第10話

 ボタボタボタ…大量の液体が上沢かみさわの体から落ちて、失われていく。それが上沢の血であり、熱であり、命であることを頭で理解できたのは、数瞬先のことだった。


「なん、で…」


 掠れた困惑の声。やがて上沢は体から力を失い、横向向きに倒れた。受け身も取れず、どさっとやけに響く鈍い音で、僕の鼓膜がたわむように震える。


 崩れ落ちた上沢は熱を流出しながら完全に脱力している。闇夜で黒く見える血溜まりが、広がっていく。


 死んでいる? 殺された——いや、まだわからない。人はそう簡単に死なない。今すぐ助けを呼べば、きっとまだ間に合うはずだ。


 動揺で散らかった思考が纏まりかけたところで、血を踏む音が聴こえた。僕は顔を上げる。


 青いリボンと黒いセーラー服の女子生徒。桜織高校では学年ごとに、女子ならリボン、男子はネクタイの色が指定されていて、現在の2年の色は青色だ。


 僕は工藤梨花くどうりかの顔を覚えてはいないが、彼女がきっとそうなのだろう。いや、もはや今はそんなことはどうでもいい。


 僅かな月光があるおかげか、工事現場の中は完全な闇ではなく、工藤の顔も見ることができた。


 彼女の顔にはまるで生気が宿っていない。ふと僕の脳裏に昼に対面した家出をした生徒たちの顔が過ぎる。


 間違いない。確信が持てる。彼女はもう、人間ではなくなっている。


 次に僕は視線の先を、工藤の右手に向ける。その手には、明らかに普通の包丁よりも刃渡が長い、いわゆる柳刃包丁が握られていて、そのほぼ根本までが血で塗れていた。


 彼女は無表情で動かなくなった上沢を見下ろしている。そしてまるで機械人形のように、手だけを動かして包丁を逆手に持ち替えた。何をするかはすぐに分かった。


「やめろッ!」


 今度は体が反射的に動いた。刃物を持っている相手に突進をするなんて、冷静になってみれば危険極まりない行為ではあるが、僕という存在であればそれも問題ない。


 どれだけ痛くても、僕は死なないのだから。


 ミコと出会ったあの日——僕は彼女に刺された。血が溢れて、溢れて、溢れきるまで、その意識を保ったまま熱され、それが尽きる痛みの末までを体験した。


 トラウマ以外の何物でもない。あんな体験、二度と御免だ。それでも不思議とこの瞬間の僕の足は竦まなかった。


 幸いにも肩から突撃した僕に、工藤は包丁を突き立てるわけでも、抵抗するわけでもなかった。僕の勢いを受けて、そのまま突き飛ばされた工藤は、表情を変えないまま受け身も取らず倒れる。


「——上沢!」


「…ぅ…っ」


 僅かに上沢の口から声が漏れる。生きている。力無くぐったりしていて、絶える寸前のようだが、ギリギリのところで踏みとどまっている。


 僕はすぐにしゃがんで、今もなお流れでいる血を止めるために、上沢の傷口を押さえ込んで止血する。


「そうだ…救急車…っ」


 僕は血が止まる位置を片手で押さえつつ、懐からスマホを取り出す。手が血に塗れて、うまく操作できない。とにかく早く救急車を呼ぶんだ。


 耳鳴りがする。スマホを操作する手が震える。体に表れるくらい動揺しているのか…もう一刻の猶予もないというのに、さっきらか耳鳴りがどんどん大きく——


 スマホの明かりが視界から突如として消えた。


 鈍い衝突音。スマホの明かりが地面に見える。動揺のあまりスマホを落としたのだ。早く拾って、上沢を病院へ連れて行かないといけない。僕はスマホを拾おうと腕を伸ばして、ようやく気がついた。


 腕から先がなくなっている。


「…は?」


 幻覚でも見ているのかと一瞬思った。でも次の瞬間に、焼け付くような激痛と、熱が失われていく喪失感が押し寄せてくる。


 耳鳴りがする。甲高い、空気を裂くような摩擦音。さっきも聞いた不快な音。それを僕は自身の内から発せられる不調の表れだと思っていた。


 でも違う。どんどんと大きくなるその音は、こちらに何かが迫り来ることを示す音だった。


 そのことに気がついた時には、僕の足元に倒れていた上沢の体が、バラバラになっていた。まるでパーツの付け替え可能な人形をバラしたみたいだ。


 そんな感想も、目の前の非現実的な状況も、痛みで全てが吹き飛んで——また、耳鳴りがする。


 そして僕の視界は斜め下へとずり落ちていった。


 もはや痛みは感じない。一瞬意識が途切れた後、僕はまるで最悪な悪夢を見ているような気分で、横に倒れたままの視界を享受していた。


 そういえばミコが言っていた。僕が感じる痛みは、全て仮初であると。不思議と冴えてきている思考で、しかし今の僕の体が、痛みを感じるフェーズなんてとっくに通り過ぎていることを自覚する。


 ミコに刺された時にも感じた、自分が人間ではないという確信と疎外感。でも今は、こんな体になったからこそ、こんな状況でも生きてはいる。


 カツ、カツ…と前方から足音が聞こえてくる。息はできていないが、視覚と聴覚は残っている。


 近づいてきたのは、黒い服装に身を包んだ人物だった。この工事現場への入り口は、僕の背後にあった仮設の扉一つだけ。つまりこちらに近づいてくるその黒い人物は、僕らが入る前にこの工事現場にいたということだ。


 工藤は屍人になっていた。学校で会話した佐藤やその他の屍人になった生徒同じ、人間味と個性を失った人格をコピーしてペーストしたかのような空虚な印象。


 その工藤がこの工事現場に入ったのはきっと偶然じゃない。あの黒い人物がいたからだ。なら、あの人物こそまさに黒幕ということではないのか。


 誰だ——


 足音が止まる。僕の顔の側に、その人物は立っていた。僕は目だけを動かして上を見る。


 直後、黒ずくめの人物は後ろに跳ねるように飛び退いた。その意識が僕の方を向いている。


 同時に僕は周囲の蠢く気配に気が付く。それは切り裂かれた僕の体が元に戻る作用によるものだった。動画を巻き戻すかのように、地面に散った血液が流れ、肉は結合していく。


 やがて打ち捨てられたかのように転がっていた上半身が浮かび上がり、再生が完了した。


 黒い人物は硬直している。驚いているのだろうか。顔が見えない以上判断できない。しかし少なくとも、取り乱している様子はない。僕の正体を目の当たりにしてもなお、この程度の反応ということは、やっぱりミコと同じネクロマンサーということだろうか。


「上沢…うぅっ…くそっ、一体何が起きて…あんたは誰だ!」


 切断され、臓物をばら撒き、血の濃密な匂いを放つ上沢を一瞥し、思わず吐きそうになりながらも僕は正面を睨んだ。こんな状況で、まさか無関係とは思えない。上沢にトドメを刺したのは、きっとあいつだ。


 一度血という血を失ったせいか、不思議と思考はクリアで足もすくんでいない。屍人になったせいだろうか。死という結末がない確信は、このあまりに凄惨な光景を前にしても、理性を保たせてくれている。


 相手から返事は返ってこない。相変わらず、黒い服装でフードも深く被っているので、顔も見えない。男か女かもはっきりとはわからないが、背丈的には明らかに男だということは辛うじて判断できるくらいだ。


 黒い男は沈黙したまま、しかし右手をゆっくり肩まで上げる。そしてさっきまでは遠くて気が付かなかったが、その手首から何かが流れ落ちているのが見えた。


「血…?」


 怪我をしているのか。いや、あんな手のひらに面した手首だけに怪我を負うなんて——例えばさっきの僕や上沢を切り裂いた衝撃によって、石片などで切った傷というには不自然だ。


 激しく脳裏に警鐘が鳴る。僕は咄嗟に、近くに見えた工事作業中に設置するであろう金属の骨組みが重ねられた場所に飛び込んだ。


 直後、あの全てを切り裂く音がした。さっきまで僕が立っていた場所に衝撃音が轟く。


 男はただ腕を大きく振っただけだった。僕には何も見えなかった。


「武器…いや、超能力なんて、言わないよな…?」


 死者を屍人として蘇らせるミコを見ている以上、もはや超能力があったとしても驚きはしない。でも、あくまでも死者を蘇らせるネクオマンサーからは、あまりにも方向性が違いすぎる力だ。


 ——なんて、考えている間に、また男が腕を振ろうと動かす。瞬間、僕は切り裂かれた瞬間の熱を直接押し当てられたような激痛がフラッシュバックした。


 僕は足をもつれさせながら走り出す。その後すぐに金属がバラバラと散る乾いた音が耳に入った。後ろを振り返らなくてもわかる。あの男の謎の斬撃は、金属をも切断してしまうのか。


 とにかく走れ。この場にあるものは盾にはならない。だったら、当たらないように走るしかない。


 続けて2回、切り裂き音が響く。再び身を隠すために飛び込んだ場所が消失する。僕はすぐに重い足を動かす。それから間を開けてまた2回、僕は繰り返し紙一重のところで避ける。


 2回、2回だ。走りながらも、僕は男が2回斬撃波を放つ度、わずかに溜めの時間があることに気がついた。気がついたところで、動きを止められるほどの余裕は生まれないが、なんとかタイミングをみて、この場所から脱することができるかもしれない。


 しかしそんな淡い期待は、視界の外から突撃してきた人影によって黒く塗りつぶされる。


「工藤、さ…っ」


 さっき突き飛ばした工藤のことを、すっかり失念してしまっていた。僕が黒い男の飛ばしてくる斬撃の合間を伺っている虚をつかれて、身体を押さえつけられてしまう。


 咄嗟に振り払おうと全力で抵抗するが、何故かどんどんと力が抜けていく。なんだ、この感じ…


 動揺している間にも、視界の端では黒い男が次の動作に移っていた。黒い男に躊躇う様子はない。彼女ごと、僕を切り裂くつもりだ。腕が、振り抜かれた。


「——まさか、こうも簡単に釣れてしまうとはな。よほど余裕がないのか、単に無警戒なだけなのか…まぁ、どちらでも構わないが」


 それまであらゆるものを切断していた男の目に見えない斬撃波は、しかしながら今度は僕に到達することはなく目前で、おそらく霧散した。


 代わりに届いたのは聞き慣れた、でもここにいるはずのない声だった


 彼女——遠藤ミコは、どこからともなく僕の目の前に現れる。


「ミコ、どうしてここに…?」


「相手が釣れたのだから、こちらも出てきただけの話さ。まぁ、本丸までは釣れなかったようだが…仕方がない」


 桜織高校の黒いセーラー服に、普通科とは少しデザインの違う青いリボン。遠藤ミコは一見小柄な少女で、血臭が漂うこの場所にはとても似つかわしくない存在。それが本来事実であるはずなのに、ミコのあまりに堂々とした佇まいには、異質で圧倒的な存在感を感じる。


 もしこれが彼女との初対面ならば、僕は圧倒されたまま硬直していたことだろう。でも今の僕はもう、彼女の異質さを知っている。だから思考はすぐに切り替わる。


 まずは僕に覆い被さっている工藤からどうにかして脱しなければ——と、力の入らない体を無理やり動かそうとしたところで、その拘束はあっさりと解ける。


 工藤自身が僕から離れたのだ。その無感情な表情は、ミコの方を向いている。


「さて、そこの女子生徒は無理そうだが…そっちのお前は話せるタイプだろう?」


 ミコは挑発的な笑みを黒い男に向けて浮かべた。しかし黒い男は沈黙したままだ。


「もしかして話せない、か? ふむ…それともまずはそのフードを取る必要があるのかな?」


「————」


 ミコの言葉に弾かれるようにして黒い男が動き出した。血を流している腕が大きく振るわれる。また見えない斬撃が放たれたのだ。


「それは私には届かんよ」


 しかしまた斬撃は衝撃を起こしながら、ミコの手前で霧散する。黒い男の斬撃も摩訶不思議だが、どうしてミコはあれを無力化できるんだ…?


 僕はただ呆けながら、超常的な2人の衝突を眺めていることしかできない。


 一方で、僕と違って動く影が視界に入る。気を取られて、気がつくのに遅れてしまった。


「ミコ!」


 正面の斬撃に対応するミコの死角から、工藤が掴みにかかったのだ。咄嗟に名前を叫んだものの、もうすでに手遅れだった。


「おっと…なるほど、これが狙いか」


 工藤も女子だが、ミコは彼女よりもさらに小柄。力で羽交い締めされたら、抜け出せないだろう。


 それに…さっき僕も工藤に体を押さえつけられたが、その時何故か力が抜けていくような感覚があった。あの感覚が僕の勘違いでなければ、あるいはあれも超能力みたいなものの一種なのかもしれない。


 だとしたら、今のミコの状況は——


「ドレイン…生命力を奪う力か。量産タイプには、どうやらそれが標準装備というわけだな?」


 しかしミコは何事もないように冷静さを失っていない。それどころか、相手の分析をしている余裕さえあった。そのドレインという言葉から、きっと僕の想像は正しかったのだろう。


 僕の場合はあっという間に力が抜けて、女子の工藤の力にさえ全く敵わなかった。


 しかし次の瞬間、ミコは腰を落としながら、内側の足を工藤の外側の足を引っ掛けた。すると工藤は後ろに倒れ、拘束は呆気なく解ける。多分、合気道的な技なのだろう。あんなことまでできるのか…


「残念だが、私から生命力を奪うことはできないぞ。私の生命(いのち)は、もうずっとこの身体と共に停止しているからな」


「生命が停止…?」


 僕には理屈は全く理解できない。しかしふと連想として過ったのが、ミコが見た目通りの年齢ではなく、曰く何千年以上もネクロマンサーとして活動しているということ。


 生命の停止で悠久の中に身を投じるというイメージは何となく出来るが…工藤の力が及ばない理由としてはあまりピンとこない。


 とはいえ、僕の理解の範疇などとうに超えたことばかりが起こっているこの状況では、理屈を捻り出すことに何の意味もない気がする。


 ただただ、ミコという存在が特異的なものだと、結局その一点に尽きる。


「…まさか」


 そこで僕のものでも、ミコのものでもない声が発せられる。小さく、抑揚のない声。その主は、ミコに倒された工藤のものだった。


 工藤はゆっくりと立ち上がる。その表情は何も語らず、声音は平坦。しかしそれまで無言を突き通していた彼女が声を発したことに、事態の変化を肌で感じた。


「ほう、そっちが喋るのか。いや、正しくは喋らせている、か。なかなかやるじゃないか。この場に出てこないあたり、随分と慎重なようだが」


 ミコも少し目を丸くしつつも、すぐに挑発的な笑みを向けた。その言葉から察するに、どうやら話しているのは工藤本人の意思ではなく、彼女を操作して喋らせている誰からしい。


 おそらくはミコが標的としているネクロマンサーなのだろう。


 こんなこともできてしまうのか…


 僕の方はといえば完全に面食らっていた。しかし今こんな状況でぼうっとしているわけにはいかない。すぐに意識を切り替えて、完全に工藤の方に身体を向けてしまっていたミコに代わって、黒い男の様子を伺う。


 男の方は動いていない。腕は下げている。攻撃の意思はないということだろうか。


「まさか、あなたは、不老…不死、なのですか」


 工藤の言葉は辿々しい。けどそこには何か明確な意思を感じた。佐藤の時とはまるで違う。それなのに、強烈な違和感があった。


 言葉を発しているのは間違いなく工藤なのに、その意思は別のところにあるような——


「何を聞いてくるかと思えば…不老不死、か。なるほど、分かりやすいな」


「あなたは、そう、なのですか」


 腰を抜かしているだけの僕が感じている疑問や違和感なんて、当然の如く取り合ってくれるはずもなく、話は続いていく。


「不死ではないが…不老、ではあるだろうな。あぁ…もちろん肉体を交換するとか、そんな陳腐なものじゃない。魂と肉体を固定し、時の流れから逸脱する術法。私は最初の私のまま、悠久の中にいる。もちろんそれでも完全な不老と言われれば違うのだが…それはきっと些細なことだろう?」


「不老には、なれる…」


 空虚な瞳が、真っ直ぐとミコを見つめる。


「ははは、簡単ことではないぞ? 私はこの世界で最も母なる神の奇跡に近付いた紛れもない天才だ。そういえば、私と同じ術法を使えるネクロマンサーには、未だ出会ったことはないな」


 堂々と胸を張って愉快そうに表情を緩めるミコに、僕は思わずため息を吐いてしまった。


 彼女が天才だというのはきっと紛れもないものなのかもしれないが、比較対象となる他のネクロマンサーを知らない僕にとってはイマイチ実感が持てない。


「そう…です、か」


「聞きたかったことはそれだけか? なら、このまま続きと——」


「今日は、やめません、か」


 ミコが意外とノリノリで戦う気があることにも驚きだが、それ以上に呆気に取られたのは、すっかり温まったミコに冷水を浴びせる工藤のそんな一言だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る