16 舞台、主役、スタートライン
ミルヤの親戚が出演した劇は、アリスも読んでいるあの話の中のエピソードのひとつを取り出したものだったけど、細かいところはアリスが覚えていたのとはいろいろ違った。
ミルヤが作った靴も、ちゃんと見られた。エリオットはその話の中では主役ではなくて……むしろ、はっきり言うと全然大事ではない役だったので、靴が日の目を見たのは、ほんの少しの時間だったけれども。
休憩時間、アリスはミルヤにカフェオレをごちそうになった。チケットを示して中に入ったすぐのところにコーヒースタンドがあったから、そこで。
舞台が始まる前や幕間にささっと一服するための場所だからか立ち飲み席ばかりで、テーブルはどれもアリスからは使いにくい高さだ。ミルヤは周りを見回すと両手にカップを持ったまま、アリスを少し離れたところのベンチまで連れて行き、そこに並んで座った。
アリスはミルヤからカップを受け取り、お礼を言った。ミルヤはアリスが口をつけるのを見、それから自分の手元に目を移して「あ」と声を上げた。
「どうしたんですか?」
「ごめんね。お砂糖もらうの忘れてた」
「大丈夫です。いつもミルクティーにもお砂糖入れないし」
アリスはそう言って二口目を飲むと、ミルヤがカップから口を離すのを待って聞いた。
「エリオット、あんまり出てきませんでしたね」
「本だと、あのエピソードにはエリオット自体出てこないからね」
「そうなんですか? わたしまだ読んでる途中だから知らなかった……」
「そうなの。出演者数が先に決まってるから、シナリオで役を増やしたんだと思う」
ミルヤは手に持ったカップを見下ろしている。困った顔でも、悲しそうな顔でもないけれども、でも何も考えてないわけじゃないんだろうな、とアリスは思った。
たぶんミルヤは心の中でぐるぐる考えていることがあっても、それが表面まで現れてこないタイプなのだ。だってあの靴は、どんな靴にするか決めるところからミルヤが手がけた作品で、とても手がかかったことはアリスにだって簡単に想像がつくから。それがあんな、ほんのちょっとしか出てこないなんてミルヤも思っていなかったんじゃないか。本当はもっと、主役くらいにいっぱい出て、あの靴も舞台の上でお客さんから注目されて、そんなつもりで作ったんじゃないのだろうか。だったら今ミルヤはとてもがっかりしているはずだ。
でもミルヤは、もう一口カフェオレを飲むと、アリスに言った。
「ほんのちょっとしか出ないってことは、もともと聞いてたの」
「なのに、そのためだけに靴を作ったんですか?」
「逆かな。ほんのちょっとしか出ないからこそ、その一瞬に気合いを入れて……」
アリスが「気合い」と繰り返すと、ミルヤは少し恥ずかしそうにしてから言った。
「私のいとこなんだけどね。人と話そうとすると上手くしゃべれなくなって、それでいじめられて学校にも行かなくなっちゃった。でも、考えながら話すんじゃなくて、先に決められた言葉を読むならわりとスムーズなの。それで、しゃべる練習にもなるからって演劇の学校に入って、かなり時間がかかったけど、やっと卒業が決まった」
「そうだったんですね」
「うん。でもやっぱり完全にスムーズにしゃべれるようにはならなくて、卒業公演も台詞がほとんどない役になった。だけどもともとスタートラインがほかの人より後ろにあったわけだからね。それで、この舞台が彼にとって、できる限りいい思い出になるように手伝えたらな、と思って」
アリスは劇場の入り口のほうを見た。そこに貼ってあったポスターに、出演者の名前が書いてあったはずだ。でもそのポスターはアリスたちの位置からは遠すぎたし、なによりガラスの扉の外側に貼られていたから、表に書かれた内容は全然見えなかった。アリスは手元に目を落とすと、もう一度顔を上げてミルヤに聞いた。
「その人は、卒業したあとは俳優になるんですか?」
「それは諦めたって」
「そうなんだ……」
「だけど、ラジオでニュースを読むアルバイトしてて、そこにそのまま勤めることになったんだって。相手の顔が見えなければ症状も出にくいし、周りの人も自分のことわかってくれてるからって」
声も結構いいからね、とミルヤは少しだけ笑った。
次のエリオットの出番はもうカーテンコールのときだったけど、アリスはエリオットの顔をしっかり見て、できるだけ大きな拍手を送った。その人は、ミルヤ(とアリス)と同じ薄茶色の髪で、きれいな緑色の目をした、すごくやさしそうな青年だった。
ミルヤはエスターに言ったとおり、アリスを家まで送ってくれた。ミルヤの車はレトロな感じの色の小さくてかわいい車で、後部座席には少しシュールなキャラクターの、大きめのぬいぐるみが置いてあった。
アリスはミルヤから、エリオット役の人の名前と、その人が勤めることになったラジオ局の名前を聞いて、チケットの半券の裏にしっかり書き留めた。
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