第3話 不気味な日常
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朝になった。アラームより先に目が覚めたらしい。スマホで時間を確認する。ちょうど、始発が動き出すくらいの時間帯だ。俺はスマホの電源を落とし、ぞんざいに投げ付けた。
頭が割れるように痛い。気分も悪い。とても仕事ができる状態ではない。
それなのに、何故か体が起き上がろうとしている。ベッドを出て、スリッパを履いて、カーテンを開けて、顔を洗って、髭を剃って、朝食を摂って、歯を磨いて、スーツに着替えて、出勤しようとしている。もう完全に、俺の意思ではない。じゃあ、誰の意思だ? 俺の体は一体誰の、何の命令で動いているって言うんだ。
思考が混濁したまま、気付けば洗面台の前で電気シェーバーを手にしていた。何だこれ。気持ち悪い。自分の意思と関係なく、体が勝手に動いているような感覚。最高に気持ち悪い。吐きそうだ。でも、今日はまだ、フレンチトーストとサラダとコーヒーを摂っていないから、吐き出す物がない。胃の奥がぐるぐるする。痛くて、気持ち悪くて、とにかく苦しい。洗面台の淵に片手を突き、その場にしゃがみ込んだ。
「うぅ……あ、あ゙あ゙あ゙ああああぁぁぁぁぁ!!!!!!」
自分が何をしたいのか、何をするべきなのかも分からず、ただ叫ぶ。防音環境がしっかりしているマンションだから、近所迷惑になることはないだろう。
……あれ? 防音、しっかりしてるよな? そこそこ長く住んでいるけれど、今まで騒音トラブルなんて聞いたことないし、他所の部屋の生活音が気になったことだってないし。詳しく知らないが、きっとそうだ。ん? いつからここに住んでるんだっけ? 賃貸? 分譲? 期間は? 費用は?
どうでも良いことを考えた挙句、何一つとして答えが出なかった事実に愕然とする。普通あり得ないだろ、こんなの。どうしてこんなに、何も分かっていないんだ、俺は。心臓がバクバク暴れている。
自分の中には答えがない気がして、でも答えを見つけないと、この薄気味悪い状況から抜け出せない気もして。俺は無我夢中で玄関へ走った。
震える手で玄関を開くと、すぐ目の前に都会の町並みが広がっていた。何でだよ。俺の部屋、地上二十五階だぞ? マンションの廊下も、エレベーターも、エントランスホールも経由していないのに、何で。
ふと手元へ視線を落とせば、見慣れた黒いスーツの袖口から、白いワイシャツが一センチほどはみ出しているのが見えた。左手首には腕時計も巻いている。俺、今日はまだ着替えてなかったはずなのに、何なんだよ……!?
意味が分からない。答えの出ない謎が、またいくつも増えてしまった。今ここで深く考え込んでも仕方がないから、とにかく足を動かしてみる。行く宛てもなかったけれど。
明け方の町は、少し
進むにつれて、人の往来が増えているような気がする。いや、どうやら俺が人の集まるほうへ……駅へ向かっているらしい。無意識に向かう場所が、駅?
もしや、俺の体は今、出勤しようとしているのではなかろうか。いつも通りに身だしなみを整え、いつの間にか着替えまで済ませたその足で、これまたいつも通りに会社へ行こうとしているのではなかろうか。この時間に、会社が開いているわけがないのに。
あまりに不気味で耐え難く、何とか抗おうとした、その時。白い靄の向こうから、一人の女性が歩いて来るのが見えた。そう、人混みと不自然な靄の中で、その女性の姿だけがあまりにもくっきりと見えたのだ。
白くて滑らかな肌、通った鼻筋、切れ長で色気のある目元、発色の良い唇、腰元まで伸びる真っすぐで艶やかな黒髪。社会の端っこで平々凡々な人生を歩む俺には、本来ならば一生関わる機会なんて与えられないような、浮世離れした美女である。
その美女が、すれ違いざまにこちらを一瞥してきた。強い動悸がする。興奮したわけじゃない。焦燥だとか、不安だとか、緊張だとか、恐怖だとか、そういうものが
俺は咄嗟に美女の腕を掴んだ。彼女が真顔で俺を見てくる。浅い呼吸で必死に酸素を取り込みながら、言葉を絞り出した。
「……ここは、どこだ?」
彼女は何も答えない。ただ、じっとこちらを見ている。俺は構わず続けた。
「俺の人生は、こんなのじゃない。住んでいる家も、町も、ここじゃない。仕事の手柄も、セフレも、俺のものじゃない。ここは、一体どこなんだ!? 俺は、一体……っ」
見ず知らずの他人である彼女に、どうしてぶちまけたくなったのかは分からない。今の俺は不審者そのもの。通報一択だろう。でも、もう何でも良かった。見知らぬ美女でも、警察でも、医者でも、誰でも良いからこの状況を説明してほしかった。
暗黒の中に紺桔梗が咲いているような色の瞳。間近で拝んでいると吸い込まれそうになる。そんな瞳が、
「正解」
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