2 シチュー、階段、また階段

 赤い表紙の本は、古い道具にまつわる妖精の話を集めたもので、面白かったけれど、なにしろアリスのおばあちゃんがアリスくらいの年のころには既にあった本だ。文章はいまどきじゃないし、使われている言葉もちょっと難しいことがある。だから読むのはひっかかりながらたどたどしく。なんだかうまくつかめていない気がしたので、もう一度最初から読んだ。


 アリスはそうして昨晩なんとか読み終えた本を、朝ご飯のあと鞄に入れた。コートを着込んで、ドアノブに手をかけたがひっこめ、おばあちゃんの部屋に行く。エスターは眼鏡をかけて新聞をのぞき込んでいたが、アリスがドアを開けた音に気づくと新聞をたたんだ。

「今日も図書館に行くんだね」

「うん。前の本、読み終わったから。それで、今日は幽霊レイスに、わたし用に本を選んでもらおうと思うの」

「どんな本を読んでみたいか、決まったの?」

「それも相談する」

 エスターは笑顔で首を傾げながら少し考え、「まあ、そうしてごらん」と言うと窓のほうを見た。

「今日は風が強そうだね。気をつけておゆき。お昼には帰ってくるかい」

「そのつもり」

「じゃあ、シチューを温めておこうね」

 アリスはうなずくと部屋を出、玄関を開けて、大きく息を吸い込んでから、道路に面した階段を二段、飛び降りた。


 図書館のカウンターにはマーゴがいた。本の返却手続きを終えると、マーゴはポケットに手を入れたが、アリスは「今日はいいの」と言った。

 マーゴは取り出しかけたリストをポケットに戻しながら聞いた。

「もう読まないの?」

「ううん。読むけど。でも次何を読むかは、昨日の人に相談してみたい」

「ルカのこと?」

「ルカっていうんだ」

 マーゴはうなずきながらパソコンを操作し、それから少し伸び上がるようにして周りを見渡した。

「今たぶん、東棟に本を戻しに行ってるよ。ここで待つ?」

「行ってみる」

「忙しいかもしれないから、邪魔しないようにね。……アリスなら心配ないか」

「だめそうなら戻ってくる」

 アリスは軽くなった鞄をマーゴに預けて、東棟に向かった。


 この図書館は西、中央、東の三つの棟からできている。そう言うとすごく大きく思われそうだが、実はひとつずつはそんなに広くなく、しかも建物がもともとは図書館じゃなかったので、本棚も置きにくくて、本の数自体は別に特別多いわけじゃないらしい。マーゴ曰く。

 そして大変そうなのは、この階段だ。おしゃれなカーブを描いた幅の広い階段は一段ずつが低くて、バッスルスカートの清楚なお嬢様がしずしずと降りてくるのが似合いそうな雰囲気。でも本って重いから、この先の東棟に皆が返した本をまとめて戻しにいくのは重労働だろうな、とアリスは思った。階段の半分をスロープにしたら台車で上がれるんじゃないかしら。


 ルカは東棟の奥の、壁際にいた。足元に箱があって、入っている本は半分もないくらい。

 東棟は窓が高いところにあるので、朝は壁際はあんまり明るくない。アリスが少し遠くから見守っていると、ルカはかがんで箱を持ち上げ、窓から入った光が四角く照らしている床に足を踏み出して、二つ隣の本棚の前に移動した。アリスはその様子を見、窓を見上げてから、立ち止まったルカのところまで歩いていった。

「おはようございます」

 アリスが言うと、ルカはアリスを見下ろし、うん、と応えた。

「学校は?」

「行ってないんです」

「ふうん」

 ルカは興味なさそうに返事をすると、箱から本を三冊取り出し、その背表紙のシールを確かめてから棚を見上げた。

「あの。お仕事終わったら、わたしに本を選んでほしいんですけど」

 ルカはアリスに、お仕事? と聞いた。

「終業後っていうこと?」

「あ、違います。今やってる、本を戻すお仕事……」

 アリスは答えながら、ルカが本を棚に戻すのを見守った。足もあるし、全然透けてないし、本とかの重いものも持てる。なんか幽霊っぽくないな。

 アリスがまじまじと見るので、ルカは居心地悪そうな顔をして、階段のほうを指さした。

「それなら終わったらカウンターに戻るから。あっちで待ってて」

「いえ。お手伝いします」

 アリスは箱の中を覗き込んだ。まだ何冊か残っている。これならアリスでも持ち上げられそうだ。アリスはしゃがむと箱に両手を回したが、立ち上がろうとしたら手が滑ってしまい、しりもちをついた。

「大丈夫?」

 ルカが手を伸ばしてくれたので、アリスはそれを握って立ち上がらせてもらった。ひんやりした手だった。アリスは急に恥ずかしくなって、ぱっと手を離すと取り繕うようにお尻をはたき、それから箱を見下ろした。

「これに本いっぱい入れて、カウンターから持ってきたんですよね」

「そう」

「力持ちなんですね」

「きみよりはね。次の本の棚番号、見てくれる」

 アリスは慌てて箱の中の本を取り出し、背表紙のシールに書かれた数字を読んだ。


 アリスとルカはそのあと、五冊の本を棚に収め、空になった箱を持って中央棟に戻った。見えてきたカウンターでは、マーゴがちょうど、利用者との話を始めたところだった。その利用者は足元に、布で包んだ荷物を置いていて、黒い表紙の手帳みたいなものを開いてマーゴの質問に答えている。アリスは、少し時間がかかりそうだな、と思った。見上げたらルカも同じようなことを思っていたみたいだった。目が合ったので。

 ルカはアリスを残してカウンターに箱を置きに行き、それから手ぶらで戻ってきた。ルカが雑誌コーナーを示し、あっちでいい、と聞くので、アリスはうなずいた。

 

 雑誌コーナーは、本の棚よりはカジュアルな感じになっていて、椅子と机もソファとローテーブル。ここにコーヒーがないのが不思議なくらいだ。

 アリスがソファに座ると、ルカは向かいのソファには腰掛けず、アリスの斜め前の床に両膝をついた。アリスはなんとなく慌てた気持ちになって立ち上がろうとしたが、ルカは手でそれを制した。

「こっちのほうが小さい声でも聞き取りやすいから」

「そうか。そうですね」

「それで、僕が本を選ぶって?」

「その前に聞きたいことがあるんですけど」

 アリスは少し身を乗り出した。

「わたしの祖母。エスター・シュミット。わかりますよね」

「シュミット姓じゃないエスターなら知ってる」

「わたしくらいの子? 何年前?」

「五十年くらい」

 アリスは深く息を吐いて、顔を上げた。ルカはどうしたって五十歳過ぎには見えない。なんならお母さんよりも若そうだ。大学生……ほどには、はつらつとした感じではない。でもまあ、こういう大学生もたぶん、いる。

「あなたってどういう人なんですか?」

「それは僕がきみに本を選ぶのに必要な情報なの?」

 アリスはとっさに唇を引き結び、出かかっていた次の質問を、ぐっと呑み込んだ。あんまり聞いたら逃げられてしまうかもしれない。それでアリスは、最後にするつもりだった質問をした。

「祖母に貸した本、全部覚えているんですよね?」

「まさか。そんなことができる人は、僕はひとりしか知らない」

「ならどうしてこの間、次の本がわかったんですか」

「僕なら次に何を薦めるか考えた。それが五十年前と一緒だっただけ。古い本が好きそうだったから」

 アリスは少し落胆して肩を落とした。いや、十分なのだ。十分、ルカがただものではなさそうなことはわかった。わかったけれども……そうか。

「わたし、別に、古い本が好きなわけじゃないんです。何を読んでいいかわからなかったから、祖母が読んだ本をなぞってきただけ」

「新しい本も含めて薦めていいならそうする」

「お願いします」


 アリスが頭を下げながら言った言葉は、アリスが自分で思ったよりも明るくうきうきしていて、ちょっとだけ館内に響いてしまった。

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