10 深海、宝石、壺の中

 ルカが少し「大人向け」と言った本二冊を、アリスは二週間の返却期限内に読み終えた。

 図書館に行くと、今日はカウンターにはマーゴがいた。マーゴは返却手続きをしながら、「こんなに字が小さいのに読めたの、すごいわね」と褒めてくれた。でもアリスからしたら、面白い本なら字は小さいほうがいいし、ページ数も分厚いほうがいい。長く楽しめるということだから。

 アリスは軽くなった鞄を持って、その二冊が収められていた本棚に向かった。案の定、前回誰かに借りられていたもう一冊が戻っていたので、アリスは早速それを手にとると、ついでに周りに並んでいる本の背表紙も眺めてみた。

 ここは子ども向けの本のコーナーではないから、どの本も今アリスが持っているのと同じくらいの文字のサイズで、厚みもある。アリスは、この中にも読み終えるのが惜しくなるような面白い本があるかもしれないな、と思いながら、本棚に沿ってゆっくり横に進んでいった。


 この本棚の周りには、アリスが今までよくいたエリアよりも人が多い。半分以上は年配の人だ。アリスは、この人たちは学校も仕事もないからだろうな、と思った。

 アリスだって行こうと思えば、この時間なら学校の自分のクラスに、アリス用の席がちゃんと用意されている。そこにアリスが着席したら、きっと先生やお父さんお母さんは喜ぶだろう。でもそこでアリスは何をしたらいい? もうとっくに読み終えてしまった教科書を開いて、退屈な授業を聞いて、周りの子が「話し合って」と言われたトピックとは全然違う話題で盛り上がっている中でじっと座っていればいいのだろうか。その子たちは時間が来ると慌ててアリスに頼み込み、アリスがひとりで考えたことをグループディスカッションの成果みたいに発表する。

 その発表が先生に褒められても、そしてグループの子から感謝の言葉を投げられても、アリスは全然うれしくなかった。そんな場所より、アリスが少し頑張らないと読めないような本に挑戦させてくれ、そしてその挑戦をクリアしたアリス自身を褒めてくれる人のいる図書館のほうが、アリスは好きだ。


 なんだかしんみりした気持ちになったので、アリスは踵を返してカウンターに向かおうとした。そしたらカウンターとの間にある読書スペースに、まだ全然年配ではない男性が座っているのに気がついた。

 組んだ脚の上に本を置いている。あんな、薄い青紫みたいな髪を耳のところで切りそろえている男性を、アリスはひとりだけ知っている。アリスは静かに歩み寄ると、その人の前を通り過ぎて隣に腰掛けた。わざと少し勢いをつけて座ったので、その人はアリスのほうを見た。やっぱりノーチラスの店主だ。アリスはぺこりと頭を下げた。

「このあいだは、すみませんでした」

「ええと……ああ。あのときの」

「アリス・シュミットです」

 店主は少し面食らった顔をしたので、アリスはそういえばこの人に名前は教えていなかったと思い出すと同時に、よく知らない大人に名前を知らせてしまったことは失敗だったかも、と後悔した。アリスが少し情けない顔をしたからか、店主は穏やかに微笑むと本を閉じて膝に置き、アリスに手を差し出しながら小さな声で言った。

「ノーマン・イーストレイク」

「お店の名前はお名前と関係ないんですね」

 アリスはノーマンの差し出した手の、指先だけ握りながら聞いた。ノーマンは、ああ、と笑いながら手を引っ込めた。

「名付け親がスペルを『NOMAN誰でもない』で登録したものだから、それを知ってる周りは、僕のことを面白がって『誰でもないネモ』と」

「『海底二万マイル』?」

「そう。読んだ?」

 アリスが答えようとすると、ノーマンは不意に伸び上がるようにしながらアリスの向こうを確認した。アリスが同じほうへ振り向いたら、カウンターからマーゴがこっちを見、口元に人差し指を立てているのが見えた。

 ノーマンは苦笑いして、アリスに「移動しようか」と言いながら立ち上がった。


 ノーマンが向かったのは雑誌コーナーだった。ノーマンは普通にソファに腰掛けたので、アリスはその隣と向かいとを見比べ、距離が近かった隣のソファに腰を下ろした。そっちのほうが、大きな声を出さなくてよいと思ったので。

 ノーマンは膝の上に、さっき読んでいた本を置いた。アリスはそのタイトルを見たかったが、ちらっと見ただけではわからなかったので、そちらを気にしながらさっきの話の続きを始めた。

「『海底二万マイル』、子ども向けに簡単にされたのしか読んでないんです。だから読んだうちに入るかわからない」

「そんなことを言ったら原語はフランス語だけど、僕は英語に翻訳されたものでしか読んでないよ」

 アリスは、それでも子ども用に簡単にしたのとは全然違うんじゃないかなと思ったが、何が違うのか考えてみたらよくわからなくなったので、そうなんですね、なんて曖昧な返事をした。

「ワタライさんの壺は、どうなったんですか」

「あれ? 彼が持って帰ったよ」

「じゃあワタライさんに本は見せてあげなかったんですか?」

「いや。彼からは別の興味深い情報をもらったからね」

 アリスは、あのちょっとうさんくさいワタライの顔を思い浮かべながら聞いた。

「興味深い情報? お店に関連することですか?」

「まあ、そうかな。あの壺はね、実はとある宝石商が百年くらい前に入手した品で、当時は蓋がされていて、中身が入っていた。ところでちょうどその頃初めて発見された宝石がある。美しい青紫色をしていて、発表したのはさっきの宝石商。ものすごく人気が出た」

 アリスはノーマンの頭を見たが、ノーマンはそれを気にせず続けた。

「だからいろんな人だの会社だのがその宝石を扱いたがって世界中を探したが、どこで採掘されているのかさえ一向にわからない。その宝石商の一族だけが取り扱いを続け一財産築いたのだけど、わりと最近、屋敷から火が出て壺が行方不明になった。そしたらその宝石の流通もぱたりと途絶えて、今は幻の宝石と言われている」

「壺の中身が、その宝石だったんですか?」

 アリスが尋ねると、ノーマンはにっこり笑いながら聞いた。

「だったら面白い?」

「え?」

 アリスは自分にボールが飛んでくるなんて思ってもいなかったので慌て、首を傾げながら答えた。

「面白い、とは、思いますけど……」

「でも、もうちょっとひねりがほしいよね。きみならどうする?」


 今までの話、どこまでが本当で、どこからが作り話なのだろう。アリスは、ルカがノーマンを「食えない」と評した理由がやっとわかった気がし、助けを求めるように視線をさまよわせたが、残念ながらルカは見当たらなかった。

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