第17話

 夜の自室には静かな時間が流れていた。その中で僕は座りながら、机の真ん中に置かれたカッターナイフを見つめている。


 三日後、このまま何もしなければ、僕は今の無力な自分のまま、鉄をも切り裂くあの力の前に立たされることになっている。


 ミコ曰く、あの黒い男の正体は桜織さくらおり高校2年C組の担任教師である橋本一樹ということらしい。


 昼間、駅前の喫茶店でミコが話した橋本が黒い男である確証にはもはや疑いはないのだが、それでも信じられないという気持ちはあった。


 僕は机のカッターナイフから目を逸らし、背もたれに寄りかかる。リクライニング機能の備わったオフィスチェアが限界まで後ろに傾き、僕の視線は天井を向いた。


 僕があの黒い男——橋本先生と戦う。


 まるで実感が湧かない。それに彼のように血を使って戦う自分の姿も。


「大体、どうすればいいっていうんだよ…」


 血解者けっかいしゃ。ミコが言うには、ネクロマンサーによって造られた屍人の中に稀に現れるという覚醒した存在。血を媒介とした異能が使えるという。


 橋本が使う鉄をも容易に切断してしまうあの斬撃も、血解の能力の一つだ。


 今日、結局僕も戦う方針は覆せないまま、ミコには押し切られてしまい、その後は言葉だけにはなるが、血解の力についてレクチャーの受けることになった。


 曰く血解の能力の形態には個人差があり、屍人の元になった人物や、それを造ったネクロマンサーの特色が色濃く反映されるものだという。


 血解の能力を発現させるには、血を操る感覚を自分のモノにする必要があるようだ。僕はこれまでに二度、その血を操る感覚というものを体験したことがある。


 初めてミコと出会った時と、そして橋本の斬撃によって体を切断された時。僕は普通であれば死は避けられないほどの致命傷を負った。


 あの時、ミコが言うには僕の身体は無意識に血を操り、その身体を元に戻していたという。ただ意識が朦朧としていたこともあって、その時の感覚はまるで覚えていない。


 だからその血を操る感覚というのを知るには、まずは血を流す必要がある。


 僕は背もたれから身体を起こして、今一度机の上に置いたカッターナイフと向き合う。


「やるしか、ないのか…」


 自分に言い聞かせ、心を奮い立たせる。何もしなければ、僕は三日後無力な自分のまま戦いへと放り出されるのだ。


 そうなれば、カッターナイフで指先を少し切るのとは比べ物にならないくらいの痛みを味わうことになる。


 僕はカッターナイフを手に取り、その刃を一つずつ伸ばしていく。時計の針のような音がやけに大きく聞こえたような気がした。


 少しずつ動悸が強くなっている。外的要因で怪我をするのと、自分で自分を傷つけるのとでは、やはり違う。


 でも指の先を切るくらいの痛みなんて、昨夜と比べたら何のことはないはずだ。


「…痛っ」


 そしてようやく僕は、カッターナイフの刃を人差し指の先に押し当て、ひと思いに切った。


 切り込みの奥で、痛みと共に鮮血が浮かんでくる。やがて溢れ出したそれは、指先から伝って机にぽたりと落ちた。


 じんわりと指先に熱が帯びてくる。


「これを、操作する感覚…むっ」


 僕は思ったよりも深く切ってしまって、今なお血が流れ続ける指先を見つめながら動くように念じる。


 しかし血は流れ落ちていくだけで、何の反応もない。ジクジクとした痛みのせいで集中できていないせいか、それとも漠然と念じているだけではやはりダメなのか。


 ミコのレクチャーによると、血解の力を覚醒させるには、より明確で強力なイメージが必要となるそうだ。


 そのイメージと僕の素質、そして僕を造り出したネクロマンサーであるミコの性質に合致して初めて発現するという。


 ただ具体的な手がかりは何も教えてくれなかった。そこが最も肝心な部分だというのに。


 ミコ曰く、自分が何か言葉として与えることで、僕のイメージのノイズになる可能性があるらしいのだ。


 とはいえ何の手がかりもなしに、条件の全てに合致したイメージなんてできるわけがない。


「より明確で、強烈なイメージ…か」


 それからもしばらく念じてみたが、流れ出した赤い血は何も応じない。


 やがて時間切れを告げるかのように、僕の血は霧散した。いつの間にか指の傷も塞がって、痛みも完全に引いている。


「この程度の傷なら、あの時みたいに逆再生にならないわけか…」


 ただ血の跡が残らないというのは、少し日常生活で違和感になるかもしれない。今後は怪我には注意しなければ。


 新しい気づきも発見しつつ、僕はそれから何回か自分の指を切っては念じるを繰り返した。しかしその度に血は虚しく霧散して何の結果も出ることはなかった。


 これ以上ただ闇雲に想像を重ねても意味がない。結局確信を得たのはその事実だけ。


「…寝るか」


 僕はカッターナイフを放り投げ、ベッドに身を放る。


 三日しかない。それでも今ここで気を張りすぎては、当日まで持ちそうにはない。ここはまだ三日あると考えて、それまでに具体的なイメージを練り上げていこう。


 瞼を閉じると、すぐさま眠気の手が僕の意識を包み込む。


 そういえばここ最近は色々な意味で気が張っていて、まともな睡眠なんて取れていなかった気がする。僕は力を抜いて、訪れる眠気に身を委ねた。


 相当気疲れてしまっていたせいか、夢は見なかった。


 翌日——


 自動設定してあったスマホのアラームが起動する前に自然と僕は目を覚ました。


 疲れは随分と抜けた気がする。すっきりとした朝だ。


 僕は今日の必要な教材やノートを鞄に詰め込むために机へと向かう。


「…あれ、何だこの黒ずみ…」


 机の上に必要な教材を出していく途中で、僕は机に小さな黒い汚れのようなものを見つけた。


 いや見つけたというよりは、視界に入って何となく気になったという程度だが。


「——お兄ぃ!」


 考える前に、部屋の外から僕を起こしにくるトワの声が聞こえてきた。早く準備をしてしまわなければ、突撃してきそうだな。


 僕は机に散らばった教材を急いで鞄に突っ込んでいった。


◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇


 三日という時間は、あっという間だ。


 特に避けたい予定があるような状況では、体感時間がとても早く感じる。登校と帰宅を繰り返し、自分の部屋で指を切り続ける日々。


 しかし具体的な力のイメージは何も成就することはなかった。血も全く動かない。


 そもそも三日でできるようになれというのが無謀過ぎたのだ。何度もミコにはメッセージで決行日を延期することはできないのかと交渉してみたが、たった1時間すら延びることはなかった。


「本当にいくのかよ。僕はまだ…」


「もうそれは何度も言っただろう。お前の都合で予定は変えられない。血解が使えないなら、使わないで対応すればいい」


「対応って…」


 一応中学の頃に、式島奏多が購入していたらしい木刀を刀袋に入れて持ってきてはいるが、これが通用するとはとても思えない。


「別に倒せなくても構わないからな。足止めくらいなら、できるだろう。その身を賭せば」


 ミコは振り返ることもなく、どんどん目的地へと歩いていく。


 ミコが交渉と称して、橋本先生と待ち合わせに指定したのは、繁華街から大きく外れた人気のない場所にある廃工場の倉庫だ。


 時刻は20時前。辺りはすっかり暗闇に包まれており、繁華街から外れてからどんどん明かりや喧騒が離れていく。


 やがて河川敷の近くまで来たからか、自然の音を強く感じる。虫の音や、よく耳を澄ませば川の音だって聞こえる。


 街灯は点々と暗闇の中に浮かぶように立っていて、辛うじて道がどう続いているのかわかる程度だが、だんだんと目も暗闇に慣れてきた。


 その頃になってようやく目的地に辿り着く。


 今は既に使われていない廃墟化した工場施設。複数の施設や倉庫が囲われており、その全てがそのままの状態で残されているらしい。正門であろう鉄柵のような引戸門扉の向こう側には、闇と雑草に溶け込んだ建物がいくつも見える。


 その正門はおそらく最初は鎖で閉じられていたのだろうだが、今ではそれも断ち切られており、誰でも入れるようになっていた。


「さて、相手はもう来ているようだな」


 門は既に人が入れる程度の隙間だけ開けられていた。ミコは躊躇いもなく、その隙間を通り抜けて、奥へと進んでいく。


 僕は息を呑み、刀袋から木刀を取り出してからその後ろについていく。ここから先はもう、いつ相手と遭遇するか分からない。


「いきなり襲われたりとかしないよな…?」


 僕が過敏になって周囲を警戒していると、ミコは肩をすくめて呆れたように溜息を吐いた。


「おいおい、今からその様子じゃ持たないぞ。それに表向きは交渉だ。襲われることはない…相手もこちらの力量については理解しているだろうしな」


「でも僕は結局血解を使えるようにならなかったんだぞ!」


 僕はできるだけ小声で、ミコに身体を寄せてその不安をぶつける。もう既に敵は近くにいるかもしれないと警戒しつつも、それだけははっきりと彼女にも認識してもらいたかった。


「まぁ、どう話が拗れていくかは分からないが、問題はない。相手より私の方が格上だからな」


「だからって、拗れる前提かよ…」


 ミコは一貫して余裕を崩さない。確かに彼女にとっては苦とはならない状況かもしれない。


 それならばいっそのこと、1人でやってしまえばいいのに…


「こちらの結論は変わらないからな。それに、事実を知れば、向こうもこちらと同じ結論に至るだろうさ」


「事実…?」


 僕は首を傾げながら、空いた門の間を通り抜けていくミコについて行く。


「前にも言っただろう? 私の目的はネクロマンサーを殺し、その魂に刻まれた概念を奪うこと。しかしその選択肢は私にだけ与えれらたものではない。つまり私の不老の法を会得する一番の早道は私を殺すことなのさ」


 殺すか殺されるか——そんな話をしているというのに、ミコはまるで世間話をするかのような態度だ。


「まさか、それを話すつもりなのか?」


「状況による。万が一にも逃すわけにはいかないからな。相手は不老にかなり執着しているようだし、少し煽ってやれば私の命を奪おうと躍起になるだろうさ」


「…つまり、僕はそうなった時に盾になれってことなのか」


「はは、分かってるじゃないか。大丈夫、お前は死なない」


 先を歩くミコは肩越しに振り向いて笑う。一方で僕の気分としては最悪だ。


 ミコの力があればきっと1人であっても、この問題を解決することはできるだろう。しかし相手の力量が未だ不明瞭である以上、万が一に備える。つまりはそれが僕だ。


 血解術で対抗することができないと分かった以上、僕がここに呼ばれた理由は一つ、ミコを肉の壁として守ることだ。


 その時になれば、ミコは強制の言葉を使ってでも僕を動かすだろう。


 最初から逃げ出すことが許されない僕には、もはやミコが1人で相手の反撃をさせる間もなく無力化することを願うしかない。


 そこまで考えたところで、僕は自分の精神が人間のそれではなく、屍人としてのものに変質していることを自覚する。


 今の僕はどうせ逃げ出せないだろうという諦観から、おとなしくミコの後ろを歩いているが、普通の人間ならきっとその場を動けなくなるほどの恐怖があるはずだ。たとえ無駄な抵抗だとしても。


 それなのに今の僕は拒絶感が前面に出てきているものの、そんな自分を客観視して、表面上は大人しく現実を受け入れ、ミコに従っている。


 もちろんこの先、最悪の想定が現実になれば僕は死を通り抜ける痛みと苦しみに悶えることだろう。それでも死ぬことはないという確信だけはある。その確信が、ある種の俯瞰するような感覚を僕に与えているのかも知れない。


 ただ一方で、ミコだけは僕における本当の死を与えることができる。強制によって心を抑え込み、ただ従うだけの人形にすることが——意思を持つ僕にとってはそうなることこそが、死を意味する。


 想像できる痛みよりも、意思を奪われ無になるという想像できない恐怖を避けたい。


 ミコに言われたからというわけではないが、やはり僕は彼女と出会ってナイフで腹を刺された時から、人ではなくなってしまったのだ。


「…この場所、随分と広いし、建物もたくさんあるようだけど、詳しい場所は決まっているのか?」


 これ以上自分のことを深掘りしても虚しい思いをするだけだと、僕は意識をこれからの脅威に向ける。


「第2倉庫だ。この施設は工場施設のエリアと第1から第4までの倉庫エリアに分かれている。工場施設は障害物も多いが、倉庫エリアは比較的開けているから、戦うにはちょうどいい」


「戦いになんて、ならなければいいのに…」


「まぁ、相手が大人しく首を差し出すようなら、戦いにはならないだろうさ」


 相手が命を差し出す状況…そんなこと実現するわけがない。戦いは絶対に避けられないということだ。


 そしてミコが万が一にも倒されるようなことがあれば、僕の身だって只じゃ済まないだろう。


 僕は木刀を強く握りしめた。こんなの相手にとってはただの棒切れで、時間稼ぎの足しにもならない。


 それでも戦わなければ、何も変わらない。僕は、今更だが普通の人として日常を過ごしたいと思っている。


 だけど僕の生活圏のすぐ近く——桜織高校がネクロマンサーが潜んでおり、生徒が犠牲になり続けている。この問題が解決しなければ、穏やな日常なんてこない。


 つまりこれは僕の人としての日常を取り戻すための戦いでもあるのだ。僕はそう言い聞かせて、ようやくハリボテで虚勢に近いものではあるが、覚悟を決めた。


「…とにかく、この木刀が何かしらの役に立つことを願うしかないか」


 僕はため息を吐きながら、独り言のように溢した。ちょうどその時、目的地である第2倉庫とやらについたらしい。


「さて、行こうか。目的を果たしに」


 倉庫の外観を見上げて立ち止まったミコの隣に立った僕は、視線を少し下げて彼女の表情を見る。


 僕のハリボテのような覚悟なんかとは比べ物にならない、強く確固たる意志を宿し、高潔さすら感じるような表情を。

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