砂漠の悪魔

風雅ありす@『宝石獣』カクコン参加中💎

「ブルートゥス、お前もか」

第1話 茫々たる砂漠の中を

『人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない』


 ***


 私は迷っていた。茫々たる砂漠の中を。


 一歩ずつ踏み出す足は、サラサラと溶けるように流れる砂に埋もれ、ソレアの隙間から入り込む熱砂が焼けるように痛い。それでも私が次の一歩を踏み出すのは、それ以上長く焼かれることに耐えられないからで、少しでも足が砂に触れる時間を短くしようと気ばかり焦る。そのため必然と歩みは早くなるものの、足底に感じるのは熱ばかりで、まるで踏みしめている実感がないのから不思議だ。果たして本当に前に進んでいるのかどうかすら疑わしい。まるで夢の中にいるかのようだ。


 私は、一体いつからこうしているのかさえ解らなくなるほど長い間彷徨い歩いている。歩けども歩けども砂ばかりで変わることのない景色に時間の感覚が麻痺してしまったようだ。


 確か少し前までは、自宅の中庭を歩いていた筈だった。それがいつしか熱砂の砂漠を踏みしめていることにしばらく経って気が付いた。考え事をしていたので、自分でも気が付かない内に自宅を出て、街の外へと出てしまったのだろうかとも思ったが、この辺りにこれほど広い砂漠はない。しかもこの砂漠は、一体果てがあるのだろうかと疑うほど先が見えない。見渡す限り砂ばかりで、空と地の境目はぼやけていてよく見えない。


 ――このまま進むべきか、それとも来た道を戻るべきか……。


 後ろを振り返って見るも、私の歩いてきた足跡は砂に溶けて見る影もない。視界に見えるのは黄金色に輝く砂山と、今の私の心中をそのまま具現化したかのように一人ぽっちで揺れる黒い影だけだ。頭上では、灼熱の太陽が私の肌を光の刃で串焼きにしようと燃えたぎっている。


 流れ落ちる汗は、枯渇した砂地へと吸い込まれ、何の生命も育むことなく不毛へと還っていく。何ともやるせない。私はとめどなく流れ出る額の汗をトガの裾で拭ったが、そこは既に私の汗でぐっしょりと濡れていた。


 ――ああ、アンブローシアが飲みたい。


 いや、神々の飲み物であるアンブローシアを飲みたいだのと贅沢は言わない。葡萄酒か、ポスカか、せめて蜂蜜酒。……いや、この際ロラでもいい。身体中の皮膚と臓器が水を求めて喘いでいる。


 目の裏がちかちかと明滅を繰り返す。とうとう限界らしい。幻覚だろう、少し前から頻繁に蜃気楼を見るようになった。それは、荘厳な宮殿と共に現れた大きな水たまりで、近づこうとすればするほど遠くなる。その度に私は挫折と深い悲しみを得た。もう決して騙されまいとするも、再び目にすると今度こそと信じる気持ちが沸き上がるのだから不思議だ。いや、ただ信じたいのだろう。オアシスは幻ではないと。


 そのようなことを繰り返す度に私の精神は磨り減り、体力も思考力も奪われていった。何か大事なことを考えていた筈なのに、それが何だったのかすら忘れてしまった。


 それでも私は迷っている。ただそれだけは解る。


 人生の岐路、いや、世界の岐路に立っている。それなのに私ときたら、いつまで経っても決断できずにいる。このままでは、この砂漠から抜け出すことも叶わないかもしれない。


 ――暑い……頭が朦朧とする……。


 こんな状態では、まともな思考などできる筈がない。水だ、とにかく水が欲しい。そう思って辺りに目を凝らして見るが、蜃気楼さえない。突然ぐるりと世界が回った。いや、そう見えただけで実際は私の視界が回ったのだ。


 ――もうダメだ、私はここで朽ち果てるのだ。


 ついに私は力尽き、どうと熱砂の上に倒れ伏した。全身が焼けるように熱い。私の身体に残っている僅かな水分一滴でさえも吸い尽くそうと熱砂がへばりつく。しかし、私はそれを払うことも、もはや立ち上がる力すらない。


 私は目を閉じた。一体、どうしたらよいのか。何故このような砂漠のど真ん中で、進む指針もなく彷徨い続けなければならないのか。


 ――おお、神よ。我を救い給え……! この善良なる魂を導きたまえ。


 私は必死に祈った。もはや祈ることしかできなかった。身体は既に限界を超え、私に残された唯一のものが祈りだけだった。私はまだ死ぬわけにはいかない。まだ現世でやらねばならぬことがあるのだ。私を待っている家族、友人、そして……あの御方のためにも。


 このままここで不毛へと還るくらいなら、いっそのこと、悪魔にでも魂を売ってやろう。


 そう私が強く心に願った瞬間、まるで私の願いを聞き入れたかのように、私の耳に不思議な歌が聞こえてきた。


 それは、まるでこの世のものとは思えないほど美しく、清らかで優しい歌声だった。まるで今にも消えてしまいそうなほどか細い声で何と言っているかは聞き取れないが、私をどこかへと導く力強さを感じた。


 ついに幻だけでなく幻聴まで聞こえるようになったか。


 しかし、歌声は止まない。しかも聞いていると、なんとはなしに身体が軽くなっていく気がする。


 私は目を開けた。そして、最後の希望を胸に顔を上げた。すると目の前に、ゆらゆらと揺れる蜃気楼が再び出現していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る