8 ビスケット、自転車、マフラー
そのときドアベルの音がして、背中のほうから冷たい風が入ってきた。アリスが振り向くと、そこにはもこもこの薄緑色のマフラーと黒いダッフルコートを着たルカが立っていた。
店主が楽しそうに、来た来た、と言いながら立ち上がった。アリスは店主と、少し大股でこっちに来るルカとを交互に見、最後に、立ち止まったルカを見上げた。
ルカは店主に、電話ありがとう、と言うとワタライを見下ろした。ワタライは少し不服げな顔で「俺が連れてきたんじゃないよ」と言った。
「お嬢さんがついてきちゃってな。道にひとりでほったらかしとくわけにもいかないだろ」
「わかってる。感謝してます。僕が
アリスは、この流れは、と嫌な予感を覚えながら、そっとビスケットの缶に手を伸ばすと蓋を閉めた。
案の定アリスは怒られた。ルカは全然声を荒げはしなかったけれど、最初にアリスに本を薦めてくれたときみたいに、アリスの前に両膝をついて、それから眼鏡を外すとアリスの目を見、何が悪かったのか、どうすればよかったのかを噛んで含めるように言った。朝顔みたいな青い目だ。アリスはじっと見つめ返して、うなずいた。
それが終わるとルカは立ち上がりながら眼鏡をし、ぐるぐる巻きにしていたマフラーを外してアリスに渡した。アリスは、こんなに太いのあるんだってくらいの毛糸で編まれたそのマフラーを巻きながら、渋々椅子を降りると店主に頭を下げた。
「すみませんでした。ごちそうさまでした。お邪魔しました」
「邪魔ではなかったよ。でも今度来るときは、ちゃんと大人の人に許可をとって、心配をかけないようにしてね。それなら歓迎だから」
「はい」
アリスは後ろ髪を引かれる思いで、ワタライと壺を残し、ルカと一緒に店を出た。店の前に黒い自転車が置いてある。これはメイユールさんのだ。アリスが聞くと、ルカは、昼休みの間に用事を済ませられるよう、メイユールさんに自転車を借りたらしい。アリスはルカが自転車に乗れるのがなんだか意外で、ちょっと面白くなってしまった。
ルカは、マフラーの下でくすくす笑っているアリスを睨みつけると、アリスから鞄を受け取り前のかごに乗せ、それから「失礼」と言いながらアリスの両脇に手を入れて、アリスを自転車のサドルに座らせた。
「家まで送る」
「うちがわかるんですか?」
「貸出カード登録したときに書いてもらったところと変わらないなら」
「変わってません」
じゃあこっちだね、と言って自転車を押しながら角を曲がったルカを、アリスはサドルから落ちないよう一生懸命バランスを取りながら横目でちらちら見た。ハンドルはルカが横から握っているから、アリスはほとんどサドルだけをたよりにバランスを取らないといけないのだ。結構難しいんだけど、ルカはわかっているんだろうか。わかってないかもしれない。
足が地面にとどかない高さに座っているから、普通に並んで立っているときよりもルカの顔が近かった。アリスはしばらく黙っていたが、どうしても聞きたいことがあったので、横断歩道の赤信号で止まったときに意を決して声をかけた。
「ノーチラスの店主さんに聞いたんですけど」
ノーチラスというのはさっきの店の名前だ。アリスは店に入る前に、ちゃんと店名を見た。ルカは面倒くさそうにアリスをちらっと見ると、また前に目を戻して言った。
「何を?」
「蔵書票くんは訳ありだからねって」
「きみのおばあさんがきみくらいのときから年も取らずに司書やってる僕が訳なしのはずないでしょう」
確かにそうなのだが、アリスが知りたいのはその「訳」の中身だ。ただやっぱり、そこに踏み込もうとするとルカは逃げてしまう気がする。そしてもう二度とアリスに本を薦めてくれることはないかもしれない。そう思ったらアリスは、ルカが抱えている「訳」を聞くのは今じゃなくてもいいな、と思った。
それでアリスは「そうですよね」とだけ答えると、信号が変わって歩き出したルカに、もうひとつのほうを聞いた。
「蔵書票くんって呼ばれているんですね」
「ミドルネームだよ。エクスリブリス」
アリスにもミドルネームがあるけど、それは洗礼名で、天使の名前だ。自分以外でも、アリスの知っている人のミドルネームはだいたいが人の名前だから、アリスはその響きをすごく不思議だな、と思った。
「変わった名前ですね」
「自分でもそう思う」
「誰がつけたんですか?」
ルカは立ち止まった。アリスは、これも聞いちゃいけないことだったのかなと思ってどぎまぎしたが、気づいてみればここはアリスの家の前だ。
ルカは自転車のスタンドを立てるとアリスを下ろし、鞄を持たせてから玄関のチャイムを鳴らした。
エスターが出てきた。エスターは並んだアリスとルカを見、あらあらあらなどと言って中に招き入れようとしたが、ルカは昼休みが終わるからと断った。
ルカが離れようとしたので、アリスは慌てて鞄を置き、マフラーを外すとルカに渡した。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。三冊目、返ってきたら連絡したほうがいい?」
「大丈夫です。二冊読んで、読めそうだったら、そのとき借りに行きます」
「わかった」
アリスはエスターを中に残し、もう一度玄関の外に出た。見送りのためだ。でもせっかくだから言っておきたいこともあった。
「ワイラーさん」
アリスは少し大きな声で、自転車のスタンドを跳ね上げたルカを呼んだ。ルカがアリスを見た。
「なに?」
「変わった名前だけど、わたしは好きです」
「そう。僕も気に入ってる」
アリスはちょっとうれしくなって、大きくうなずいた。
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