17 ラジオ、古書店、蔵書票

 その晩ミルヤはアリスのお母さんたちの押しに負けて、アリスの家で夕飯を食べた。


 ミルヤが帰ったあと、アリスは部屋に戻り、鞄からミルヤのくれたしおりを取り出した。エリオットの靴と同じ革。この部屋みたいに薄暗いままの場所だと黒にしか見えないから、アリスはデスクライトをつけて、その下で色んな角度から眺めてみた。やっぱりきれいな色だ。

 アリスのAの字を人差し指でなぞって、今日の舞台のことを考える。エリオットのラジオのことを思い出して、アリスは慌てて鞄の中からチケットの半券を取りだした。

 ラジオなんて普段は車の中でしか聞かないから、アリスの部屋には当然ない。だからアリスはスマホにラジオのアプリをダウンロードして、エリオットのラジオ局を検索し、お気に入りに登録した。今は週に二回出番があるだけの「ライノ・ヒルトゥラ」さんは、来月から出番が倍くらいになって、自分の番組も持つそうだ。放送は夜中らしいけど、録音予約しておけば大丈夫。


 次の日アリスは、図書館ではなく本屋さんに行くことにした。あのしおりは借りた本じゃなくて、自分の本に挟みたいと思ったからだ。ルカに薦めてもらって、返すまでに三回読んだ本を、今度は自分の本として本棚に置いて、そこにあのしおりを挟んでおきたい。そう思ったアリスは近所の本屋さんを調べ、電話をして、あの本の在庫があるところを一軒だけ見つけると、今日の昼過ぎに行くから取り置きしておいてほしい、とお願いした。

 お昼ご飯を食べて、お財布をしっかり鞄に入れて、あとしおりも封筒ごと入れて、家を出た。おばあちゃんに行き先を伝えると、一緒に行かなくて大丈夫か聞かれたけれど、おばあちゃんは図書館に行くのもお休みしているくらいだから留守番しておいてもらったほうがいい。それに、その本屋さんはノーチラスのある通りを少し行ったところだ。だからアリスは「大丈夫」と答えた。スマホも持っているし。


 ルカに自転車に乗せて(座らせて)もらって帰ってきた道を遡って、ノーチラスの前まで行った。お店には明かりが入っていたけど、扉にはまったガラスから覗いたら、ネモ店長はカウンターの上に置いたバーナーで金属の棒みたいなのをあぶっていて、とても話しかけていい雰囲気じゃなかった。

 図書館で別れたときは半ばアリスが言い逃げしたみたいになってしまったから、きっと失礼だったな、と思っている。だから一言謝りたかったのだけど、今はお取り込み中みたい。それでアリスはお店に寄るのは帰りにすることにし、目的の本屋さんに向かった。

 たどり着いた本屋さんはアリスが思っていたとおりのお店だった。あまり大きくなくて、雰囲気はノーチラスに似ている。ガラスのはまった両開きの扉の右側を引いて、アリスは中に入った。


 暖房が控えめで乾燥した室内には、入り口のすぐそばにカウンターがあって、それ以外は木製の棚に本がぎっしり並んでいた。でも、どの本棚も見慣れた本屋さんみたいには背表紙が揃っていない。

 見回してみると、本は日焼けしているのとか、帯がないのとかも多かった。お客さんは奥の方に、黒いスーツで眼鏡をかけた男性がひとりいるだけ。本棚の上のほうに掲げられたプレートを見るに、どうやらお店の三分の二くらいは中古の本みたいだ。

 駅前の本屋さんなんかでは、目立つところに雑誌がたくさん並んでいるけど、この本屋さんには雑誌が全然ない。アリスがきょろきょろしていると、不意にカウンターの中から声がしてアリスは振り返った。

「いらっしゃい」

「あ、えと、さっき電話したシュミットです」


 カウンターでは、人の好さそうなおじいさんが、本をカウンターに立てるようにしてアリスのほうに向けていた。

「だろうと思った。これでいいかな?」

「あ……」

 アリスは少し戸惑った。図書館でアリスが見た本とは違う。アリスはカウンターに近寄り、おじいさんから本を受け取って中を確かめた。タイトルは間違いない。本文もどうやらあの本と同じだけど、本の大きさとか、表紙の固さとか、表紙の絵も違う。

 ということは、と思ってアリスは本を裏返し、ため息をついた。ソフトカバーの値段を調べてお金を準備してきたものだから、ハードカバーにはちょっと足りない。アリスは本をおじいさんに返しながら、正直に言った。

「わたし、ペーパーバックの分のお金しか準備してこなかったので、これは買えないです」

 おじいさんはにんまり笑うと「これは中古だからね」と言い、裏表紙をめくった。

「ここに蔵書印が押してあるでしょう。だから値段はこれでいいよ」

 そう言いながらおじいさんは指を三本立てた。その値段ならアリスにも買える。でも新品じゃないんだ、と思ったアリスは、もう一度本を見せてもらうことにした。


 状態はとてもよくて、新品と言われてもおかしくないくらい。新品との唯一の違いが、さっきおじいさんが見せてくれた蔵書印だ。持ち主の名前も入っている。エクス・リブリス・ショーン・エインズワース。

蔵書票エクスリブリス

 アリスがつぶやきながら文字の上を指でなぞると、おじいさんが「最初の持ち主はその人なんだろうねえ」と言った。

「『ショーン・エインズワースの蔵書から』という意味だよ」

「そうなんですか」

 じゃあルカは「ワイラーさんの蔵書」なのか、と思いながら、アリスは本を閉じるとおじいさんに渡した。おじいさんはそれを受け取りながらアリスを見た。

 新品を買うつもりで来たけれど、顔も知らないショーンさんは、この本を十分大事にしていたと思う。だから大丈夫。アリスは言った。

「わたし、それ、買います」


 紙の袋に入れてもらった本を鞄に入れて、アリスはノーチラスの前まで戻った。店長はさっきの作業はもう終わったみたいで、バーナーは脇に寄せてある。アリスは、今なら大丈夫かなと思ってドアを開けた。ルカが来たときと同じドアベルの音がして、店長が顔を上げ、にっこり笑った。

「いらっしゃい」

「こんにちは」

 さっきの本屋さんよりは、ノーチラスのほうが温かい。アリスは本を予定よりも安く手に入れたので、お財布の中身は少しだけ余裕がある。

 最初に来たときに、ちょっとだけ値札は見たのだ。だからこのお店にある中で一番安いものならなんとか買えるくらいのお小遣いを持ってきたけど、さっきのおつりのおかげで、もうちょっと値段が上がっても大丈夫かも。店長と話すのに、お店のものを何も買わないのは失礼だと思う。だからちゃんと何か買って、そのついでに謝ろう。

 そう思いながらアリスが棚の間を歩いていると、カウンターのほうで椅子を引く音がして店長が出てきた。


 店長はアリスの横に並び、「買い物するの?」と聞いてきた。アリスはうなずいた。

「ほしいものがあった?」

「今、探してます」

 店長は苦笑いして、少ししゃがんでアリスに言った。

「値段で選ぶ買い方はここではしないでほしいな。それより……」

 アリスは思わず固まってしまったが、店長は「お茶に呼ばれてよ」と言いながらカウンターに戻り、奥からティーポットとカップを二つ持って出てきた。

 店長は腰掛けながら、さっきの場所で立ったままのアリスを手招きした。

「さっきワタライくんが来てね。お土産を置いていったんだ。一緒に食べよう」

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