第3話 1年前
見慣れたはずの自宅、ビリージェム家に「空き家販売中」という張り紙がされているのを見て、カディスは目を疑った。
薔薇のアーチも枯れて、芝生は所々黄色くなっている。カーテンはすべて取り払われ、すでに家族が住んでいないのは一目瞭然だ。
今年分の学費が支払われていないから寮には置いておけないと担任教師から言われた時は、妹のピアノの発表会が近いから、うっかり忘れているだけだろうと思っていた。催促するために実家に戻ってきたものの、まさかこんなことになっているなんて。
どうしたらいいのか分からなくて、学校から持ってきた鞄を持ったまま立ちすくむ。背中を日差しが照り付ける暑さは感じるけれど、今自分がこうして子供の頃から住んでいた家の前に立っていることに、どうしても現実感を持てなかった。ぼんやりしたままのカディスの前を、人々が通り過ぎていく。その中に小学校時代からの友人がいた。放課後によく一緒に遊んでたジェイドだ。
「……ジェイド、久しぶり。あのさ、俺の家って……」
ジェイドは面倒そうな表情で立ち止まる。
「ああ、カディス。なんだ、ついて行かなかったのか」
「えっと、どこへ?」
「知らないけど、ビリージェム家はこの前みんな町を出て行ったよ。夜逃げじゃないのかな」
夜逃げ?意味が分からなくて、足元が歪んでいくような感覚に襲われる。
「何があったのか全然知らないんだけど、なんでそんなことに……」
「じゃあ宝石店がつぶれたのも知らないんだ?家族に嫌われてるわけ?」
「つぶれたって……そんな」
こんなに日差しが照り付けているのに、寒気を感じて鳥肌が立った。
「じゃあもう俺の家はないってこと?」
「まあそうなんじゃない?」
ジェイドは同情する様子も見せず、あっさりとそう言って立ち去ろうとした。焦ったカディスは、その背中に呼びかける。
「あのさ、急な事だったから、どうしたらいいのか分からなくて。できたらしばらくジェイドの家に泊めてもらえると助かるんだけど……」
ジェイドは冷めた目でカディスを見た。
「えっと、だめ……かな」
その白けた表情を見て、語尾が小さく消えていく。
ジェイドは迷うことなく、あっさりと答えた。
「うん、無理だな」
「どうしてもだめ?友達じゃん」
「友達じゃないけど?まず、友達だと思ったことがないし」
あまりにも冷たい言葉に、息が止まりそうになる。ジェイドとは誕生日プレゼントを贈りあうくらい仲が良かったはずだが、向こうはそう思っていなかったんだろうか。
「どうして?」
ようやく絞りだした言葉はかすれて震えていた。
「どうしてっていうか、うーん、学校が一緒だったから遊んでただけかな。別に嫌いとかじゃなかったけど。じゃあね」
それ以上何かを口に出すことはできず、去っていくジェイドの背中から目を逸らした。いつまでも立ち尽くしているわけにはいかないのに、動き出せない。目の前では、「空き家販売中」の張り紙が空しく風に揺れていた。
他の友人の家を回っても、返事は大体ジェイドと同じだった。友達は多い方だと思っていたけれど、勘違いだったのかもしれない。
日が暮れて人通りがなくなっても帰る家も行く場所もなく、仕方なくなけなしの金貨で町はずれの宿に泊まることにした。古びた小さな宿屋で、この町に住んでいたころは一度も足を踏み入れたことのなかった場所だ。
こんな古びた宿なのに、部屋はあと一室しか空いていないということだった。一階の食堂も、テーブルは半分以上客で埋まっている。暗い気持ちを抱えながら割り当てられた部屋に入ってみると、今までいた寮の部屋よりも狭く、壁紙は所々はがれていた。蜘蛛の巣が張っている窓からは、舗装されていない道とまばらな並木道が見える。気持ちの整理ができないままベッドにもぐりこむとかびたような臭いがした。
明日からどうすればいいのかをぐるぐる考えながら、眠ったり目を覚ましたりしながら翌朝を迎えたカディスは、動き出す気にもなれなくてベッドに腰掛けていた。全く疲れは取れていない。学費が払われていないということは寮に戻るわけにもいかないし、所持金がなくなったらここからも出て行かなければならない。あと三日くらいは泊まれるだろうけれど。
考えているうちに、喉が渇いていることに気付いた。部屋の中には何もない。下の食堂で水くらいもらえるだろうか。カディスは重い足取りで階段を下りた。
食堂からはパンの焼けるいい匂いがした。そのにおいをかいだせいで、こんな時なのに空腹感を覚える。たしか金貨はまだ二十枚あったはずだから、少しくらい何か食べてもいいだろう。
「えっと、このホットサンドとミルクティください」
ホットサンドをほおばると、少し緊張感が和らいだ。しばらくここにいて、仕事を探せば何とかなるような気もする。食べ終わったカディスは、立ち上がると支払いを済ませようとした。ところが、金貨を入れていた袋が見当たらない。たしかにさっきまでは持っていたはずだ。
「代金は8ピィルですが」
宿屋の主人らしき60歳くらいの男性が眉間にしわを寄せた。
「えっと、すみません確かにあったんですけど」
さっき座っていた椅子の下にも、何も落ちていない。首筋を汗が伝うのがはっきりとわかった。
「失くしたみたいで……。あ、そうだ部屋に置きっぱなしだったのかも。見てきます」
部屋へ戻ろうとしたカディスの腕を主人が掴んだ。
「困りますねえ。ちゃんと払っていただかないと」
主人は威圧感のある顔でじっとカディスを見つめている。
「あ、払いたいんですけど、ちょっと」
「何?持ってないの?」
「持ってないわけじゃないんですけど……」
「ないなら、警察を呼ぶよ」
どうすればいいのか考えようとしても、頭には何も浮かばない。助けを求めるような気持ちで周りを見渡すと、優し気な声が聞こえてきた。
「どうかしたのかしら?」
主人が驚いたようにカディスの腕を離す。そこには暗い茶色の髪を緩やかに巻いた、二十代半ばほどに見える女性が立っていた。少し目じりの下がった大きな目は長いまつげに縁どられ、小さな尖った鼻の下にはばら色のふっくらした唇が微笑みの形を作っている。身に着けている裾の長いシンプルなワンピースは、瞳と同じ深い青色をしていた。
「……この子が代金を払ってくれなくて困っているんですよ」
主人は怒ったような表情を作ったが、頬を緩ませてその女性を見ていた。
「それは良くないわね。でもきっと本当にお腹がすいていたんじゃない?いっそのこと、ここで働かせてあげたらどうかしら?」
女性は穏やかに言った。主人は、考え込むような顔をしている。
「この宿、お料理もとてもおいしくて素敵だったわ。でも、少ない人数ですごく忙しく働かれているのを見て、私心配してしまったの。あまり無理されると、この素敵な宿屋を続けるのが難しくなってしまうんじゃないかって」
主人ははっきりと頬をほころばせた。
「また来月泊まりに来るつもりだから、それまでこのまま素敵な宿屋であってほしいわ」
そういうと、彼女は再度にっこりとほほ笑んだ。
「なるほど。たしかに人手は足りていないし、ちょうどいいかもしれんな」
主人は腕組みをして、大きく頷いた。
「ね、いい考えでしょう?」
女性は花が咲いたように笑うと、そのまま宿屋を出て行った。
ドアが閉まる音がすると、主人は腕組みをしたまま言った。
「あの人に免じて、お前はここで雇ってやる。住み込みでもいいぞ。ただし泣き言を言ったら許さないからな」
不安ではあるが、しばらく住む場所ができるのはありがたい。カディスは、できるだけ明るい声で
「はい。よろしくお願いします」
と言った。
宿屋でのカディスの仕事は、主に皿洗いと掃除、それにかまどに使う薪を割ることになった。
「おい!まだこれだけしかできてないのか!給料減らすからな!」
主人は通りかかるたびに罵声を浴びせてくるが、聞き流してしまえばどうという事はない。問題はもう一人の従業員だった。カディスより少し年上に見える男だが、隙があればカディスが受け取ったごくわずかな金貨も奪って自分のものにしてしまう。それに、なぜだかカディスが洗った皿を割ったり、掃除中に後ろから殴りかかってきたりする。主人にそのことを話しても、無視されるか
「うるせえんだよ!余計な事言ってないでさっさと働け!」
と怒鳴りつけられるだけだ。
カディスはそんな日々に、まだ一か月ほどしか働いていないのに、疲れ果てていた。最近では、初めてこの宿屋に泊まった時のように、よく眠れない日も増えている。今日も頭がどこかぼんやりしていて、体が痛かった。皿洗いはまだ途中だが、食堂のテーブルはどれも片付けが済んでいないし、先にそちらに取り掛かった方がいいのかもしれない。カディスは洗い場から出ると、すでに誰も座っていない散らかったままのテーブルへと向かった。
「カディス!これもさっさと洗っとけよ!全くとろいんだから!」
例の男がカディスに積み重ねられた皿を押し付けてくる。受け取ろうとして、不意に体がふらついた。うまく受け取れなかった皿が床に落下していく。何枚かは無残に割れて、残っていたソースが床を汚した。
「キャッ!」
小さな悲鳴がして恐る恐る顔を上げると、そこには以前カディスに助け舟を出してくれたあの女性が立っていた。白いドレスにソースが飛び散り、ひどい染みができている。
「おいお前何やってるんだよ!」
「すみません……!」
とんでもない惨状に、カディスは頭が真っ白になった。
「この前ようやく手に入ったお気に入りの服なのに、どうしてくれるのかしら」
女性は恐ろしく冷たい顔と声色で吐き捨てた。以前に会った時の優し気な微笑みは影も形もない。長いまつげに縁どられた深い青色の瞳ははっきりとした怒りを湛えている。先輩従業員は大きく頭を下げて言った。
「こいつがぼーっとしていて本当にすみません!」
騒ぎを聞きつけたのか、主人も駆けつけてきた。
「お客様!どうされましたか」
女性の姿を見ると、主人は大げさに焦りを顔に出した。女性は、冷たい表情と声色のままカディスの手を掴む。
「こんなに仕事ができない人だとは思いませんでした。私が勧めておいて言うのも申し訳ないですが、彼の事は解雇していただけませんか。でないともうここには来られませんので」
「ええ、はい……。もちろんです。今すぐにでも」
主人はカディスを睨みつけると即座に答えた。
女性は目を細めると言った。
「あなたにはしっかりと責任を取ってもらいますからね。一緒に来てちょうだい」
カディスは仕事着のまま、否応がなしに手を引かれて宿屋を後にした。
二人がたどり着いたのは、宿屋から続く土がむき出しになっている道の脇にある茂みだった。女性はそこで立ち止まると、空中に何か文字を書くような動作をした。ふと、何もなかったはずの空中に裂け目が生まれる。その中には、ぼんやりと光る空間が見えていた。
「こっちよ」
女性は空間の中に飛び込むと、カディスに手を差し伸べた。その手を恐る恐る握ると、女性に空間の中に引き込まれる。その中は白い光が雲のように渦巻いている、初めて見る景色になっていた。手を引かれたまま光の中を進むと、出口が見えてきた。生い茂った木々の向こうに、レンガ造りの建物がある。カディス達が空間の外へ出ると、女性は振り返ってもう一度空中に光る文字を書いた。光る空間は閉じられ、そこに裂け目があったことさえももう分からなくなっている。
「あの、ここって」
自分がとんでもない失敗をしてしまった事さえも忘れて、カディスは問いかけた。女性はまっすぐ前を向いたまま木々の間を進むだけで、何も答えてはくれない。
そういえば、学校で少し習った気がする。昔は魔術師たちも普通に町中に暮らしていて、魔術も日常の中にありふれていたと。今ではずいぶんその人数が少なくなったとは聞いているけれど、もしかしたら彼女は、昔出会った「アズ」同様に魔術が使えるのだろうか。
女性は重厚な門を開くと、洋館の入口へ向かった。玄関は蔦でおおわれ、レンガには所々苔が生えている。
女性が着替えてくると言って二階へあがって行ってしまったので、カディスは所在なく室内を見回した。洋館の中には黒いじゅうたんが敷き詰められ、大きなテーブルと簡素な椅子が置かれている。戸棚には薬草や鉱石らしきものが保管されていて、分厚い本も何冊もあった。やはり魔術師の隠れ家といった雰囲気だ。
しばらくして戻ってきた彼女は、深緑のドレスを身に着けていた。椅子の一つに腰掛けると、カディスにも座るように促す。ようやく自分が叱られるべき状況だと思い出したカディスは、唾を飲み込んだ。向き合う形で椅子に座ったカディスに、女性は意外にも柔らかい笑顔を向けた。
「ごめんなさい、あまりにもひどかったからあんなことを言ってしまって」
「えっと、すみません、お気に入りの服なのに」
カディスはしどろもどろになった。許してもらうことはできるんだろうか。そして許してもらえない場合どうなるんだろう。
カディスの心配をよそに、彼女は笑いながら言った。
「違うの、ひどかったのはあの人達よ。あなたにばかり仕事を押し付けて。あんなところで働くのを勧めた私が間違っていたわ」
「えっ」
予想外の言葉に、どんな反応をすればいいのか分からなくなる。
「だからすんなりと辞められるように怒ったふりをしたの。あの時服が汚れなかったら、わざと文句をつけて騒ぎを起こすつもりだったもの」
「そう……だったんですか」
まさか自分を助けてくれるために演技をしていたのだとは。
「そういえばまだ名乗ってもいなかったわね。私はルピナ。ここは私の家で、仕事場よ」
「えっと、カディスです。よろしくお願いします」
カディスが頭を下げると、ルピナは声を上げて笑った。
「そんなに固くならないで。カディスはあの宿屋で、住み込みで働いていたんでしょう。これからはここにいればいいわ」
「ここにいれば……って」
カディスは目を丸くした。ルピナはどうしてそんなことを言うんだろう。
ルピナは一瞬笑顔を曇らせると、言葉を続けた。
「私ね、弟がいたの。亡くなったのはあなたくらいの年の時だった。あなたと同じ目の色をしていたわ」
そうか、弟に似ていたからあんなに親切にしてくれたのか。
「弟を殺したのは『魔石病』の患者だったわ。魔力を帯びた炎で焼き尽くされて、残ったのは骨のかけらだけだった」
ルピナは、手を伸ばして椅子の脇にある引き出しから黒い布張りの小箱を取り出した。中にはどこのものなのかも分からない、小さな骨のかけらが入れられている。
「殺した……って」
急な話に息を呑む。
「だから、私は魔石病をこの世からなくしたいの。それが魔術師として生まれた私の使命だから」
カディスの目を覗き込むと、ルピナは真剣なまなざしでそう言った。何を言えばいいのか分からず、カディスは唇を噛む。静まり返った部屋の中で、自分の心臓と呼吸の音だけが響き渡っていた。
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