月の池

佐橙

池に囚われた天女

 空は晴れていた。しかし、俺の心は曇天だった。何か大きな悩みや、不幸があったわけではない。しかし、自分の生き方に、人生にどうしても納得ができないのだ。誰でもそういう時期が一度はあると、昔どこかの本か、はたまた人か、聞いたことがある。誰でも通る道なのだろう。

 

 俺は、家にいるのが心地悪く、足が導くまま森に足を踏み入れた。森は、はじめこそ木々や花たちが静かに、優しく揺れていた。しかし、奥に進むにつれて、まるで俺を歓迎してないかのようにザワザワと不気味に、激しく騒ぎ出した。俺の心とは反対にあった空は、心を映した鏡のように、曇天へと変わっていた。急に変わり果てた森に気味が悪くなり、俺は小走りで来た道を戻っていった。しかし、走れど走れど、光が見えない。

 あぁ、俺の生き方とはこういうものだ。俺の人生とは、光のない暗闇なのだ。薄暗い森の中、俺は一生この暗闇に閉じ込められるのだ。走っていた足は重くなり、呼吸は乱れ、力なく森の中を歩いていた。もうこの道が、帰り道なのかもわからない。この森は、近所にある小さな森だ。確かに進めば山だが、登った記憶はない。本当に情けない、早く家に帰りたい。俺の瞼が、普段より熱いような気がした。


 何時間経ったのかわからない、しかし、曇天だった空は、心なしかさっきより暗くなっていた。森の中を彷徨っていると、大きな池がある場所に出た。ずっと歩いていたので、ここで少し休憩をしようと池のほとりに腰を掛けた。綺麗な池だったので、乾いた喉を潤した。するとどこからか、女の人のすすり泣くような声が聞こえた。


「誰かいるのか?道に迷ってしまったんだ。どうか、わかるなら帰り道を教えてくれないか。」


あたりを見 回しても人影がない。声は、近い気もするし、遠い気もする。


「そこに誰かいるのですか?」


 突然声が聞こえた。その声は足元から聞こえてくるようだった。俺の足元には、円形の木でできた蓋のようなものに、四枚の紙が貼ってあった。こんなものさっきまであっただろうか、と不思議に思っていると。また、あの女の人の声が聞こえた。


「わたくしは、天女でございます。姉が羽衣を人に奪われと聞き助けに来たのです。しかし、下界の空気が体に合わず、この池で休んでおりました。疲れ果て眠っていたところ、突然祓い屋が来て私を封印してしまったのです。私は、何も悪さなどしておりませぬ。どうか、親切なお方、そこの札を剝がしてはくれませんか。故郷に帰りたい、この暗く冷たい場所から出たいのです。」


 おかしな話ばかりしているが、いつまた人に会えるかわからない。


「助けて頂ければ、この恩は必ず返します。ですが、長いこと封印されていたため私は力がほとんど残っておりません。私のために社を建て祭ってはくれませんか。さすれば、力を取り戻し、必ずあなた様の願いを叶えて差し上げます。」


 どれほど長い時間この薄気味悪い場所にいたのだろうか、この女の人はずっと出られなくてこうして泣いていたのだろう。


「まっていろ、今助けてやる」


 俺は、古びた紙へと手を伸ばす。長いことあったのだろう紙はぼろぼろで、簡単にはがせてしまった。蓋を開け中を覗いてみる。真っ暗で何も見えない。


「おーい。大丈夫か?出られそうか」


 俺は、真っ暗な穴の中へ手を伸ばした。その手が何かに触れたので、強くつかみ、ぐっと上へと引っ張った。穴から出てきたヒトはとても、とても美しく、まるで月のように、儚く輝いて見えた。


「人の子よ、ありがとう」

「ここは普通の人間はここへは来られないのですが、きっと狐道に迷い込んでしまったのですね。社は簡易なものでもいいのです。作って頂ければ、家へと帰して差し上げましょう。」


 天女は俺に優しく、美しく微笑みかけた。しかし、弱っているのは本当なのだろう、今にも消えてしまいそうなほど、弱く儚い笑顔だった。


「安心してください。俺が天へと帰して差し上げます。」


 俺は天女にそう告げ、弱った天女を三回、天へと蹴り上げた。


―――ごっくん。


 あたりにあった結界は、役目がなくなったのか綺麗に消えた。これで家に帰れる。ここ数百年は、人の足が途絶え退屈していたのだ。久しぶりに美味いものを喰った、満足だ。さぁ、俺の社に帰るとしよう。


                                    終


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月の池 佐橙 @Yuzusa18

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