第2話 オアシス
ああ、またか……と、諦めと絶望が再び私を襲った。神も悪魔すらもこの世界にはいないのだ。そうして再び萎えかけた私の気力を、先ほどの歌声が優しく支えてくれた。
不思議な歌だった。まるで聞いたことがない歌なのに、どこか懐かしい気持ちにしてくれる。ずっと聞いていたいと思う歌だった。
歌を聴いていると、私の心は安らいだ。先程までに感じていた疲労感も絶望も歌が全て包んで洗い清めてくれるようだ。
一体誰が歌っているのだろう。きっと聖女のような歌姫に違いない。
もしかすると天使かもしれない。となると、私は死んだのだろうか。砂漠で死んだ私を天使が迎えに来てくれたのだろうか。
しかし、歌は聞こえども、歌い主の姿は見えない。どこから聞こえてくるのだろうと周囲を見回し、やっとそれが目の前に見える蜃気楼から聞こえてきていることに気が付いた。
いや、蜃気楼ではない。私が歌声に耳を澄ましてじっと見つめていると、それまであやふやだった視界がやがて像を結び、その輪郭を明瞭に捉えた。
それは、小さなオアシスだった。先程まで私が見ていた蜃気楼は、一つの巨大な街があるかのように見えていたが、それは私の期待する気持ちが見せた幻だったのだろう。目の前にあるオアシスは、小さいながらも一小隊が休めそうなほどの広さはある。緑色の葉を茂らせたナツメヤシの群生が青々と光る水たまりを囲っている。
――助かった……。
私は無我夢中でオアシスへと駆け込んだ。よろめく足が砂の合間から生える草を踏む音を聞き、これが現実だと知った。世界は急速に色を変えていった。先程までの熱気はオアシスから流れ出る清涼な気によって消し去られた。水たまりは、一点の曇りもない鏡のように横たわっている。決して荒らしてはいけない神聖な場所のようで、私は一瞬たじろいだ。しかし、すぐに喉の渇きに耐えられず、勢いよく水たまりに顔をつけた。
私は貪るように水を飲んだ。一口飲む毎に身体が生き返っていくのがわかる。なんと清涼で甘く、柔らかな水だろうか。こんなに美味しい水を私は生まれて初めて口にする。これには、いかに発達したローマの水すら敵わない。
私は、満足のいくまで水を飲むと、ようやく落ち着いて辺りを見回した。もちろん見たこともないオアシスだ。人の気配はまるでない。あの不思議な歌声もいつの間にか聞こえなくなっている。
私は、これから一体どうしたら……と、途方に暮れながら泳がせた視線の先に、何か違和感を覚えた。よく見ると、オアシスの畔に一軒の小屋が建っている。
――誰かいるかもしれない。
人がいれば、ここが一体どこなのか、私の住む街へ帰るにはどの方角へ向かったら良いのか尋ねることができる。私は、淡い期待を胸に小屋へと向かった。
小屋の壁は砂色、三角屋根は焦げ茶色で細長い筒のようなものが一本突き出ている。見たこともない形の家だ。やはりここは、私の知っている土地ではないのだろう。近づくにつれて、甘い香りが漂ってきた。やはり誰か人がいるのだ。私は急に空腹を感じた。何か食べ物を分けてもらおう。そして、ほんの少し身体を休める寝床を借りることができたら有難い。
しかし、私は、小屋を目の前にして、驚愕に目を見開いた。
――なんだ、これは……。
私の予想を遥かに超えたものがそこにはあった。壁は、板状のパンのようなものが連なり、所々四角く穴が開いていて、そこに極彩色の透明な石が嵌め込まれている。三角屋根は、柔らかなスポンジケーキを土台に、これまた極彩色な丸い玉が均等に飾られている。どうやら甘い香りは、この小屋自体の香りのようだ。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
やはり私は夢を見ているのだろうか。果たして砂漠のど真ん中に、こんな奇妙な小屋が在るものだろうか。私の身体はまだあの砂漠を彷徨っていて、私の強い願望が見せている夢なのかもしれない。もしくは、私は既にあの砂漠で死んでいて、ここは死人が訪れる国なのだろうか。そうでなければ、これが現実である筈がない。ありえない。お菓子でできている家なんて……!
そんなことができるのは、きっと悪魔の所業だろう。
私は一歩後ずさった。今ならまだ、引き返せるのではないか。この扉を開けてしまったら、もう現実の世界に戻ることが出来ないのでは、という気がした。しかし、戻ったところで、やはりまたあの砂漠を永遠と彷徨うのだ。そうなれば今度こそ命を落とすことになるだろう。
ぐぅ、と腹の虫が鳴った。目の前には、手を伸ばせば届くところにご馳走がある。背後にあるのは確実な死のみ。私は、覚悟を決めた。
扉は、見たこともない焦げ茶色の板でできていて、表面が実に滑らかだ。扉越しに声をかけてみたが返答がない。手に汗を握り、私は扉の取手を掴んだ。
果たして、あの歌声の主がここには居るのか。もし居るとしたら、それは天使なのか、それとも悪魔なのか。
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