上げていた。
彼女の目は無数の星々に吸い込まれるように、輝いていた。
まるで、星たちが彼女に何かを語りかけているかのようだった。
彼女の唇から漏れた言葉は、柔らかな風に乗ってフィアの耳に届く。
「お城、なのかな?」と、彼女は呟いた。
その声は、どこか夢見心地で、彼女自身もその答えを求めているように感じられた。
フィアはミラの言葉に心を動かされた。
彼女の目の前にそびえ立つ銀色の建物は、確かにお城のように見えた。
壮大な塔や尖塔が星空に向かって伸び、月の光に照らされて、まるで幻想的な世界の一部であるかのように輝いていた。
しかし、その美しさは同時に不安も呼び起こした。
彼女たちが今いる場所が、果たしてどこなのか、何が待ち受けているのか全く分からなかったからだ。
「お城かもしれないね」とフィアは静かに返した。
心の中に秘めた不安を隠すように、彼女は微笑んだ。
ミラの隣にいることで、彼女の心に少しだけ安心感が広がった。
二人の間に流れる静かな時間が、彼女たちを繋いでいるように思えた。
「夜でお城」とミラは呟く。
「どうしたの?」
「ほかにはなにもないね。星がたくさんあるぐらい。なのかな?」
「そうだね」
「きれいな星だね」
「うん」
ミラは空を眺めていた。
その姿勢は、夜空に高く飛んでいくような趣があった。
彼女の目は、無数の輝く星たちに向けられ、それらに触れようとしているかのように見えた。
たんに見つめているだけのはずなのに、その表情には何か神秘的な力が宿っているように感じられた。
星の光が彼女の頬を柔らかく照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
フィアは目の前のありさまに見惚れた。
「ここに、いつからいるんだろう?」
「わたしにはわからない」とフィアはミラの呟きを聞いて、そう口にした。
「わかったり、する?」
「わからない」とミラは優しく首を振った。
「でも」
「でも、なに?」
「ううん。わからない。ここが、どこなのかも。いつから、わたしたちがここにいるのかも」
「……うん」
二人は空の下で、訳もなく天を見上げる鳥のように黙ってしまった。
夜の静けさが周囲を包み込み、星々だけが彼女たちの存在を見守っているかのようだった。
冷たい風が時折吹き抜け、髪を揺らす。
その感触は、この広い空間が彼女たちに何かを語りかけているように思わせた。
二人は星を眺めながら、お互いに次の言葉を探す。
どちらが先に話し出すのか、心の中で競い合うように、沈黙が続いた。
まさかだが、それは星が気まぐれに語りかけているのだろうか?
それはもしかしたら、弱い肌を撫でるちょっぴり冷たい風かもしれない。
光沢のある金属製のバケツから溢れ出てきたような白い雲なのかもしれない。
あるいは、私たちを遠くから密かにじっと見続けている精霊(自然を住処とする霊)だったりするのかもしれない。
ミラが先に言葉を発した。
「行ってみようか」と彼女は言う。
「えっと、どこに?」
フィアには見当がつかなかった。
周囲を見渡しても、どこへ向かうべきか全く分からない。
「わからない。でも、わたしたちは、ここにはずっとはいられない」とミラは続けた。
その声には、少しの決意が滲んでいた。
「いられない。ずっとはいられない」とフィアはそれを反復する。
「うん、わかった」
どこへ行くかは分からないけれど、二人が共にいる限り、何か素晴らしいことが待っているような気がした。
ミラは行こうとする。
行き先には、大きな扉が待ち構えていた。
銀色の建物。
フィアは慌ててミラの腕を掴む。
「ねえ、一緒にいていい?」と彼女は尋ねた。
「うん、もちろん」
フィアはミラの左手を握った。
それはとても小さな手だった。
小さくて、子供らしくて、丸みと柔らかさのある手。
触れた瞬間、彼女の心に温かさが広がり、安心感が増した。
フィアの手もまたそうだった。
二人は、互いの手の温もりを感じながら、その小さな身体を寄せ合わせた。
では、どうして手を取ろうとしたのか。
二人は小さな身体で、お互いの弱さを知っていた。
不安があったのだ。
記憶が無いことも、まさしくその要因なのだろう。
どんな未来が待ち受けているのか分からないが、一緒にいることで少しでも心強くなれる気がした。
一つの立派な壁のごとく、その見上げるほど大きな扉は、子供の手では開きそうにはなかった。
冷ややかな風が吹く中、扉は微動だにしていない。
しかし、ミラには開けることができた。
思ったよりもその扉は軽かったのだ。
あたりまえだが、「重みがない」なんてことはありはしない。
高さもあり、厚みもあったが、「子供の手」でも確かに開けられる一枚の扉だった。
ときおり吹く風には無理でも、子供だとしても開けられる扉だった。
建物に入ると、そこにはこれまでどおり、二人には知りようがない空間が広がっていた。
周囲は薄暗く、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
「覚え」がひとつとしてなかった。
ゆえに、お互いは確認しあう。
「ねえ、ここ知ってる?」
「ううん、わからない」とミラが答える。
言葉は冒険することなく、長く響くことがなかった。
人の姿はなかった。
ただ、静寂が広がり、空気は重く感じられた。
フィアは少し身を縮めた。
周囲の壁は、冷たい石でできていて、時折、微かな音が反響する。
彼女たちの足音が、その静けさを破る唯一の音だった。
このお城の大広間は、静かに二人を待っていたようだった。
玄関扉の先には、無数の柱が整然と並び、その威厳に圧倒される。
天井は高く、暗闇に溶け込んでいくように広がっている。
明かりはなく、ただ静寂が支配する空間だった。
柱の影には、何か古い歴史や物語が眠っているかのように感じられ、フィアは思わず息を飲んだ。
記憶がなくても、ミラは歩き出す。
彼女の小さな足音が、静かな大広間に響き渡る。
フィアはその背中を見つめながら、彼女の手をぎゅっと握り締め、離れないように努めた。
心の中には不安が渦巻いているが、それを言葉にする勇気はまだ持てなかった。
ミラの小さな手を握りしめることで、彼女は少しだけ心の安らぎを感じた
すると、ミラは何かを感じたのか、振り返ってフィアを見つめた。
「だいじょうぶ?」と彼女は優しく尋ねる。
その目には、心配と温かさが交じっていた。
「だいじょうぶ」とフィアは答える。
言葉は短いが、彼女の心にはミラへの感謝が込められていた。
彼女の存在が、どれほど心強いかを実感していた。
「ひとがいないね」とミラは続けて言った。
フィアは頷く。
「とてもしずか」とミラは周りに目をやる。
「わたしたち、だけなのかな?」とフィアは呟いた。
言葉にした瞬間、彼女の心に重い影が落ちる。
この世界には誰もいなくて、生き物さえいない。
無口なお城と、私たちだけが存在する。
周囲を囲む冷たい石壁が、二人の存在を一層孤独に感じさせる。
「誰もいないのかな? どうしたらいいんだろ?」
フィアはふと、ここがまるで一夜の夢の中にいるような非現実的な世界だと気づいた。
楽しそうで、とても恐ろしく、さびしい世界。
星たちが煌めき、どこか遠くで私たちを見守っているように思えたが、その美しさが逆に不安を引き立てる。
「きっと、いつかは怖いものが襲ってくる」と、心の奥で囁く声がした。
数え切れないほどの黒い手が伸びてくる。
丸呑みするように、私たちを飲み込んでしまうのではないかという恐怖が、フィアの心を締めつけた。
「わたしたち」とミラは呟いた。
「どうなんだろ。でも、そう見える。だれもいない。とても静かで、暗くて、寒い」
「うん」とフィアは口を閉じた。
彼女の心には、ミラの言葉が重く響いていた。
周囲が、二人を包み込むように広がっている。
この大広間が二人の存在を隠すかのように思えた。
「怖い?」とミラが尋ねる。
その声は、ずいぶんと大人びて聞こえた。
フィアはその問いに対して、思わず身体を縮めてしまった。
だからか、「うん」と彼女はミラの手を握り、身体に引き寄せて首を縦に振る。
ひとりになるとダメになる、と感じたからだ。
「離れないようにしないとね」とミラが言った。
その言葉は、まるで相手の心に気付いたように響いた。
彼女の目には、少しの不安と強い決意が宿っていた。
二人は庭を見つめてから、別の通路を行くことにした。
ほんとうなら、庭の先にある道を進んでもよかったのだろう。
だが、どこに行くにしても、そこに意味があるのかと思うと、近くにある通路でよかった。
ざわめく動物も虫もいない、置物のような庭だった。
薄暗い空間の中で、色彩を失った花々が無表情に佇んでいる。
二人はそれから周囲を確かめながら歩いていると、通路の先に人の姿を見つけた。
二人組の若い男女が歩いていて、彼らはその大きな背を向けて、どこかへ行こうとしている。
ミラは目にして、まず言った。
「わたしたちのほかにもいるみたい」
フィアは頷く。
「うん」と言葉を返した。
しかし、妙に縮こまっている。
「どうしたの?」
「ひと、なんだよね?」
フィアは小さな声で呟いた。
言葉が恐れを増幅させるように感じられた。
ミラは先に目をやり、確認するように視線を向けた。
彼女の目には、少しの期待と戸惑いが混じっていた。
「人だと思うよ」と答える。
その声には、彼女なりの確信が込められていた。
フィアはこれからの未来を頭に浮かべていた。
若い男女が、どういった存在であるのか考え込む。
この理解できない世界にいる住人は、わたしたちをどう迎えるのか。
ここは、夢のなか。
本当にあれは人間なのか。
正常とはいえない。
この世界の中で、彼女たちの記憶は霧のように消え去っている。
気持ちが雨風に吹かれたように、どうしても落ち着かなかった。
ミラが誘う。
彼女がいるなら、問題ない。
フィアはそう考える。
彼女は夢ではない。
そこにいるのだから。
「行こう」とミラが言い、若い男女に声をかける。
フィアはその時、何も言えなかった。
どうしても、言葉を飲み込んでしまったのだ。
「あの、ここはどこなんでしょうか?」
ミラは顔を上げて問いかける。
その声には、少しの緊張と期待が混じっていた。
彼女の目は、真剣そのもので、相手の反応を待ちわびている。
若い男女は一瞬振り返り、ミラの問いに対して驚いたような表情を浮かべた。
フィアはその様子を見つめながら、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
彼らが何を答えるのか、どんな反応を示すのか、期待と不安が交錯する。
静寂の中に、ミラの問いが響き渡る。
果たして、彼らはどんな答えをくれるのだろうか。
フィアはその瞬間、自分たちの運命が大きく変わるかもしれないと感じていた。
「ねえ、この子たちって」と、橙色の瞳を持つ白髪の女が小さな間を置いてそう言った。
その言葉には、何か心当たりのある感触が含まれているように感じられた。
「目を覚ましたら、知らない場所にいて」とミラが続ける。
彼女の声は、少し震えていた。
「みたいだな」と背の高い男は言う。
その声には、少し冷たい印象があった。
彼の態度からは、二人の状況を少し理解しているような余裕が見て取れる。
「あの……」
ミラは思わず声を出すが、言葉が続かない。
「助けてあげよう」と女は男に向けて意見を述べているようだった。
控えめの圧があった。
「最後まで面倒見れるのか?」と男が問いかける。
その言葉には、わずかな疑念が混じっているようで、フィアは背筋が寒くなった。
「それは……」
橙色の瞳の女は、男の放った一言で黙ってしまった。
彼女の表情には、一瞬の戸惑いが浮かんだが、すぐに真剣な表情に戻る。
フィアは、その沈黙の中に、彼らの間に何か微妙な緊張感が漂っていることを感じた。
そして、ミラはそんな男女の様子に言葉を述べることができなくなった。
邪魔をしているかのように思えた。
何か言いたい気持ちが渦巻いていたが、それを言葉にすることができなかった。
「ごめんね」と女は不意に口を開き、しゃがんだ。
「でも、きっと、きみたちなら大丈夫。生きて、自分を信じて、進むんだ。光は消えたりしないから」
「光……?」
ミラはその言葉に戸惑った。
何か特別な意味が込められているように感じられたが、その真意には気づけなかった。
「ごめんね」と女は再び言った。
彼女の声には、どこか切なさが滲んでいた。
フィアはその表情を見つめ、何かを感じ取ろうとしたが、うまく言葉にできなかった。
若い男女の二人組は、含みのある言葉を残して、その場から逃げるように去っていった。
ミラは数秒と固まってから、その後も彼らを止めようとはしなかった。
フィアも止めることができなかった。
最善の手段としては、声を大きくして呼び止めてもよかったのだろう。
それでも声を上げなかったのは――しっかりその心で理解している、とまではいかないが――幼き二人は大人二人に避けられているように思えたからだった。
それからというもの、二人は城の中を歩いた。
人は自分たちだけではなかった。
あの二人組と同じように、この世界には住人がいる。
通路をひたむきに歩く影たちは知らない生き物ではなかった。
フィアの考える、恐れるべき黒い手ではない。
しかし、それが動く影であり「人」だといっても、時に見せる態度は始めの二人と比べるとまるで違っていた。
始めの二人は、どこか優しさがあり、こちらを憐れむような目をしていた。
浮かんでは消えた言葉も、彼らの内に思いやりを抱えているように感じられた。
だが、その後の人たちはそうではない。
冷たい視線で、わたしたちを見ていた。
フィアにはそう思えた。
ミラも同じようだった。
彼女の表情には、心配が滲んでいる。
「変だよね」とフィアは、彼らが去るのを見て感じたことを口にする。
「そうだね」とミラは穏やかな声で言うが、その言葉にはどこか影が宿っていた。
彼女の心に不安が広がっていることを、フィアは敏感に感じ取った。
「どうして、あの人たちは私たちを見て、あんな目をしたのかな?」
フィアは小さく呟いた。
避けられているのは、どの人も似たような感じがあった。
ミラが声をかけて状況を説明していくと、ほとんどの人がその顔を歪める。
それはまるで、汚れた犬でも見るような目をしていた。
冷めた視線が、必死に助けを求める彼女たちの存在を無視するかのように感じられた。
とにかく、幼い子供に向けるような目ではなかった。
警戒心と不安が混じった目。
助けを求めても、誰も応じてはくれなかった。
歓迎されていない。
この世界では、わたしたちはそういう立ち位置にいる。
時が経つにつれて、心がより震えていることにフィアは気付く。
ミラの小さな手を握っているあいだ、彼女はそんなことを考えもしなかった。
それでも、こうして気付いたのは、周囲の環境が彼女に与える影響が大きかったからだろう。
フィアは数回立ち止まり、安定を求める。
息を求めて、水の中から出て、十分な呼吸をするように。
対して、ミラには動揺している様子は見受けられなかった。
実際のところ、不安や恐れがあるのは確かだと思う。
しかし、それは表面には出ていなかった。
フィアには、彼女の不安の欠片を見つけられなかった。
それは、自分の内面に目を向けすぎていたからかもしれない。
あらゆるものが邪魔をして、一杯一杯だったのかもしれない。
幼い子供だろうと、ひょっとすると大人よりも子供のほうが人の顔をよく見ているものだ。
フィアだって、そのひとりのはずだ。
一面を捉えるのはなかなか難しいものである。
周囲の視線が、彼女の心をさらに締め付けていく。
今度は珍しくもミラが立ち止まった。
彼女は建物の隙間から遠くの空を見上げている。
その表情には、何か思索に耽っているような静けさが漂っていた。
そして、「星が、遠くになった?」と彼女はとてもしずかに呟く。
フィアはそれを聞いて、ミラの真似でもするように身体を向けた。
首を曲げて、その小さな頭をやや上に傾ける。
「星が遠くなった?」と問い返す。
ミラは少し間を置く。
「そんな気がする。なんとなくだけど。小さくなった気がする」
「そうかな?」
フィアは自分の目を信じるように、空を見つめ直す。
星々はいつもと変わらないように見えるが、ミラの言葉が心に引っかかる。
「それに雲が……」
ミラは続けようとしたが、言葉を途中で切った。
「雲?」
フィアは疑問を抱く。
空に広がる雲が、何か特別な意味を持つのかと考えた。
「いや、なんでもない。いこっか」
ミラは微笑み、フィアの手を優しく引いた。
その笑顔には、彼女なりの強さが宿っているように思えた。
ミラの覚えた違和感は、「大きな丸い星が遠く離れた気がする」というものだった。
それは考えてみれば、彼女の感覚は間違ってはいないのだろう。
感受性が鋭いのかもしれない。
なぜなら、彼女たちが少し前に空を見上げていた頃といえば、空城――空に浮かぶ島の上で二人揃って見上げていたのだから。
現在の彼女たちは、海城――海と城壁に囲まれた島の上にある一つの城の中にいる。
星銀の城。
空の上と地上、二つの差はたかが知れている距離であり、そのあいだで見える星の大きさなど変わらない。
それでもそこに差があるのは事実である。
これは、子供ゆえに抱けたもの、と考えるべきか。
ミラは星の大きさを気にしたかと思うと、それからはそこまで星空を気にしている様子を見せなかった。
それよりも今の状態について、彼女は頭が働いているようだった。
「人が居ないね」と彼女は呟いてから、その言葉を飲み込むように話すのをやめた。
その表情には、何か考え込んでいるような深い思索が浮かんでいた。
次に、彼女が疑問を感じて話したのは、「扉は、どこも鍵がかかっている」というものだった。
二人は通路を歩きながら、城に存在する「扉」に触れてみた。
冷たい金属の感触が指先に伝わる。
誰か部屋の奥にいるのではないか、と期待を抱いていたが、どこもかしこも扉の鍵が掛かっていることがわかった。
その小さな扉は、子供の手では開けられそうにはなかった。
大人でも無理そうだった。
まるで、開けることが許されない扉のようである。
フィアはその光景を目にしながら、心の中に重苦しい気持ちが広がるのを感じた。
「どれも開かないね」
『それは特異な魔法がかけられた扉だ。それぞれ、その先は別世界へと繋がっている』
あるとき、ミラは言った。
「すこし、疲れた?」
「……うん」とフィアは小さく答える。
その言葉には、心の底からの疲労が滲んでいた。
ミラはフィアの様子を心配し、彼女の元気がなくなっていることに気付いた。
理由があるとすれば、長く歩き続けたことが大きいのだろう。
この不思議な環境が影響しているのも間違いない。
幼い身体にとって、不安を抱えながら周囲に脅えて動き続けるのは、どうしても無理がある。
どれだけ近くに安心できる存在がいたとしても、それは変わらない。
フィアの心の拠り所は、今のところミラの小さな手だけだった。
彼女には両親の記憶はないが、ミラの存在がまるで親の手のように感じられる。
二人は身体を休める場所を探した。
そして偶然にも、彼女たちの手で開けられる扉を見つけ出す。
大人を追いかけて、扉を開けると、夜の空からいくつもの星の明かりが差し込む部屋が広がっていた。
誰もいない。
見間違いだったのか?
柔らかな光が部屋を包み込んでいる。
彼女たちは壁を背にして腰を下ろし、すこしばかり休もうという話になった。
しばらくして、いつの間にか二人は眠りに落ちていた。
星のささやきが耳元で優しく響く中、彼女たちの心は静かな夢の世界へと誘われていく。
夢の中では、不安や恐れから解放され、自由に飛び回ることができた。
彼女たちは長い間、眠っていた。
それでも世界は「夜」だった。
目覚めると、目の前には依然として星明かりが輝いている。
爽やかな朝を迎えてはいない。
『知らないはずだ。今日は、まさに夜の日である』
すると、ミラはもっと人を探してみようと提案する。
「わたしたちは、ここにはずっとはいられない」と彼女は言った。
その言葉には、自ら運命を切り開こうという姿勢が感じられた。
「ここで、始めに会った人を探したほうが、いいのかな?」とミラは続けた。
「始めにあった人って、あのふたり?」
フィアは思い出した。
彼女はここに訪れたばかりの頃の記憶が鮮明に蘇る。
目を覚ましたあと、隣には静かに眠るミラがいて、二人で夜空とお城を見つめていた。
あの瞬間の不安と期待が、いまでも心に残っている。
「あの人たちなら、助けてくれるような気がする」とミラは言った。
「うん」とフィアも頷く。
彼女は身体を休めたおかげで、気力を取り戻していた。
これから数時間ほどは歩いていけるだろう。
疲れたら、また休憩をとればいい。
フィアはミラの手をしっかりと握り、心を落ち着かせてから覚悟を決める。
たとえ怖いものが出てこようとも大丈夫だ。
彼女たちは共にいるのだから。
ミラの小さな手の温もりが、彼女の心に勇気を与えてくれる。
二人が話を進めていると、不運というべきか、一人の男が別の通路から近づいてきていた。
彼は、子供たちの噂を聞きつけて探していた。
幼き二人を視界に捉えたようで、その締りのなかった表情を変える。
無邪気さの中に潜む特別な力を敏感に感じ取り、これが求めていたものだと確信する。
内なる欲望が彼を駆り立てた。
「どうしたんだ。お嬢ちゃんたち」と男は言った。
彼の声は、どこか低く、響くように耳に届く。
若干だけ足音を忍ばせて近付いていたため、二人は彼の存在に気付くのが遅れた。
意図してできあがった静寂を破るような話し方だった。
「あっ」とフィアは声を出せないほどに驚いていた。
自分よりも背の高い男が、気配もなく急に現れたので、心が追いつかなかった。
彼女は驚きのあまり無意識的にミラに身体を寄せる。
ミラもまた、フィアの反応に驚きつつ、男を警戒するように視線を向けた。
男の表情には、幼い二人に対する好奇心と少しの困惑が交じっているように見えた。
「おっとと、驚かせちまったか。わるいわるい」と男は慌てるように声を上げる。
「いえ」とミラはフィアを見て言った。
彼女は冷静に視線を戻し、「あの、聞きたいことがあって」と続ける。
その声には、少しの緊張が隠されていた。
「聞きたいこと? それは、『ここがどこか』か?」
男は、まるで彼女たちの心の内を見透かすように言った。
「はい」とミラは頷く。
「誰も教えてはくれなかったのか。それはかわいそうに。おそらくその様子だと、誰も話しかけてくれる人はいなかったんだろ。こんな場所でも、魔法使いというのは異質だもんな」
男は言い、少し悲しそうな目を向けた。
「魔法使い?」
フィアはその言葉に反応する。
彼女の心の中に、興味と不安が交錯した。
「ああ、とにかく、ここがどういう場所なのか、教えてほしいんだろ? なら俺が教えてやるよ」
「ほんとう?」
ミラは驚きと期待の入り混じった声で尋ねた。
まるで石でも積み重ねるように慎重な口調だった。
男は少し笑みを浮かべ、「ああ、嘘は言わないさ。ここは特別な魔法がかけられた恐ろしい場所なんだ。お前たちが見たものは、その一部に過ぎない」と説明を始めた。
「だから、安心して、俺について来な。危険がいっぱいだから、お嬢ちゃんたちには理解できないことも多い。俺が、お前たちの親代わりになってやる。大人しくしていれば、ちゃんと教えてあげるから」
「危険」とミラは繰り返した。
男はミラとフィアの様子を伺った。
「歩きながらでも、少しずつ教えてやるよ」と、彼は行き先が決まっているらしく、来た道を戻ろうとする。
「お前たちには、いい勉強になるだろう。生き残るためのな」
ミラはそんな男の背中を見つめながら、次にフィアを気にした。
彼女が怯えているのに気付く。
「どうしたの?」とミラは優しい声で尋ねる。
「いかないほうが、いいと思う」とフィアは小さな声で答えた。
彼女の心には恐怖が渦巻いていて、何かが間違っている気がしてならなかった。
「……そうだよね」とミラは同意する。
男に従うべきではないと感じていた。
二人は捻り出すように「それならどうしよう」とその場で考える。
目の前に現れた男は、この世界を含めて今まで以上に怪しさに溢れているのだ。
自ら進んで話しかけてきた彼は、これまで出会ってきた人とは対応が異なる。
それを知って、「その後ろをついていく」というのはどうなのだろう。
そこには目には見えない怖さがあった。
ミラはフィアに身体の正面を向けて、自分の気持ちを伝えようとした。
隙をついて離れてしまうのはどうだろうと。
そうすれば、この男から逃げることができるはずだ。
だが、物事はそう上手くはいかない。
小声で話そうとしていると、男がその大きな手でミラの細い肩を掴んだ。
その力は強く、ミラは驚きと同時に恐怖を感じた。
男はもう片方の手に軍用ナイフを持っていた。
その刃は月明かりに反射し、鋭い光を放っている。
「素直についてこないと、痛い思いをする羽目になるぞ」と男は言った。
その声には冷たい威圧感が漂い、フィアの心を凍りつかせた。
「危険がいっぱいだって言っただろ? それをどう受け止めるかは、お前たち次第だ」
二人は恐怖で足がすくんだ。
突きつけられた鋭利な物が何であるのかを二人は知っている。
自分の名前を覚えていなくても、それは人を傷付けることを可能とする刃物だ。
恐怖すべき対象であるのはわかる。
ミラの目には恐れが浮かび、フィアは心臓が鼓動するのを感じた。
ミラは一言も口にはしない。
フィアも同じく、一言も話せなかった。
あまりの恐ろしさに、声を出そうにも出せなかった。
彼女たちの心は、男の冷たい眼差しと鋭利なナイフに捕らえられ、動くことすらできない。
ミラは男に肩を掴まれた状態で、威圧されながら誘導される。
彼の手は強く、ミラの細い肩が痛む。
彼女は必死にその痛みを我慢していた。
フィアは、ミラの手をしっかりと握ったままだった。
彼女の小さな手は震えているが、その握りは決して離れようとはしない。
「行くぞ、早く」と男は再び促し、ミラを引っ張る。
フィアはその後ろをついていくしかなかった。
『フィアは、手を離そうとはしない』
ミラは歩き出してから、八歩ほど進んだときに立ち止まる。
下を向いていた。
その小さな背中には、何かを決意したような雰囲気が漂っている。
「立ち止まるな」と男は冷たい声で命じる。
ミラは首を振った。
そこには、彼女の小さな抵抗が見えていた。
恐怖の中でも、何かを感じ取ろうとしているのだ。
男は再び無言になり、ミラの様子を伺う。
フィアは、その沈黙の中で戸惑いの波が押し寄せるのを感じた。
フィアは、ミラの腕をもう片方の手で揺するように触れる。
言う通りにしないといけないはずなのだ。
そうしないと、非常に危なく、男の言葉通りなら痛い思いをすることになる。
ナイフが見えている。
その鋭さが、彼女たちの心に恐怖を刻み込む。
それでも、ミラは従わなかった。
そこから一歩も動こうとはしない。
彼女は下を向くことをやめて、横を見る。
「にげて」と彼女は言った。
その言葉には、切実な願いが込められているように思えた。
「…………」
フィアは急に手を離され、思いもよらない言葉を聞かされ、何も反応できなかった。
どう答えればいいのかさえ思いつくはずもなかった。
心の中で混乱が広がり、恐れが彼女を包み込む。
急いで、その手をもう一度握る。
ミラの手は冷たく、震えている。
フィアはその温もりを感じながら、必死に心を落ち着けようとした。
「おまえ、何を言って」と男が低い声で問いかける。
「いって、早く」とミラは再び手を離し、その手でフィアの胸を軽く押した。
フィアはその弱い力に驚き、思わず後ろへと距離を置くように下がってしまう。
「何をしている? 言うことを聞け。そうじゃないと、お友達が痛い目に合うぞ?」
男はナイフを片手に警告し、いまだにミラの肩を掴んでいた。
その目には冷酷な光が宿り、フィアは心臓が高鳴るのを感じる。
「いって、早く」とミラは焦りを隠せずに叫んだ。
フィアは三度、首を強く横に振った。
「いいから、いって」とミラは言葉を繰り返す。
彼女の目には、決意と不安が交錯していた。
「……でも」とフィアは口ごもる。
「はやく行って」とミラは強い口調で続けた。
その声には、彼女自身の恐れを振り払うかのような力があった。
「……うん」とフィアはついに頷いた。
心の中では葛藤が渦巻いているが、ミラの強い意志に押され、彼女は一歩後退する。
「おい、戻ってこい。知らねえぞ? お前のせいでこいつがどうなっても」と男は苛立ちを隠さずに叫ぶ。
彼の声はフィアの心に重く響き、彼女は一瞬、躊躇する。
フィアはミラを置いて、その場から立ち去っていった。
彼女の心には不安と恐れが渦巻き、振り返ることもできなかった。
「あの子を助けたいんだよな? それなら……」と男はミラを見下ろして言った。
その言葉には、冷ややかな笑みが浮かんでいた。
ミラは男の目を見返し、恐怖を感じながらも、自分の意志を貫こうとしていた。
フィアは長い通路を走り続けながら、何度も立ち止まろうとしていた。
立ち止まるべきなのに、「してはならない」という境に彼女はいた。
それはまだ幼い彼女には、選択をするのに難しさがある。
自分の正しいと思う道を選ぶのは、多少は簡単だ。
あの時、残ればよかったのだ。
だが、その道を選んだとして、相手はどう思うのだろう。
ミラの目は、言葉にできないものを訴えかけていた。
あの場に残ったとしたら、無理にでもわたしを逃がそうとするのではないだろうか。
フィアはそこまで突き詰めて考えていたわけではないが、感覚的に理解していた。
わたしが残るのはだめなんだ。
しかしそうだとしても、今のフィアはぐらぐらと身体の中が揺れるように辛かった。
心に痛みを感じ、悲しみに暮れていた。
「離れてはいけない」のは確かだ。
それよりも、彼女とあのような形で別れたのは、とてもじゃないがよくはない。
フィアはやっと足を止め、その足元を見つめた。
感情が大きく乱れ始め、掻きむしったように心がざわつく。
周りは静かで、時折響く足音だけが彼女の心をさらに不安にさせる。
フィアは振り返ってみる。
もう彼女とは会えないのだろうか。
その思いが、どうしても響いていた。
すると、そこにはミラが立っていた。
フィアは一人で立つ彼女に驚き、目を見開く。
心の中に広がる安堵と喜びが、彼女の胸を温める。
フィアは言葉が出なかった。
「あの部屋に戻ろ? 落ち着くまで」とミラは優しく提案する。
「うん」とフィアは頷いた。
その声には、大きな喜びが窺えた。
聞くところ、ミラは男から隙をついて逃げ出したようだった。
彼女は「魔法を使って逃げた」とフィアに説明する。
しかしながらその説明は、多くが不足しているということもあり、事実は魔法であっても、どんな方法で逃げたのかフィアには理解できなかった。
ミラの表情には、逃げ出した際の緊張感がまだ残っているように見えた。
それから二人は、唯一その手で開けられる部屋に戻ると、一緒に仮眠を取ったあの壁に腰を下ろして背中を預けた。
手はしっかりと繋いでいた。
ミラが自ら手を伸ばして、強く掴んでいた。
彼女の手はもう離すつもりはないようだった。
その温もりが、フィアに安心感を与えてくれる。
しばらくして、わずかに乱れていた呼吸が安定を取り戻した頃、フィアは城の外を見ていた。
月明かりが静かに差し込み、幻想的な光景が広がっている。
ミラが自分の手を離したことに、フィアはふと気付く。
ミラが立ち上がろうとしていた。
「どうしたの?」とフィアは尋ねる。
心のどこかで不安がよぎるが、ミラの行動に興味が湧いてくる。
「わたしも」と立ち上がろうとした。
しかし、ミラは彼女が行動を起こす前に腰を下ろす。
「何か」を(服のポケットからか)取り出したようだった。
ミラの動きは慎重で、何か重要なものを持っているように見えた。
「それって」とフィアは言葉を失った。
ミラの手にしているのは、ナイフだったのである。
ナイフは茶色の革製の鞘に入れてあったが、その存在感は圧倒的で、フィアの心に恐怖が走る。
ミラは黙って、それを見詰めている。
子供の手には明らかに大きいその武器が、彼女の小さな体を一層際立たせていた。
「あの人から取ったの?」
フィアは恐る恐る尋ねた。
ミラは首を横に振る。
その仕草は、フィアにとって一瞬の安堵をもたらすが、同時に疑問が深まる。
「それ、どうするの?」
フィアは再び尋ねた。
ミラは質問には答えなかった。
静かにナイフをじっと見つめていた。
その表情には、何かを考えている様子が伺えた。
フィアはその沈黙を破ることができず、ただミラの様子を見守るしかなかった。
やがて、ミラはナイフの鞘をじっと握りしめ、思考にふける。
その目には、決意の色が浮かんでいるように見えた。
フィアはその姿を見て、ふとある事が脳裏を過る。
それはナイフとミラのあいだに起きた悪魔の微笑みのようだ。
決して目を逸らしてはいけなかった。
直感である。
彼女は自ら命を絶とうとしている。
「ダメ」とフィアは叫び、ミラの腕を掴んだ。
「駄目。それ、放して」
ミラはひどく驚いたようすでフィアを見返す。
彼女の目は、一瞬ではわからない程度に震えていた。
その表情には、戸惑いと疑念が交錯している。
フィアの声が、彼女の心の中で何かを揺さぶったのだろう。
「それ、どこかにやって」とフィアは強い口調で言った。
彼女の心には、ミラを守りたいという一心があった。
まるで光の神アルマにでも願うように頼むように、必死でその思いを伝えようとしていた。
フィアは力強く目を瞑り、ミラの手からナイフを奪うことを望んだ。
心の中で、彼女の安全を祈る。
必死の思いが天まで昇り、どうやら少女の願いは届いたようだった。
この夜空に浮かぶ星たちが、願いを叶えてくれたのかもしれない。
ミラはナイフを落としたのである。
その刃物は、子供の手から滑り落ち、鈍い音と硬い音を混ぜて、その場に響き渡った。
フィアはその音を聞き、目を開いて小さく息を吐いた。
張り詰めた空気が緩んでいく。
手元から失ったという事実が、彼女にとっては明確な解放感をもたらした。
しかし、次の瞬間、彼女は隣に座っているミラが、ひっそりと涙を流していることに気付く。
頬を伝っていく涙の温もりが、フィアの心に深い痛みを与えた。
フィアはミラの肩に手を伸ばし、涙を流す彼女を優しく抱き寄せた。
痛みを和らげようとするその行為は、彼女にとっては自然な反応だった。
彼女は、何もしないことが『だめ』な気がしたのだ。
ミラは泣いていた。
最初は声が出ていなかったが、フィアの肌に触れた瞬間、彼女は静かに声を漏らした。
それは、安心感を求めるような小さな声だった。
つい先ほどまでの、誰にも見せられない内緒の涙は、ひたむきに堪えているものではなかった。
彼女の意地は、今や崩れ去っているように感じられた。
フィアは、彼女の震えを感じながら思った。
この子は強くはない。
それでも、この子は決して弱いわけではない。
彼女の中には、さまざまな感情が渦巻いている。
フィアはその思いを理解し、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
ミラが泣き終わるのを待つ間、あの男が部屋に訪れることはなかった。
彼は見失った「迷い子」、希少であろう幼き魔法使いを悔しくも探し出せなかった。
彼の影が近づかないことは、フィアにとって一時の安堵をもたらしていたが、同時に不安も感じさせていた。
長い時間が経過した。
空には星が輝き、光を失ってはいない。
まる一日というほどのものではないが、二人にはそのぐらいに感じられた。
すこし歩いただけのはずが、部屋で過ごした時間もそうで、まるで永遠のように思えた。
二人はもう一度部屋を出ようと話を進めた。
とうとう終わりが近づいてきたと彼女たちは知った。
どれだけ未熟とはいえ、部屋の外から、一枚の壁どころか空気から、「終わり」を告げられていたのだ。
それならばと、私たちはこの部屋を出ていくしかない。
騒がしい世界では、ずっとは隠れてはいられない。
二人は揃って、部屋を出た。
扉を開けると、今まで会いたいと思っても会えなかった大人たちが、無口なお城の通路を歩いている。
当然、暗がりと寒さは変わらない。
冷たい空気が二人の肌を撫で、緊張感が漂う。
ミラはフィアの手をしっかりと握り、彼女を連れるようにして歩んだ。
彼女は誰かを探しているようだった。
「あの人たちを探しているの?」
フィアは小声で尋ねた。
ミラは何も答えず、ただ前を見つめていた。
その視線の先には、かすかに何かが見えているようだった。
しばらく歩くと、ミラの表情が少しずつ変わり、彼女はその「誰か」となる相手をようやく見つけたようである。
ミラは立ち止まり、心の中で不安が渦巻くのを感じながらも、毅然とした態度で言い放った。
彼女は正面を向き、横にいるフィアの小さな手を大事そうに握り締め、相手の目をじっと見つめていた。
「あなたはここの偉いひとだよね」
その相手とはエツだった。
彼女は星銀の城(ゼロズ)にいる魔術師の中でも最高位の一人で、幻父の魔術組織『バルサレ』の代表補佐を務めている。
長身で美しい白髪をなびかせ、周囲の注目を集める存在感を放っていた。
人々は彼女を「白銀のエツ」と呼び、畏敬の念を抱いていた。
この時、エツは数人の幹部と共に行動していた。
周りには、バルサレとは関係のない人たちもいた。
少女二人を追ってきたのだ。
エツは何も言わず、冷静な目で少女たちを見返していた。
その表情には微かな興味が浮かんでいた。
ミラは負けじと片腕を上げ、胸に手を当てる。
「このわたしをあげる。わたしを好きなようにしても構わない。だけど、その代わり、この子だけは守ってくれない」
周囲の人々は息を呑み、静まり返った。
エツの仲間たちも、その様子を見守り、緊張感が漂った。
フィアは傍で聞き、混乱に陥った。
目を大きく見開き、心臓が速く鼓動するのを感じていた。
ミラは知らず、続けた。
「この子には、あなたたちが求めているようなものはない。あなたが約束を守ってくれるなら、私も約束を守る。私を好きにしていいから」
ミラは一度わずかに頭を下げ、相手の顔をじっと見つめ直した。
自分の言葉がどれほど危険なものかを理解していたが、フィアを守るためにはこの選択しかないと信じていた。
フィアは口を開こうとした。
そんなのだめ。わたしも……。
言おうとして、その声が喉に詰まる。
彼女の心の中で葛藤が渦巻いていた。
漠然とした恐怖が、彼女の心を締め付けていた。
周囲は静まり返り、少女の言葉がどのような結果をもたらすのかを見守っている。
緊張感が空気を支配し、誰もがその瞬間を待ち望んでいた。
エツは表情を変えず、彼女の目に映る決意を感じ取りながら、一言だけ述べた。
「いいだろう」
「ほんとう?」
ミラは驚きと安堵が入り混じった声で尋ねた。
「ああ」
待ってくれ、そいつらは俺が。
どこからか、そんな声が聞こえてくる。
エツは少し間を置いた。
「ベレ、いいですか。彼女はこれからバルサレの管理下に置かれます」
「はい」
「この子の教育はあなたに任せます。いいですね」
「はい」
「そちらの子は、どうされます?」
「彼女はもちろん安全な場所に。そうでなければなりません」
異界を渡りし空の指輪を持つ者、「
魔法巧みに扱い、「旅人」と名乗るが、その謎多き。
黒闇人獣大戦。
終戦から、およそ二百七十年。
二人の「迷い子」――。
名前はない。
推定年齢、七。
場所は、ゼロズ。
「夜」の日(太陽が沈んだ一日)。
後に、「ミラ」「フィア」と呼ばれる。
星屑の伝説ミール・アルバ 塚葉アオ @tk-09
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