サリマライズの歌声に

古都池 鴨

サリマライズの歌声に

 放課後の教室に歌声が響く。


 一つのものとして流れていた音が三つに分かれた。一本流れる歌詞に沿うのは言葉としての意味を持たずに支え膨らませるための音。

 鼓膜から身体に抜ける振動を感じられたなら、溶け合うように響き合えた証。増幅する響きは音量さえも上がったと錯覚させる。

 しかしひとフレーズが終わって歌い手が変わるなり、先程までの震えが消えた。言葉と音がどこかちぐはぐにそれぞれの音を鳴らしている。それは互いに寄り添うこともない、ただの歌詞と、離れて流れる伴奏であった。


 次の歌い手に代わっても、暫くは互いの位置を探るような揺れが続く。ようやく互いを見つけられた頃には、三本の音が一つの歌詞を奏で出した。

 口内で膨らむ音は先程までより大きく響きを含み、波紋のように辺りに広がる。音の波の震えを感じながら三フレーズを歌い終わると、閉じきらぬ口に残る余韻が僅かな残響となり消えていった。




 教室内には三人の女生徒が立っていた。

 ショートヘアの女生徒が机に置かれた小型のキーボードの鍵盤を三つ押すと、無機質な和音が響く。


「うん、ずれてないね」

「ずれてはないけど……」


 真ん中に立つ女生徒の苦い顔と沈む声に、左側の女生徒が励ますように背を叩く。


春香はるかってば、そんな顔しない!」

「だって……やっぱり私のところで落ちるよね」


 快活そうな明るい笑顔に、春香は苦笑を返すことしかできなかった。


「まぁそれもあるけど、すぐに戻せないのは私もなんだし」

咲希さきの言う通りだよ。合唱なんだから、誰が悪いとかじゃないって」

「咲希……。花穂かほ……」


 両隣からの声に責める響きなど微塵もなく。ありがたさと同じだけ感じる情けなさに、春香は視線を鍵盤へと落とす。

 各パート一人ずつの三部合唱。一人でも響きを失えば崩れるのは当然だった。


「ほら、もう一回やったら隣行くよ」


 部長でもある咲希の言葉に顔を上げ、苦笑いのまま頷く春香。

 胸の中はいつものように、己への落胆に満ちていた。




 隣の教室では七人の女生徒たちがキーボードとスマートフォンを前に歌っていた。

 曲が終わるのを待ってから、春香たちは教室へと入る。


「先輩!」

「どう? 順調?」


 部長らしく声を掛ける咲希に、一年生たちは顔を見合わせ笑い合う。


「やっぱりスマホだとちょっと面倒くさいです」

「先輩みたいにアカペラだったらよかったのに」


 教室内にはピアノはなく、一年生たちはスマートフォンに録音したピアノ伴奏で練習していた。


「曲は三年生からのリクエストだからね。来週は音楽室使えるから」


 ピアノがあり広さも防音性も高い音楽室は、春香たち合唱部はもちろん吹奏楽部も使用する。コンサートやコンクール前など特別な時を除き両部で交代で使うため、使えない時はこうして空き教室を借りて練習をしていた。

 もちろん教室に音楽室ほどの防音性はない。話しながら廊下を歩く生徒たちの声が僅かでも聞こえるということは、こちらの声も外に漏れているのであろう。


「じゃあ最後に一緒のやつ通そっか」

「はーい!」


 咲希の言葉に一年生が元気に返した。




 一人別れ、二人別れ。下校時刻となり、それぞれが家へと帰っていく。

 同じ方向の後輩が電車を降りてから、一人になった春香はようやく貼り付けていた笑みを剥がした。


 やっぱり。


 浮かぶのはこの一言。

 ソプラノの花穂から主旋律を引き継いだ途端、それまであった響きが消える。

 伸びのない硬い声では音として間違っていなくても音色が暗く、上手く二人のハミングに馴染まないのだ。


 小学生の頃から地域の子ども合唱団に参加していた咲希と、中学校でも合唱部に入っていた花穂とは違い、高校に入って暫くしてから合唱を始めた春香。もちろん専門的に教わったことなどなく、技術的にも二人に及ばない。しかし原因がそこにないことは、春香が一番わかっていた。


 ――自分は怖いのだ。

 合唱では異質でない限り声は混ざり特定し辛く、上手い人がいても飛び抜けずにハーモニーの芯となり目立ちにくい。同パートが複数いるならもちろんのこと、三パート一人ずつでも浮き彫りになることは滅多にない。

 だが、これも重ねる言葉があればこそ。

 車窓に映る己の顔に、春香はそっと息を零す。


(……情けないな)


 文化祭を終え引退した三年生のお別れ会は、残る一年生と二年生で歌を贈ることになっていた。春香たちが三年生から指定された『サリマライズ』は二分もないアカペラの曲で、春の新入生への部活紹介で歌うために三年生が編曲し直したものだった。それぞれのパートの声を聞いてもらえるようにと、各パートのソロが入っている。


 ソプラノの花穂、メゾソプラノの春香、アルトの咲希と、二年生は各パート一人ずつの三人。パートソロは必然的に個人ソロとなるのだ。


 家々に灯る明かりと、山吹から浅葱を経て紺青へと変わる空をぼんやりと眺めながら、電車の刻む揺れに身を任せる。

 規則的な響きと音に導かれるように思い耽るのは、己自身のことについて。


 歌うことは楽しい。


 声を合わせ、響きを重ね。身体全部が共鳴するような、そんな瞬間を目指して皆で合わせ歌う。

 大人数でも少人数でも目指すものは変わらないと、頭では理解していても。自分の歌声だと明確になる状況に対して過度な緊張を覚えるのだ。


 自分の歌声など聞き慣れているであろう部活メンバーの前でも、今日のように特に誰も聞いていないとわかりきっていても。自分の声がはっきりと聞こえる状況だと、萎縮し思うように声が出なくなる。

 部活紹介でこの曲を歌った時には同じパートに三年生のあずさがいたので、舞台上という緊張はあっても落ち着いて歌うことができていたのだが――。


 ガタン、と大きく電車が揺れ、春香は慌ててつり革を掴む。

 お別れ会まであと二週間。

 暗さを増す窓の外に、春香の気持ちも沈んでいった。




 久し振りに部活のない放課後。春香たち三人は駅前のファストフード店に立ち寄っていた。


「もう来週だね」


 シェイクをすすってから感慨深そうに呟く花穂に、春香は表情を曇らせる。

 どうにかしたいと思う気持ちはあるものの、そう簡単に切り替えられるものでもなく。パートソロは未だ上手くいかないままだった。


「春香」


 気付いた咲希に名を呼ばれた春香は、心配そうな眼差しに困ったような笑みを向ける。


「……先輩たち、どうしてサリマライズにしたのかな」


 春香がぽつりと呟いた。


「私がこんなだって、先輩たちも知ってるのに」

「だからでしょ」


 眼差しはそのままに、咲希が言い切る。


「春香のため、だと思う」


 声音は決してきつくはないが、それでも確信を持っての言葉で。

 目を瞠り動きを止めた春香に、今度は花穂が頷きを見せる。


「先輩たちが意地悪したくて選んだなんて、もちろん春香も思ってないよね」

「当たり前だよ!」


 思わず大きくなった声に周囲の視線が向けられて、春香は慌ててうつむいた。

 花穂と咲希はお互いの安堵を見せ合ってから、再び春香を見つめる。


「春香だったらって思うから、サリマライズにしたんだよ」

「それにね、先輩たちも私たちそれぞれの声を聞きたいんじゃないかなって」


 うつむいたまま頷いて、膝の上の手を握りしめる春香。

 先輩たちの選曲の意図も自分がどうしたいかもどうせねばならないかもわかっている。


 ぼやきたいのはこの曲に対してではない。

 わかっているのに変わらない自分――変われない自分が悲しいのだ。

 込み上げる涙と気持ちをどうにか落ち着かせてから、春香は深く息をついた。


「……私もわかってるんだけど……。頑張ろうって思ってても、どうしても出なくって……」


 口に出すと尚更自分が情けなく、それ以上言葉が続かない。


 最近では堂々とソロを歌うどころか、三声でのハモリ部分に入ってもまだ立て直せないことも増えてきた。

 足を引っ張る自分にも、二人は責めもせずにこうして励ましてくれる。


 春香がごめんねと絞り出す前に、両側から手が伸びた。

 そっと腕に触れる手と、まっすぐに向けられる眼差し。

 驚く春香に、花穂と咲希が笑みを見せる。


「春香が頑張ってるってわかってるのは私たちも同じだよ。でもね、合唱なんだから春香が一人で頑張らなくていいの」

「私は春香と花穂と歌えて嬉しいし楽しい。……春香は今、ちゃんと楽しめてる?」


 諭すようでも呆れたようでもない二人の声に、春香はようやく今日お茶して帰ろうと誘われた理由を知った。

 一人で悩み抜け出せなくなっていた。そんな自分に二人は気付いてくれていたのだ。


「春香がメゾに入ってくれて。この学年だけで三パート揃って歌えるようになって嬉しかったよ」


 同じクラスだった咲希に誘われて合唱部に入った春香。今まで碌に歌ったことがなく戦力になどならないのに、それでも花穂はとても喜んでくれた。


「ソロのところ、私たちはハミングだけど。ちゃんと歌ってるからね」


 いつも皆を気遣い纏めてくれる咲希。それは歌になっても変わらない。


(私も)


 思うように歌えなくても。

 そんな自分に落ち込んでも。

 自分だって、二人と歌えて嬉しいのだ。


 詰まる言葉の代わりに交互に二人を見やり、春香はこくこく頷く。

 再び込み上げる気持ちは、多分言葉にしなくてもわかってくれている。


「ありがとう」


 それでも溢れる気持ちをようやく口にできたのは、ファストフード店を出た時で。

 揃って振り返った二人は、今頃言うのかと笑った。





 春香の心が落ち着いたからといって状況が劇的に変わるわけでもなく。相変わらずソロパートはこわばり響きが落ちる。

 しかしそれでも少しの変化はあった。


 立て直しが早くなった。

 いつもより少し響いた。

 数音だけだがはまったと感じた。


 それは歌う本人たちにしかわからぬような、僅かなもの。

 その僅かな煌めきを喜び合い、重ね合わせながら、春香たちはお別れ会当日を迎えた。


「楽しんでね」

「一緒にいるから」


 音楽室の準備を終えて三年生を呼びに行く前に、咲希と花穂がぎゅっと春香を抱きしめる。


「わかってるよ」


 二人を抱きしめ返してから、大丈夫と示すように微笑む春香。


 跳ねる鼓動は三年生と一年生を前に立った時にピークを迎えた。


 ポーン、と咲希がピアノでファのシャープを鳴らす。

 春香の左側に戻ってきてから、右手を伸ばして三拍振った。


 三人の声が一つに重なる。初めからふたフレーズはユニゾン。外すことなく、遅れることなく、まさにそこという位置に最初の音を当ててくる花穂と咲希。頼もしく思いながら、春香は緊張で硬くなる声を両側からの二人の響きに合わせていく。


 練習中はいつも必死に聞こうとしていた二人の声が、今は自然と耳に入る。

 歌い出すまではあれ程ドキドキしていたのに、今はクリアに周りが見えていた。


 前に座る三年生。同じメゾソプラノの梓が両手を握りしめて自分を見ている。

 心配そうなその顔に、やはりこの選曲は自分のためだったのだと理解した。

 三年生に贈るための曲だというのに、こうして自分のためにと選んでくれた。最後の最後まで後輩思いの先輩たちに、少しでも感謝の気持ちを返したい。そんな思いを再会を喜ぶ歌詞に込める。


 フレーズが変わり、花穂のソロパートに入った。

 サビ部分ともいえる唯一のメロディーを高らかに歌い上げる花穂。その音色を支えるように、二音のハミングが寄り添っていく。


 そして迎える春香のソロパート。六音目の高音を掴みきれず、やはり響きを落としてしまったものの。できるだけなめらかに言葉を繋ぎながら、練習の時より身体に響く二人のハミングに寄せていく。


 まだ声は硬い。それでも懸命に、自分ごと持ち上げていくように。


 ソロパートを引き継いだ咲希が安定した音程で歌い出し、ハミングに戻った春香の声も花穂に引かれるように収まりのいい場所へと落ち着いていく。


 繰り返しのサビ部分からは三声でのハモリ。膨らむ響きが身体を抜ける。一音ずつの音の粒ではなく、混ざった三音の塊とそこから広がる響きの幕を感じるようだった。


 視界の中、微動だにせずこちらを見つめる梓の瞳が潤んできている。

 心配をかけていたこと、そして見守ってくれていたこと。両方の意味での謝意を胸に、春香はラストフレーズを懸命に歌う。


 何度も何度も歌ったこの曲。

 今はただ目の前の先輩たちへの感謝と、二人と歌えることの喜びを胸に。


 最後の一音が余韻を残し消えていく。

 音の波が広がりきった後、暫しの静寂を経て。

 音楽室に拍手が鳴り響いた。




 拍手の中一礼し、春香たちはお互いのやりきった顔に自然と笑い合う。

 言葉はない。それでも気持ちは同じだとわかった。


「春香ちゃん!」


 席に戻ろうとする春香を涙目の梓が呼び止める。


「よかった! すごくよかったよ! 頑張ったね!!」

「梓先輩……」


 嬉しそうな梓の表情からは、今まで心配をかけていたことと、今日の演奏を喜んでもらえたことがひしひしと伝わって。

 自分にとってはハードルの高いこの曲を敢えて指定した三年生の気持ち。

 それを今はありがたく思う。


「今日の曲。この曲を選んでくれてありがとうございます」


 できない自分に落ち込んでも。

 一人ではないと気付けたから。

 自分なりに精一杯頑張ることができた。


 満点を返せたわけではない。

 それでも、少しは安心させることができただろうかと。

 返された梓の満面の笑みと大きな頷きに、春香はそう思った。






 十二月になり、合唱部は四月の新入生への部活紹介に向けて練習を始めた。一年生の希望で、次もまたサリマライズを歌うことになっている。


 ――お別れ会の次の練習日。一年生にねだられて再び披露したサリマライズは散々な出来だった。


 相変わらず一人で歌うと緊張し、思ったようには歌えない春香。

 それでもあの日は頑張ることができた。その経験は無にはならない。


 だからまた、と。そう思う。

 きっとまた、あの日の歌声のように――。

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