第12話
帰宅した後の僕は、夕食も食べずに自室のベットに倒れ込む。とても食事が喉を通るような気分じゃなかった。
結局あれからミコとは大した話はしていない。ただ明日から相手の正体や戦力を詳しく調べる旨だけ伝えられて解散となった。
でも多分、あの時の僕は心あらずな感じで、ベッドに倒れ込んだ今も、あの時何か返事を言ったのか、それとも何も言わずに帰ってきたのか思い返すことができない。
今はただ、深い濁りに沈んでいくような気分だった。
とても現実とは思えない。こういう状況は、ミコと出会ったあの日以来で、ただ決定的に違うのは、目の前で人が死んだことだ。
僕と関わる人が、死んだ——
改めてその事実を認識して、仰向けになった僕は鳩尾あたりに鉛の塊でも圧し掛かっているような息苦しさを感じる。
「うっ…はぁっ、はぁっ…」
体を横して、僕は空気を荒く吸った。息苦しかったのは気のせいじゃなかった。無意識に、呼吸する力が弱くなっていたらしい。
上沢は死んだ。でも同じ場所にいた僕はこうして、呼吸ができなくなって苦しんでいる。
でも僕は生きているわけじゃない。ただ、死ななかっただけ…それでも僕はここにいる。
どうして僕、なのだろう。
呼吸が落ち着いてきた後、無気力な思考の歯車を回し始める。
ミコは容赦のない性格だ。目的を果たすためなら、目の前の人の死にさえ表情を変えないような、鉄壁の意志。それを徹底して貫いている。
そんな彼女が、僕——いや式島奏多という人間は、わざわざ屍人として蘇らせた。本人は都合の良い小間使いにでもするみたいな言い方をしていたが、これまでのミコを見ていると、そんな必要もないように思える。
「どうでもいいか…そんなこと。考えたって、あいつの心の中なんて、分かる訳がない」
僕は自分の思考が直面している現状から逃げていることを自覚しながら、独言る。
とはいえもう言い訳も、懺悔も思い浮かばない。答えのない感情の中で、何度も脳裏に浮かぶのは、上沢が工藤に刺され、倒れ、その後黒い男によってバラバラにされる瞬間。それだけがずっとループしている。
五感が埋もれていくような感覚。その途中で、不意に聴こえてきた扉のノック音に我に帰った。
「兄ぃ〜? どったの、ご飯も食べずに」
「…ごめん。今日は食欲ないというか、ちょっとしんどくて。このまま寝るよ」
「何か食べなよ。気分が悪いなら、お粥とか…お母さんに言ってこようか?」
僕は腕に埋もれさせていた顔を少し出して、妹のトワの方を見る。扉にもたれかかっているが、僕のことを心配そうに見つめている。実に出来た妹である。
そんな妹の気持ちを汲んで、僕は自分の腹具合を確かめる。思えば、ずっとミコや上沢のことで思考が埋め尽くされていたから、別のことに意識を向けるのは久しぶりな感じがした。
お腹は空いている。でも、食欲がまるでない。さっきからずっと、喉の中がめくれているような感覚があって、食べても吐き戻してしまう予感しかしなかった。
「…とりあえず、今はいいや。一回寝てから、何か食べられそうなら、適当に食べるから、お母さんにはそう言っといて」
「はぁ…おっけ。それじゃ、おやすみ」
トワは諦めのため息を残しながら、静かに扉を閉めてくれた。
廊下の光がなくなって、さっきと同じなのに、さっきよりもずっと闇の中にいるような気がした。
ひたすら無気力だった。何もしたくない、何も考えたくない。だけど目を瞑っても、いつまで経っても眠気は訪れない。身体も精神も、これまでにないくらい疲弊しているというのに。
黒い瞼の裏に赤や青や、緑っぽい色がドロドロと形を変えていく。その合間合間に、時々眩しいフラッシュが焚かれたと思うと、やはり先ほどの非現実的な光景が蘇る。
時折目を開けて、手元にあったスマホで時間を確認する。その度にスマホからの容赦のない光に、目へのダメージを自覚した。
時間はまるで固まっているのかと思うくらいに進んでいなかった。
何も思い出したくない僕はただひたすら祈るように眠りが訪れるのを待つ。でも一方で、このまま眠ったら、またあの時間に戻ってしまいそうで、恐ろしくてたまらなかった。
初めて人が死ぬのを僕は見た。それも、身体がバラバラになるという瞬間を。人が人であった事実が失せ、生き物から肉の残骸になる瞬間を。
ミコといればこんなことがきっと繰り返される。繰り返してきたからこそ、ミコはきっと他人が死んでも表情を1つ変えなくなったのだ。
自分もいずれそうなるのだろうか。
僕は自分がまともな人間ではなくなったということを自覚している。でも、心だけは人間であろうとしていたのかもしれない。だから、いずれ自分が人の死に何も感じなくなるかもしれない。
そうなることが嫌だと思う反面、そうなれば今のようにならなくなるのだろうかと思うと、救いのような気もした。
それからも思考は静かな世闇に包まれる部屋の中で回り続ける。停滞したかのような時間の牢獄の中で。
いずれ意識も闇に呑まれた。幸いなことに、夢は何も見なかった。ただ暗い中に自分がいることだけは、ずっと自覚していた。
◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇
朝はいつの間にか訪れていた。あれだけ時間の進みが遅いと感じていたのに、窓のカーテンから日が差し込んだ瞬間に、時間があっという間に過ぎたという感覚があった。
眠っていたかどうかも分からない、半覚醒のままずっと意識が漂っていた気がして、今更眠気が全身にしなだれかかる。
学校、だるいな…
しかしミコからは今日も学校に来るよう言われているし、家族に心配をかけさせるのも良くない。
僕は重い身体を動かして、学校に行く準備に取り掛かった。
トワやお母さんに心配をかけないように取り繕いつつ家を出た後、重い足取りで高校へと向かっていると、スマホにミコからのメッセージが届いた。
『今日は完全に別行動だ。そちらで何か接触や変化があれば報告するように』
「別行動…」
てっきりまた佐藤と接触した時のような調査が再開するのかと思っていたので、そのメッセージに少し目を丸くする。
別行動と言われても、僕は何をすれば良いのか。その指示はない。一応その旨をメッセージにして送り返すが、既読はつかなかった。
いきなり放逐されたような気分だ。いや、実際そうか。ともあれ、不安を感じる一方で、安堵している自分がいる。
しばらくしても既読はつかず、諦めた僕はスマホをしまう。バスがもうすぐ最寄りの停留所に着く頃だ。
バスを降りた後、僕は歩きながら、これらのことを考えてはため息を吐いた。
どれだけやりたくないと思っていても、ミコがその気になれば僕は逆らえない。それどころか最悪、昨夜の工藤のように、僕の意思なんて捻じ曲げられるかもしれない。
自分が自分でなくなる。既に記憶を失っている僕には、もはや失うものなんてないと思っていた。でもそうじゃなかった。
昨日の工藤を見て、危機感を抱かずにはいられない。空っぽでも、今の僕には紛れもなく自分の意思が存在している。それは、僕が僕であることの唯一の証明であり、守るべき最終ライン。
それを守るには、ミコと共に、彼女の目的を果たすための駒として働かなければならない。結局どちらを選択しても、行き着くのは同じ未来なら、僕は僕として進める道を選びたい。
我ながら、言い訳じみていると思う。こんなことをうだうだと考えてしまっているのは、詰まるところ昨夜の上沢の死を未だ受け止めきれていないからだ。
…だめだな。また思考の沼に浸かっている。
「——おはよう。朝から大きなため息ね」
僕が盛大なため息を吐いたのと同時だった。いつの間にかすぐ側にまで近づいてきていた、2-Cの委員長こと
頭の中でぐるぐると考えていたせいで、全く気配に気がつけなかった。
「お、おはよう」
そしてまさか声をかけられるとは思わず、僕は若干怯みながら挨拶を口にする。
「てっきり昨日のことは上手くいったものだと思っていたのだけれど、そうじゃないの?」
「昨日…?」
そう言われて、僕は昨日上沢のことを水無川から聞き出したことを思い出す。その後の出来事が強烈過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。
「ほら、あそこ」
どう答えようか戸惑っていると、水無川は視線を、先にある桜織高校の校門付近へと向けた。今は朝の部活以外の生徒がちょうど辿り着く登校のホットタイム。多くの生徒が吸引されるように、校門を通り抜けていた。
そしてその中に、僕は水無川の視線の先に何があるかを見つける。きっと彼女は、彼らと僕を同時に見かけたから、僕に声をかけてきたのだ。
視線の先には、多くの生徒の中に埋もれながらも、ぴったりくっついて歩いている
遠目からでも、僕には彼らの表情がくっきり浮かび上がって見えたような気がした。その、すっかり感情が抜け落ちた、ただ死体が動いているだけの表情が。
「結局、人騒がせな家出だったのね…帰ってきて早々、あの様子なら、昨夜はさぞかしドラマティックな展開だったのでしょう?」
呆れた風に言う水無川の声は、しかしながらとても遠くに感じた。耳鳴り——同時に心臓が早鐘を打ち、喉奥から熱がせり上がってくるのを感じた。
「あっ、ちょっと! 式島くんっ?」
僕はそんな水無川の言葉を無視して、駆け出していた。何も見ないようにして、校門をくぐり抜け、素早く靴を履き替えた後は、近くにあったトイレに駆け込む。
四方囲まれたトイレの個室で、僕は胸を押さえながら、込み上がってきたものが下がっていくのを待つ。朝の喧騒が遠かった、独りの空間の静謐さのおかげで、幸いにも一線は越えずに済んだ。
しかし歪んでいくような強烈な気持ちの悪さは、依然胸の中で渦を巻いている。
ここに至ってなお、僕はちゃんと分かっていなかった。人が死んだのに、それが無かったことになっている事態の異常さが。
こんなことが、桜織高校では平然ともう何十回も繰り返されている。
昨夜、あれだけ人としての形を失っていた上沢が、まるで何事もなかったように傷もなく元に戻っている。失われているのは、目に見えない魂だけ。
ネクロマンサーのように魂という存在を観測できない人達にとって、今の上沢はただ少し元気がなくなった程度に過ぎないのだろう。
だって世界は何も問題なく回っている。
空っぽの偽物が増え続けても、闇の中でいくら人が切り刻まれていようと、日が昇ればいつも通りの日常が幕開ける。
そして誰も隣人が空蝉になっていることに気づかない。きっとその事実はこれまでもずっと続いてきたのだろう。世界を引っぺがせば、そこには人を喰い物にしている化け物たちが想像もできないくらいに湧いている。
知られざる真実。世界の裏側。陰謀、深淵、闇…その中心、あるいは一つといえるのがきっとネクロマンサーだ。そして僕はその隣に立っている。
この恐怖に逃げ場はない。世界はただ、元々そういうものだったのだ。あるいは——
全てのネクロマンサーを殺す。
ミコが掲げていたその野望を果たすことだけが、この醒めない悪夢のようなそこ知れぬ恐怖から解放されるための唯一の方法なのかも知れない。
——こんこん。
狭いトイレの個室の中で、どんどんと思考の深みに沈んでいく僕は、不意に聞こえてきた、乾いたノック音でようやく現実へと戻ってくる。
どれくらい自分はこの中にいたのだろう。慌てて扉を開けようとした僕は、しかしその直前で手を止めた。
どうしてわざわざ僕が入っている個室にノックしたのだろう?
考え事に没頭していたとはいえ、流石に隣に誰かが入ればそれに気が付く。このトイレには他にも3つ個室があるのだから、そっちを使えばいい話だ。
僅かに芽生えた猜疑心。気にしすぎといえばそうかもしれない。考え過ぎて、少し過敏になっていたのかも知れない。
そう自分に言い聞かせようとした瞬間だった。今度は控えめなノックではなく、腕全体を叩きつけて扉全体を揺るがすような衝撃音。
肩が飛び上がり、鳩尾あたりが跳ね上がる感覚と同時に焦燥感が押し寄せてくる。
「すっ、すみま…って、あれ!?」
僕は慌てて謝りながら急いで個室の扉を押し開けようとしたが、扉は向こう側から押さえつけられているようで開かない。
一体何が——
「…こちら、に…敵意は、ありま…せん。こちらは、対話を、のぞみ…ます」
扉の向こうから、聞き覚えのある声が、思い出したくもない特徴の話し方で聞こえてくる。
「その声は…上沢、いや…」
「昨日は、申し訳…なかったと、思って、います」
声は確かに上沢のものだ。でも話し方はまるで彼とは違う。でもそのまるで外側から口を操作して、無理やり話させているようなぎこちない話し方は、昨夜の工藤のようだ。
つまり、扉の外にいるのは上沢であることに間違いはないが、その実態はおそらく彼を操作しているネクロマンサーだ。
僕は再度扉を開けようと、今度は体重をかけて押し込もうとする。しかし向こうも体で扉を押さえているのか、体重をかけた程度では開けさせてもらえそうにない。
会話をしろというのか。相手は、上沢を殺し、僕も殺そうとし、この学校で起きている悪夢の元凶。
上沢の声に感情はない。でもそれは操っているからではなく、きっと元々その謝罪の声に形式以上のものなんて含まれていないのだ。
ふざけるなと声を上げたい衝動を、僕は思い切り歯を噛み締めて堪えた。
「…僕に言われても、あいつの行動はあいつの意思でしか変わらない。だから無駄だ」
僕は一度心を落ち着かさせてから、ばっさり切り捨てるように答える。
「…どうす、れば…良いでしょ、うか」
会話はそこで終わると思っていたが、意外にも上沢の声は食い下がってくる。声音に感情はないが、どことなくしおらしい反応だ。生前の上沢の強気な態度が印象に残っているから余計に困惑して、言葉は完全に詰まってしまった。
僕は今…相談を受けているのか?
扉を押さえて、反抗も逃走も抑えてくるあたり、身勝手さが前面に出ているが。
相手は本当にミコと敵対したくはないようだ。しかしミコの目的はネクロマンサーという存在を悉く葬ることであり、決してその望みが叶うことはない。
とはいえ、そんなことを馬鹿正直に打ち明けるべきではないことは僕にでも分かる。そして現在ミコが欲しているのは相手の情報。つまり僕の置かれた今の状況は情報を集めるチャンスかも知れない。
「そっちから仕掛けてきたんだ。ただ謝罪しても、それを真に受けることはないだろうな」
とにかく何かを引き出す。その思いが前のめりになってしまった僕は、少し挑発的な問いかけをしてしまった。ミコの影響を受けてしまったのだろうか。
僕の問いに間を空けた上沢に、僕は一瞬自分が失言してしまったのではないかと危惧したが、どうやらそれは杞憂だった。
「では…素材を、提供…しましょう」
「…素材?」
嫌な予感に、冷や汗が額に浮かぶ。
「この学校の、生徒…二人、なら、すぐに用、意できます。同じ、ネクロ、マンサーなら…素材は、いくらあっても…困らない、でしょう?」
ネクロマンサーとして、桜織高校の生徒を供物にするつもりか…!
一瞬だけ吐き気が蘇り、昨夜の血に塗れた情景がフラッシュバックする。ああやって、供物を用意する気なのだ。
「それは…あまり意味ないと思うぞ。あいつは、ネクロマンサーとして途方もない時間を生きてきた奴なんだ。死体なんて、交渉材料にもならない」
「…………」
上沢は再び黙った。ここを去ろうとしているわけではないのは、扉越しの感覚で分かる。単に、代わりの交渉材料が思いつかないだけだろう。
「大体、そっちの目的こそ何なんだ。この学校の生徒を殺して…工藤や、あの黒い男だって、心無い人形にして、一体何がしたい!」
「…人形じゃない」
たまたま一言だけだったからか、区切られることなく流暢に発せられた上沢の言葉には、それまでにはなかった激情が垣間見えたような気がした。空気が一気に張り詰めた。
「…彼は、たった一人、私を愛して、くれる人。私、も…彼を愛して、る。だから、私は…彼と同じに、なる…」
「彼…? 同じになるって…」
声音に変化はない。変化はないはずなのに、どこか熱を含んでいるような気もした。
もしかすると、何か向こうの核心に触れたのかも知れない。僕はさらに問い詰めようとするものの、その言葉は予鈴のチャイムによって中断した。
のんびりとしたチャイムの後、僕は扉の向こうの手応えがいつの間にか消えていることに気がついた。個室の扉は、先ほどとは打って変わって、呆気なく開いた。
上沢の姿も気配もすっかり消えていた。まるでそう、初めから誰もいなかったかのように。
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