第10話 ヴェルテとの遭遇
森の中は道らしい道もなく、枯れ木や岩を乗り越えなければ進めないほどだった。
気を失う前にアズのところへ行ったはずだから、ぬいぐるみ博物館はきっとこのあたりにあるはずだ。アズは匿ってくれるだろうか。
もしかしたら追い返されるかもしれないけれど、「リスタネーヴ」に殺されるよりはましだろう。
そう思って、必死にあの小さな看板を探した。しかし、いくら歩いても目に入るのは森の木々だけで、進むべき方向も分からない。
(あれっ、この木って……)
今目の前にある、幹に大きな傷がある落葉樹は、さっきも見たような気がする。同じところに戻ってきてしまったのか。
足の裏に何かが突き刺さったのを感じて見てみると、地面に落ちた木の枝のかけらだった。
傷口がよく見えない中、何とか取り除く。そういえば靴も履いていない。裸足で森の中を歩き回るなんて、家がなくなってからも初めてだ。
痛みをこらえながらじめじめした道を進む。ちゃんとした服も着ていないので、素肌を枝や草が傷つけていく。手足は冷え切り、これ以上体内から熱を発生させられないような絶望を感じた。
重い体を引きずるように足を進める。必死に歩いたはずなのに、目の前には再びあの傷がある落葉樹が現れた。一度も引き返してはいないのに、どうして。
もしかしたら、ルピナの「隠れ家」同様、ここにも何らかの結界が張られているのかもしれない。それなら、毒薬だって無意味だったという事になる。殺されなかったとしても、この森の中で孤独に死んでいくしかないのか。
座り込みそうになったカディスの肩を何者かが掴んだ。心臓が飛び出しそうになる。グリスが追いかけてきたのだろうか。
「おい、お前」
聞こえてきたのは、グリスよりもっと太くて荒々しい声だった。恐怖に震えながら振り返ると、そこにいたのは大柄な男だった。年はグリスと同じくらいだろう。緑がかった灰色の髪を、無造作に後ろで束ねている。背中には、カディスの背丈ほどもある剣を背負っていた。
「グリスの仲間だな。あいつはどこにいる」
男はカディスの肩を掴んだまま、苛立ちをにじませて言った。
「え……と、グリスは具合が悪くて」
どぎまぎしながら答える。
もしこの男に、自分がグリスに毒を盛ったことが分かったら大変なことになるに違いない。なんとかごまかさなくては。
「あぁ⁉んなもんただの甘えだろ。毎回毎回さぼりやがって。最下位のくせにどういう神経してんだあいつは」
言っていることがよく分からないが、この男はグリスの事が嫌いなんだろうか。もしかしたら、自分はグリスに連れてこられただけで仲間じゃない、助けてほしい、と言えば、助かるのかもしれない。
ここにいるという事はこの男は結界を抜けてきたという事だし、もしかしたら。
「とにかくあいつのところに案内しろ」
「あの、俺は仲間ではなくて」
「つべこべ言うんじゃねえ!もたもたしてると首をへし折るぞ」
助けてくれそうにはない。カディスは震えながらも小屋へと戻ろうとしたが、そもそも小屋への戻り方が分からなくなってしまっていることに気付いた。
「すみません、ちょっと行き方が」
「あぁ⁉馬鹿にしてんのか」
男がカディスの首を掴んできたので、ひゅっと息が漏れる。動悸が速くなっていくのを感じながら、カディスは小刻みに震えた。
至近距離にある男の顔が鬼の形相にゆがむ。
心臓が口から飛び出しそうになった時、何かが飛んできて男の顔の横をかすめ、背後にある木の幹に突き刺さった。男はぎょろりと目を動かし、それを乱暴に引き抜く。黒い石が柄にはめ込まれた、銀色のナイフだった。
「おい!何だ急に!」
男が怒声を上げる。男の手から解放されたカディスは、咄嗟にナイフが飛んできた方を振り返った。
そこには、乱れた前髪が目にかかったままのグリスが、もう2本別のナイフを左手に持って立っていた。今のところ体調が悪化しているようには見えない。毒の効果がまだ出ていないんだろうか。
「『入口』をこじ開けたのはお前か。何の用だヴェルテ」
グリスはいつも通りの冷たい声で言った。
「おうグリス。やっぱり仮病じゃねえか。毎回毎回さぼりやがって」
男がうなるように恫喝する。
グリスは感情の読み取れない目でカディスと男―ヴェルテというらしい―を一瞥すると、目線を逸らしたまま言った。
「別にお前には関係ないだろ」
「あぁ⁉お前は狩れてる数が足りねえから担当地区を変更で次のノルマを二倍にすることになったんだよ。その伝言をルピナに頼まれたんだ。全く、迷惑かけんじゃねえよ」
ルピナ、という名前に動悸がまた速まりだすカディスをよそに、グリスはため息をついた。
「多ければいいってものじゃないだろ。お前みたいに手あたり次第殺してたら確かにいつかは当たると思うけど。それにお前も狩りの成績自体はよくないから、こんな伝言なんて雑用を頼まれてるんだろ」
ヴェルテは歯ぎしりをすると、言葉にならない叫び声を上げながら、先ほど引き抜いたナイフをカディスの頭を飛び越えてグリスに投げつけた。
グリスは左手に持ったナイフで受け止めたが、ヴェルテは背負っていた剣でグリスに斬りかかる。カディスは急いで二人の間から離れようと、木陰に飛び込んだ。
グリスは剣の軌跡から逃れたが、ヴェルテはそのまま横に薙ぎ払った。剣が触れた木は焼け焦げたように黒くなり、火花が散る。
剣の切っ先がグリスをかすめた。それだけで十分な威力があったようで、グリスはバランスを崩すと地面に転がった。
「ルピナが強化してくれたんだ。やっぱりすげえなルピナは」
大男は嘲笑しながら、カディスの肩を蹴った。
(ヴェルテ……もルピナの事が好きなのかな)
そう思った時、再び目の前の景色が歪み始めた。意識が溶けだして、体が熱い。
(魔獣化……また?)
今魔獣化したらまずい。意識がもうろうとした状態で2人にとびかかって、返り討ちに会う気しかしない。
それでも体の変化を抑えることができず、牙や爪が伸びていく。カディスの異変に気付いた2人が視線を向ける。中途半端に魔獣化したカディスを見て、ヴェルテは鼻で笑った。
「なんだこのみっともねえ動物は!さすがお前の仲間だな!」
ブーツで腹を蹴り上げられ、内臓がつぶれるような痛みで動けなくなる。押し寄せる苦痛の中で目の前が真っ白になった。
再びヴェルテが体を蹴りつけてくる。
グリスはその隙に立ち上がると、ナイフをヴェルテの腕に突き刺した。ナイフが刺さった場所からは、血ではなく黒い霧がしみ出している。ヴェルテは咆哮を上げてナイフを引き抜いた。黒い霧が勢いよく噴き出して広がっていく。
「このままにしておくと全身が壊死する。早くルピナに治療してもらうんだな」
グリスはいつもルピナがしているように、空中に呪文らしき文字を書いた。何もなかったはずの空間に、ぼんやりと光る裂け目が出現する。
ヴェルテは、舌打ちをすると光の中に飛び込んでいった。その姿が消えると、光る穴は閉じられ、元の何もない空間に戻った。
カディスは呼吸を整えながらグリスを見やった。目を閉じて木にもたれている。さっき受けた傷のせいなのか、それとも毒が効きだしたのか。
そういえば。今は魔獣の姿なのに、意識はしっかりしている。もしかして魔獣化することに慣れたんだろうか。
しばらく痛みを落ち着かせるためにうずくまっていると、今度は体が縮んでいくような感覚に襲われた。牙も爪も、吸収されていく。痛みはないが、めまいと耳鳴りがひどく、思わず目を閉じた。
おそらく数十秒たったころ、めまいと耳鳴りがなくなった。
おそるおそる目を開けると、腕から鱗は消えていた。元は服だったぼろぼろの布切れがまとわりついているだけの肌を、冷たい空気が刺していく。
そうだ、グリスはどうなったんだろう。そう思って視線を巡らせると、目の前に手が差し出された。グリスだ。反射的にその手を取る。グリスは蒼白な顔の中で光る、感情の読み取れない目で言った。
「大丈夫か?」
「あ……えっと、まあ」
「ならいいけど」
カディスが立ち上がると、グリスはぼろぼろになったカディスを見て少し笑った。
「とりあえず新しい服を用意しないとな」
ひどく胸が痛い。気づきたくなかったけど、これが良心の呵責なんだろう。
そうだ、今のところまだナナシソウの毒が効いている様子はない。今解毒薬を作って飲ませたら大丈夫なのかもしれない。しかし、ナナシソウの毒に効く薬草をカディスは知らなかった。
本当の事を伝えて解毒剤の作り方を聞くしかない。「魔獣の種」の作り方を知っていたグリスなら、きっと知っているだろう。
「あの、さっきの薬、俺、ナナシソウを」
言葉がとぎれとぎれになる。
毒を盛ったことが分かったら殺されるかもしれない。いやきっとそうだろう。そんな気がする。言わなければよかっただろうか。でもこれ以上黙っておくわけには……。そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。しかしグリスは、あっさりと頷いた。
「ああ、ナナシソウを使ったんだろ。葉のかけらが服についていたからすぐわかった」
「えっ」
それならどうして、飲み干したりしたんだろう。
「ナナシソウと魔獣の血を混ぜると、ナナシソウの毒が分解されて魔獣の毒に効く薬になる。よく覚えてたな」
偶然にもカディスは正しい薬を作っていたらしい。
グリスは左右で色の違う瞳でカディスの目を覗き込んだ。
「でも、どうして。俺の事は嫌っていたはずなのに、自分の体を傷つけてまで解毒薬を……?」
グリスの言葉に、カディスは一瞬ぎくりとすると、なんとかごまかそうと手をひらひらさせた。
「あー、いや全然嫌ってないぜ。仲間だろ。っていうかグリスも助けてくれたじゃん。俺が魔獣になりそうになった時」
グリスは目を丸くすると、いつもの冷笑とは違う、自然な笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、初めて言われた」
カディスはばつが悪くなって、下を向いた。
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