アリス・シュミットとタイトルのない本

藤井 環

1 祖母、リスト、カウンター

 アリスのおばあちゃんは読書家だ。そして気に入った本は何度も読むタイプ。図書館にも散歩がてら足繁く通っていたけれど、今年は脚を悪くしてしまったから、家族と相談して、冬の間はお休みすることになった。さすがに凍り付いた石畳の坂を歩かせるのは怖いということになって。本人は渋ったけど、みんなの心配もわかったから、諦めた。

 するとアリスのおばあちゃんは今度は、自分の代わりみたいに、アリスに図書館に行くことを勧めた。一生をかけて学びたいことを探してきなさい。手がかりを見つけたならもう、学校なんか行かなくていいよ。そしてその手がかりは、今ならきっと見つかる。


 アリスは去年から学校に行っていない。理由は自分でもわからないが、行けなくなった。

 それでアリスは学校ではなく、図書館に行くようになった。おばあちゃんが紹介してくれた職員マーゴはアリスのお母さんより何歳か年上くらいで、少しふっくらした元気な女性。アリスに、あるリストの順に本を薦めてくれた。リストはアリスのおばあちゃんがマーゴに託したもので、おばあちゃんがアリスくらいの年のころに借りた本の履歴だという。

 本は面白いものもあればつまらないものもあった。アリスは返す都度マーゴにリストの次の本を借り、そうして間断なく、読んでは返しを繰り返している。おばあちゃんのリストはまだしばらく終わりそうにない。


 でも、ある風の凪いだ日、お昼にカウンターに行くとマーゴはいなくて、初めて見る人が座っていた。黒い髪に青い目で、眼鏡をしている。あまり身長の高くない男性。アリスは本を差し出しながら言った。

「これ読み終わったから返します」

 その職員は無表情に本を引き取り返却手続きをした。アリスはがっかりした。この人はマーゴと違って、「じゃあ次は」と本を示してくれない。引き取るだけ。アリスは無駄だろうなと思いながら、尋ねた。

「あの、わたし、次は何を借りたらいいですか」

 職員は怪訝な顔をしてアリスを見、手元の本を見下ろしてから聞いた。

「これは面白かった?」

「まぁまぁ。フェアリーが出てきたあとは、よかったです」

「そう。次はどんなのがいいの」

 わりとゆっくりした、でも抑揚がなくて冷たい感じの話し方だ。アリスは口をへの字に曲げた。

「祖母がマー……マクレガーさんに、リストを渡してるんです。私はそのリストの順に本を借りてただけだから、自分が読みたいものは、よくわからない」

「リスト」

「祖母が私くらいの年のときに借りた本のリストです。マクレガーさんから聞いてませんか」

 職員は頭を振り、アリスはため息をついた。たぶんこの人は最近勤め始めた人、マーゴよりもずっと若そうだし。でも目の前にパソコンがある。

 もしかしておばあちゃんのリスト、これでも見られるんじゃないかしら。アリスはそれがとてもいい考えに思え、少し前のめりになりながら言った。

「あの、祖母の名前は」

「言われても教えない」

 先回りされてしまった。アリスはうなだれながら一歩下がった。でも職員はさっきの本を見、アリスに前借りた本を聞いて、それから少しパソコンの画面を見て考え、言った。

「西区画の八番の棚の、上から三段目にある本。赤い表紙で、背表紙は金文字。そんなに厚くない。行けばすぐわかる」

「えっと」

「次に借りる本。タイトルはこれ」


 アリスはメモを受け取って、その本を探してきた。貸し出しの手続きをしてもらいに戻ったら、マーゴがいた。さっきの人はいない。

 アリスは本を差し出した。マーゴはポケットから取り出したリストを見、それからその本をもう一度見て、アリスに言った。

「これ自分で選んだの?」

「ううん。さっきここにいた人に聞いた」

「そうなの? エスターは私にしかリストをくれてないはずだけど」

 アリスは首を傾げ、パソコンを指差した。

「そのパソコンで、おばあちゃんが昔借りた本のリスト、見られるんでしょう? だから……」

「見られないわよ。誰が何を借りたかは大事な秘密だから、ちゃんと返してもらったあとは記録を消しているの」

「え?」


 アリスはそわそわしながらマーゴに貸し出しの手続をしてもらうと、その本の表紙を開いたところに、さっきあの職員からもらったメモをしっかり挟んだ。鞄に入れるとぎゅっと前に抱きかかえ、雪のちらつく中、急いで家に帰る。

 アリスのおばあちゃん、エスターは、あたたかい窓際で猫を撫でていた。アリスはコートも脱がずにエスターの前まで走ると、息を切らしながら本を差し出した。

「おばあちゃん。わたしも会った。わたしが借りた本聞いて、次はこれって言った。おばあちゃんに貸した本も、順番も覚えてるみたい。だからこの本って言ったんだと思う。あの人が、おばあちゃんに本を貸してた幽霊レイスね」

 エスターは本を受け取ると膝に置いて、はみ出ていたメモを抜き取り目を細めてから顔を上げた。

「あの人はいつもカウンターにいて、どんな本が読みたいっていったら、必ずぴったりの本を選んでくれたよ。相変わらず『a』が癖字だね」

 アリスは深呼吸をし、言った。

「おばあちゃんよりずっと若かった。本当に人間じゃないのね」

「そう。何十年も同じ姿なのよ。でも、これはあの人と私の秘密。そこに今日、アリスも加わった。マーゴにも内緒だからね」

 エスターは静かにそう言い、アリスの頭を撫でると、にっこり笑った。

「またいついなくなるかわからないから、それまではぴったりくっついておいで。そうすればきっと、アリスが一生学びたいと思えることに、出会うことができるからね」

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