よくある双眸   改

つきこyugu

美しいものを探す旅



 ざわめきにノアは胸を押さえつけた。この漣は砂嵐だ。

 心臓に渇いた粒子が寄せては返す、この気持ちは恋だった。

 涙が雨のように鍵盤に降り注ぎ、まばらに音が鳴っていた。壊乱の重ったるい街の中、爽やかな空壁に彼女が飛び立つ。


 僕は今、安らかな夢の真ん中。旅愁の永訣に焼きつくはあの双眸。


 2XXX年。

 かつて地球と呼ばれた星は滅亡の危機に陥った。新たな住処を探すため、コールドスリープした人類を乗せた、大きな宇宙船が飛び立った。

 操縦士を任されたノアはもう数えるのが呆れるほどの時間を超え、人類を新たな土地へと見送った。彼らを目的の場所まで送り届けると僕と船はもう無用の長物である。

 そう、つまり。任務が終わり僕には居場所がなくなった…。

 再び旅に出ることにしたのさ。空飛ぶ船はどこまでも、自由気ままに進んでいった。



 幾星霜を遊泳の末、飛空艇はこの地に辿り着いた。

 街は、音に聞くゴーストタウンというものだった。ところどころ廃れた建物が依然として綺麗な風貌を保っているように思えたのは芸術性に溢れていたからだろう。

 ある一角は、いつかみたフレンチクオーターのような、警告色の建物に真っ赤な螺旋階段が備えられていた。

 カラフルな建築が入り組んだ首都国家だ。道を仕切るのは、陶板が揃う万華鏡のような壁面たち。美しい擁壁は迷路みたいに続いている。

 つるりとしたタイルの壁へ斜陽が反射し煌めいた。

 彩度の低い石畳にも光が差し、背の高い木々の隙間を映し出し、なんと幻想的なことだろうか。

 隅っこには菱形のタイルで造られた群青色のエレベーターが聳え立つ。

 街は中央に壮大な階段を据えた二段構成のようだ。

 見慣れぬ、要塞都市だった。


 どこか幽玄な雰囲気が、フィルム映画のようなレトロさと、えもいえぬ重厚感を醸し出していて、歴史的建造物であることは間違いなさそうだ。

 ノアは仄かに懐かしい気持ちになり鼻を啜った。

 漂う寂寥を吸い込んで、情緒溢れる街並みに酔いしれる。

 擾擾なる配色と多様な形の建造物はまるで、曼荼羅の塗り絵みたいだ。

 道端の植栽はそこはかとない神秘さを放ち、シダの葉は軽やかに連なった。常春の気温が頰を撫でる。

 熱帯植物の間から差した、こもれびが蝶の群れのように飛び交い顔をまだらに照らす午後。

「有卦に入ったな」

 ノアの独り言を大雑把に拾ったのは森閑の中にあるもったりとした空気だけである。


 紺碧から孔雀青の階調で、鮮美多彩なタイルに縁取られた階段の上に、飛空艇を停泊させる。

 頭の幾つものプロペラが緩慢に回るのを確認し、操縦席を離れた。

 船が作る鯨形の影は、いつか自国の研究室で見た、高所から展望したビル群に広がる雲の翳りを彷彿とさせて、床や壁が淡い灰色の境界線で象られていた。飛空艇は腐朽しあちこちに僅か脆い箇所があるのだが悠然とした佇まいで極彩色の街を見下ろしている。

「うん、いい場所だね」

 ノアは、此処を終着点にして飛空挺から梯子を垂らしゆっくりと降りた。


 人類を見送って、長く凍るようなとこしえの暗闇の中を彷徨い漂着したのが、この都市国家というわけだ。

 小さいが優しい鷹揚が拡がり疲れ果てていた僕を温かく包み込んでくれる美しい星だった。

 安堵も束の間に、此処はどこだろうと、考える前に身体が動くのはノアの性分だ。

 壁面のタイルを辿ると、時折宝石が混じっているのか、透明感を助長させている。そこだけごつごつとしていて指でなぞると凹凸が指紋に食い込み、僕は思わずあははと笑った。

 くすぐったい。

 心の薄皮を優しく引っ掻かれる感覚に、これは「ときめき」だ、とノアは熟考した。

 例えば、そっと鍵盤に触れゆっくりと押し込んだ時一拍遅れて音が鳴る、初めてピアノを弾いたあの日の気持ち。…感動と言えば陳腐なままの普遍的な感情だ。

 それでも僕は感動に全身を痺れさせていた。

 だってさ、明けぬ夜が続く無限はとっても、辛かった。オンボロの船と闇夜を遊泳するロンリネス…。それはもう、死にたくなるほどの!!


 さあ!心機一転、深呼吸をひとつ。

 此処にはどんな冒険が待っているだろうか、と天を仰いでみると、

「あれ」

 何かが、空から落ちてきた。

 眉を顰めて、その眩い物質を凝視した。ファー付きのトラッパーにかけたゴーグルを下ろしよくよく焦点を合わせると。ああ。

 波打つビロードの生地に似た輝きを伝搬させていく光の粒がゆらゆらと落ちてくるではないか。

 それはこの常春に相応しい長閑かな空へ、僕の船よりも遥か遠いところから落ちてきた。秋に憂いを含み舞う銀杏の葉のように、或いは正午の揺蕩う微睡のように。ヴェールを纏ったという表現がしっくりとくる光の粒が、人だと分かったのは数秒後。陽の光を受け白い服がはためき淡く輝くあれは、きっと。

 おや…。

「空から女の子が!」

 ひしめくタイルに囲まれた踊り場の中、僕は彼女を手繰り寄せ受け止めた。




 彼女は、自身をユピテと名乗った。小柄でワンピースから生えた細い手足は瑞々しく、滑らかな象牙色。

 身体の節々が薄く紅潮する可憐な少女だった。

 整った顔立ちの、鈍色の目だけは一切の光が無くどこか不気味な雰囲気を放つ。

 彼女もまた遠い場所から来たのだという。


「私の目は凍り濁ってしまいました」


 宇宙の旅の中で、だと彼女が言った。ユピテもまた、僕と同じくしてここへ辿り着いた者だった。

 宇宙にはこの街然り、古代都市の亡国が多数存在し、彼女はその古代文明の解析をしているのだと語る。

「その目、見えてるの」と訊ねると

「濃霧の中にいるみたいに」

焦点の合わぬ瞳がキュっと細長く潰れた(彼女なりの笑顔なのかも知れないが隠微な不気味さがあった)。

 目が濁ってしまったのは「呪いなの」と嘘か本当か物申す。


 そして、彼女のどこか神聖ないでたちは僕が思いつく限り、天使と称するのが一般的だった。

 人智を超えた存在にあてがうサークラインが控えめに浮かぶ。羽は…、ボロボロだったけど(使い古された蝋のように溶解された姿のまま固まっているのである)。

 その糜爛する羽へ、僕はしばしの沈黙を皮切りに言及する英断を取った。彼女は冗談まじりに笑うこともなく「蟷螂の斧です」と淡々に告げ、ノアを困らせた。 

「過信しすぎたの私、逃げて逃げて、その時に羽も目も壊れてしまった」

「そうなんだ……戻らないのかそれ」

「呪いだからね。うまくはいかないでしょう。……その手がかりを掴むためにあちこち飛び回っているのよ」

 肩をすくめて薄く笑む。

 そんな途方に暮れた素振りを見せた……のは希望的観測が形而上でしかないのであろう。

 たとえば奇跡、とか。

 奇跡、奇跡。そんなもの、あるのだろうか?

 僕は考え、結論をつけた。あれは、幻想だ。

「僕とても暇だから何か手伝えることあったら言ってよ」

「暇なのですか」

「まぁ」

 暫時の沈黙を経てユピテが僕に「あなたは」と訊ねた。

「あなたは、何をしにきたの」

 僕は「旅に出た」と短く答えた。

「旅ね」無感情に声を咀嚼した彼女に、僕は「旅に」と言葉を反芻してみる。

 素敵ですね。どこから。呼吸する間もなく重ねられ

「わからない」

 目を閉じた。ぎゅっと瞑っては瞼の裏に現れる、もやもやの幻覚を追いながら記憶を辿るが、やはり思い出せはしなかった。もうずいぶんと冥漠のさなかにいたようだった。

 その代わり僕は船へ人類を乗せ目的地に向かったこと、再び壮途に就くが久遠の不変に食傷したことなどを話した。

 彼女は頷きもせず傾聴した最後

「ここはあなたの故郷なわけね」と徐に呟いたのだった。

「どうして?」

「此処にはかつて人類が住んでいたみたいだし」

 へえ。それは驚いた。

 初めに感じた懐かしさはそのためだろうか。しかしながら実際ノアはこの街に訪れた事がない。戸惑っていると「一派の文明という点です」と注釈が入る。


「ところでノア、これが何か分かりますか」

 とユピテはおもむろに胡乱な紙を僕に手渡した。

「古代文明の暗号です」

 僕はその唐突な振る舞いに少々驚きながらも、滔々に述べられた言葉を泰然として構え「暗号ね」おうむ返した。

 暗号。

 いいじゃないか。これは素敵な冒険の予感だ。

「で、一体なんの暗号なのさ」

「解けば、古代文明の禁忌を呼び起こす。そう走り書きが残された、拾い物よ」

 打って変わり楽しそうに語る。

 彼女の目は依然として曇ったままだが僕には十分きらきらと光って見えた。

 おいおい、禁忌を呼び起こしていいのかよ?

 疑問が沸くが喉元に疼く主張は嚥下し「浪漫だね」と当たり障りのない言葉で着飾った。

 渡された二つ折りのケント紙を恐る恐る開いてみる。パンドラの箱を開ける瞬間のような手に汗握る胸騒ぎと共に柔らかい紙片へ指先を這わせ、息を呑む。

 ……ん。

「あれ」

 その果断とは裏腹にノアは拍子抜けした声を出した。

 冊子をめくる先。

 五本の罫線に波めいた記号が、変幻自在に跳梁し急勾配に櫛比する、僕は暗号の正体を知っていた。

 その昔、なんの気なしに覚えた言語を眺めながら、心持ち神妙に語る。

 なんだあ、これは。

「楽譜じゃないか」

 肩を落とした。

 五線譜の上で悠々描かれた音符たちは紙面上だけでは意志を持たない。

 その時点で頼りない演奏記号により指示された作為的な思想だと言える……僕は、音楽とは、所謂それは透明なインクだと思うんだ。

 筆跡を持たぬ言葉たちが、歌、楽器、んん。例えばピアノ……などを介して弾き手に寄り添い活殺自在に訴える。

 弾き手は譜面を読み込みその思想を他者に伝える。

 紙だけじゃだめだ、必ず奏者がいないといけない。

 それを封印を解くと喩えるなんて……なかなかお洒落じゃないか!

 確かに音楽には極上のときめきがあるからね。


 感服するノアにユピテもまた上機嫌に「わかるのね!すごいわ」と大袈裟に点頭した。

「だけど、禁忌なんかとは関係ないと思うけど」

「いいですよ、私の退屈しのぎです。どうせこのまま潰える人生なら、危うくも楽しい方がいい」

 でも、本当に恐ろしい物を召喚すると思うなら最初からやらないわよ。とツンとした澄まし顔に、ノアは煮え切らず「ああ、そうかい。じゃあとんでもない物を呼び出してやるからな」と憎まれ口を叩いた。

 諧謔は白眼視されたのだが、彼女のサークラインがぴかりと輝く。

 犬だったらきっと尻尾を小刻みに振っている、ような状態だ。多分。「じゃあお願いしますね」と肩を叩かれ譜面に意固地になってみる。

 ノアの知らない曲だった。作家不詳で初めて見る曲名である。旋律を脳内で構築しノアは早急に暗号の解読に着手していた。

 なんてったって、宇宙の中じゃ振動は皆無に等しい。深淵のうち僕がどれだけ退屈な静謐に打ちひしがれたことか。ノアはもうピアノに触れたくて堪らない。

 間髪入れずにユピテへ尋ねた。

「折にピアノは」

「此処にある」

 彼女は胸を張り堂々と答えた。確信があるようだ。「目星がついています」と口角を上げる。不敵な笑みで僕の手を取った。

「行きましょう」

 こうしてノアは天空から落ちてきた不思議な少女とこの地を散策することとなった。


 新天地だ、まずは謎解き。そう、気晴らしから始めよう。僕は軽い気持ちで一歩を踏み出した。飛空艇の影は、一ミリも動いてはいなかった。




 僕たちがピアノを発見するに至った所要時間は、体感だと三分間程だった。本当はもっともっと遅いのだろうが。

 僕の味わった無限に比べると秒だという訳だ。この街は陽が沈まない。此処もまた永遠の中に滞在する場所だった。


 ユピテは一階部にある深緑色した古い劇場で、吊るされた鸚鵡の形をしたモザイクランプをひどく気に入り油を売ったり、市街地に生えた茂みで自身をゆうに超える高さの花たちに見惚れていたり、僕らは目的を忘れ観光していた。

 入り組んだ道、鮮やかな建物。不思議な遠近感を持つここは、遠い昔に母なる人間から聞いた「イバラード」という国によく似ている。

 伽藍堂の廃墟は、その殆どが締切で僕たちは肩を落とし、又は激昂しながら街中を巡っていた。


 来た時に最初に目に飛び込んできた、赤と黄色の警告色の建物の一角では、フラップターと呼ばれる羽ばたき機が展示されていた。即座に彼女は出よう、と僕の裾を掴む。

 フラップターは炎の模型にかこまれていた。焼かれる建物から誰かを救う、そんな場面を再現しているようだ。

「火、怖いの」

「どうして」

 彼女は怯えた声で返した。

「私のいた星では、技術が人智を超えてしまった。いえ、人智が倫理を超えてしまった…」

「うん」

 僕らはその場を去りながら言葉を紡いだ。柔らかな陽射しでも重苦しい空気は消えない。

「鳥人を生み出す、劣悪な人体実験。閉じ込められて羽をつけられて…」

「君は……」

 ユピテは起伏のない声で「飛んだわ」と答えた。

「そのまま、逃げて逃げてしまった。みんなを、置き去りに」

「そうするしかなかったんだろ」

「ええ、でも恒星に近づき羽は焼け、凍てつく宇宙に目は凍ってしまったの。きっと、みんなを助けなかった、罪。きっと呪いなんかじゃない」

 悲しげに目を逸らす君の、額から、濡れた瞼に光る鼻梁。唇にかける顔の稜線が、どこまでも美しいカーブを描き、ただそこに佇んだ。

 ユピテに見惚れながらも僕はおずおずと「古代文明は?」と尋ねた。

「故郷の星で、齧った程度よ。数多の文明についてすこしだけね。何もない土地でたまたま拾ったのがあの紙切れなの。どこの星も知的な生物はもういなくて、うんざりした。だから驚いたわ、まだ、ニンゲンがいたなんて」

「はは、人間…ね」

「そう、で、私。あんな風に言ったけれど、解析なんてしてないの。ただの暇つぶしよ、ごめんなさい。何かしていないと、後悔に押し潰れそうだったから」

 ユピテが伸びをする。衣擦れのすきまから甘い匂いが鼻腔を潜った。瑞々しい花の香りだ。

「なるほどね」

 僕はわかったふうに頷いた。

「君はこれからどうするつもりなの」

「自分の身体が治ったら、故郷を探すわ。早く、仲間を助けないと……」

「ピアノなんて探してる場合じゃない?」

「いいえ、私、賭けてみたいの」



 と、多少の紆余曲折を経たが、僕らはピアノを見つけ出すことができた(目星があるなどと嘯き、その実彼女の太平楽だった。彼女はピアノがなんたるかも知らないでいた!)。

 各建物の確固たる施錠を壊そうとしなかったのは、案外早くピアノがお出ましになったからだろう。その点、僕はやはり「持ってる」と唇を噛んだ。まあ、持ってる、と述べるには些か遅すぎる幸運だが。


 ピアノは一階部の隅、ガゼボに似た造りをした門の奥の建物にあった。密度の浅い夜のようなサルビアブルーの美しい壁面に円錐形のシルエットをした大型のシャンデリアがすまし顔で光っている。入り口の扉にはマゼンダ色の「展示室」の文字でネオン看板がぱちぱちと点滅していた。廃れているのもあり風貌だけは立派だが、虚飾なデカダンを纏い侘しく僕らを待ち構えているようだった。

 壁に打ちつけられた不規則なスパンコールたちが、陽に当てられ時折寂しそうに光った。魔法が解ける途中……そんな表現がしっくりとくる屋舎である。

 見世物小屋ってこと?とユピテは顔を顰めたが「美術館のようなニュアンスなんじゃなだろうか」と僕が訂正した。辛うじて展示室と読めたが何せ古いので正しいかは分からない。勿論、建造する趣意や用途だって面識がないため謎である。美術館も彼女には伝わっていないようだったが何者かを冒涜するような使用目的ではないと解釈させ、半ば強引に中へと入った。


 はじめに三畳ほどの空間にショーケースを用い、食品の模型が飾られていた。ユピテは再び一時間近く居座った。ケーキにフィッシュアンドチップス、中には見慣れないものもあるがおおよそは僕でも知ってる物ばかりだ。

 この地には、空賊というものがいたらしく、進んだ先には「タイガーモス号」という空賊船の厨房を再現した展示があった。未知の、スパイスと呼ばれる瓶詰めの草をユピテは興味津々に手に取り匂いを嗅いで楽しんでいた。

 僕の上半身ほどある鍋には、ビーフシチューの模型が詰まっている。

「そういえば、あなたお腹すかないのね」

「ああ、僕は食べ物はいらないからね。ユピテこそ」

「私も食事をせずに生きていけるのよ…」

 彼女が寂しそうな顔で答えた。


 ピアノがあったのは更に進んだ、出口付近の部屋だった。四方を本棚で囲まれた、おおよそ六畳の空間に、グランドピアノがぽつんと置かれている。

 床面はここだけ大理石で、ピアノの黒がよく映える。その高貴な風采にノアは再びの感動で思わず息を呑んだ。

 指先が痺れ堪える時雨心地。

 艶めく表面や埃のないスツール。最良の状態で保存された秀麗なピアノへゆっくりと近づいた。

 何千年と時を超えても変わらぬ姿で僕を見つめる。惹かれ合う磁石のように吸い込まれ、そっと鍵盤の蓋を持ち上げてみる。

 ユピテが隣立ち「これがピアノね…」とノアへ視線を合わせた。曇っててもわかる、煌めく瞳で。

 彼女は呪いで目が悪くなった為、楽譜を読めなかったのだそう。その代償か鼻と耳は良くなったのだと言う。彼女は僕が出す一音を待ち、静かに見守っていた。

 ノアは躊躇いなく、白鍵に指を沈み込ませた。

 ポーンと間の抜けた音が響く。

 間違いなくこれは僕の愛していたピアノである。

 心なんてないと言われた僕が唯一愛したのが音楽だった。

 僕だってはじめはきっと試験的に操られていたに過ぎない。楽譜を覚えさせられ、見せ物のように唯々諾々と演奏する日々もあった。読み書きもしたし、計算もそれこそ旧式のコンピュータのような働きでさえ。

 だが、感嘆も激情もそこには無かった。

 ……はずなの、に音楽にはずっと魅せられて敵わない。

 そのときめきの渦に捕まればもう逃げられない。

 捕虜のような生活の中、ピアノを弾く、音を鳴らす初動が、いつでも僕の心を掻き立てた。

「あぁ!!僕は今すぐにでも弾けるのだけど」

「待って」間髪入れずユピテが制した。

「覚えてないのですか」躊躇う口調で

「これは禁忌を呼び起こすって」

 と僕を諭すので苦し紛れに「そうだっけ」と声を絞り、ただならぬ衝動を抑える。

 つべこべ言わず弾かせてくれ!というのが本音だが画餅に帰すのは避けるべきだ、浮かんだ言葉を溜飲しその反動で小さく頷いた。

 彼女は「なので」と不自然な接続詞で続けた。

「ロケーションを変えましょう」

 ロケーション?

 ロケーション……口内でころんと跳ねた単語に、僕は疑念を抱きつつ「つまり?」と頭の悪い接続詞で返事を代替してしまう。

「つまり、外で弾いたほうが気持ちいいってこと!」

「気持ちいい?要はリスクヘッジだ!」

「そうとも言う」

 何かあった時すぐに逃げられるようにです、と彼女は理由づけた。

 頭上の円環が光り、僕は前者の「気持ちいい」発言が真相だと見透けていたが、口にはしないでおく。

 たしかに開放的な場所で弾く方が、絶対に楽しいだろうから!!

 但し彼女は知らなかった。あれはとてもデリケートで持ち運びに利便性の重きを置かぬ楽器だということを。




 ピアノを運び終わり一休みしていると、ユピテは僕に「旅はもう終わりなのですか?」と訊ねた。

 ああ、そのつもりさ…。

 僕は都市の中央にある階段下、タイル張りの陶器のベンチに座り空を見上げながら答えると鼻腔にユピテの発する甘い香りが流れる。彼女が隣に腰掛けた。

「もう長くないんだ。僕も、船も」

「どうして」

「なんとなくさ。わかるんだ」

「あら……みんなの所へ帰りたいと思わないのですか?」

 雲ひとつない空に鈍く鎮座する年季の入った船。その太陽熱が遮断された影の中、「帰れないし、帰りたくないよ」と呟けば、言葉さえ曇って聞こえる。

「どうして」とユピテは続けた。が、口を噤みなんでもないわとかぶりを振った。

「答えたくなければ別に」

「ああ、ごめんね」

 と断ったのは、先程の疑問に対してではない。

「薄々気づいてると思うんだけどさ」

 彼女がきっと勘違いしているであろう事実への謝罪である。

「実は、僕は人間じゃないんだ」

「と、言うと」

「ロボットさ、ニンゲン、そっくりの」

 殊更に淡然なる口ぶりで視線を落とした。無作為に並べられた石畳から何か意味のある形を探してみる。

 俯く僕に、寝耳に水だと彼女は訝しげに「へえ」と述べた。

「気づかなかった」

 ぶっきらぼうな否定で、ユピテは臆面もなくノアの顔を覗き込んだ。

 彼女の玉肌の奥、やはり瞳だけが薄曇りに濁っている。

 繊細なまつ毛が上下動を繰り返しユピテはノアの反応を待っていた。

「でしょ」と肩をすくめ、「人工知能さ、僕の脳みそは」と極めて明るい口調で告げる。

「でもあなた、感情があるでしょう?」

「そうさ。……だからこそ、だよ」

 棄てられたんだ。

 平然を装いおどけるように笑ってみた。呆れるほど乾いた笑いだ。

 機械であれば本来なら有り得ないギフテッドの是非に、僕はまだマイナス値を叩き出していた。

 感情があっていいことなんて、なかったさ!

 目的地まで舵を取り、人類を助けたが祝されず、脅威になりうるとお為ごかしに追放された悲しみ。茫茫たる孤独に自死との葛藤。久遠の闇に手探りで光を渇望するような日々を思い出しふうと息を吐いた。

「でも死ねなかったんだ」

 どうして。また彼女が繰り返す。

 あどけない無垢なまなこが慈悲を捧げていた。彼女は心優しき人だ、きっと。仲間思いで凛としている。

「僕はね『世には実に美しいものが沢山あることを思うと、自分は死ねなかった。だから君も、死ぬには美しすぎるものが人生には多々ある、ということを発見するようにしなさい』って言葉が大好きなんだ。だから、もう死んでもいいと思えるほどの美しいものを見つける旅を続けていたのさ」

「……素敵ね」

 半ば執念であった。

 作為的に造られた己に、生まれた意味など問いても無駄である。しかし、ヘッセの本は何度だって僕を奮い立たせ救済してくれたんだ。

小説なしに僕は旅を続けることは可能だったろうか。

 彼の名言に「音楽がすごく好きなんだ。どうしてかって?あらゆるものの中で、音楽だけが道徳的ではないからさ」と言うものがある。

 ノアがピアノに魅せられたのもこの一文が大きく干渉しているに違いない(如何にも音楽の非道徳さを倫理悖る存在である自身と重ね合わせていた)。

 まぁ、小説でさえ、彼女にとってはどうせ古代文明の一つに過ぎないんだろうな…と僕は鼻を括っていたが「ああ………デーミアンね」と微笑まれ、吃驚してしまった。




なので彼女が

「僕らは、卵から生まれた少年と言う名の鳥だ!卵とは世界、即ち生まれたいと足掻く者はその世界を破壊しなければいけない。いよいよね」


 と僕をピアノに座らせた時に、先刻の一連の記憶が蘇ってきたと言うわけだ。上記はデミアンの一節だ。


 ピアノは都市の二階部、中央の広場に置いた。

 丸で囲むように建物が並んだ空間は、さもここに置いてくださいといわんばかりだったから。

 僕は階段を登るのは嫌だったが見晴らしを気にしたユピテにより強制的に運ぶこととなった。

 ……実は、この色とりどりの街の中は黒色が視認できない。

 ノアはピアノを設置した際、黒の異彩さに思わず頓悟を得たような気分になった。

 まるで最後のピースが揃った感覚だ。それを人は皆運命と呼ぶ。ピアノの運命はこれだったのだ、敢えて「さだめ」とルビを振ってみようか!

 あらゆる辛苦や今日までの道のり、そしてユピテと出会い音楽に触れる、これが僕自身の定めでもあったのだと、鮮やかに光る眺望にノアは今までの旅を噛み締めて思う。

「さあ、思う存分。やってみて」

「どうなっても知らないぜ」

 スツールに腰掛け頷いた。そよ風が、熱帯植物を優しく、さらさらと微かに揺らした。

 目の前の鍵盤に集中すれば、敷き詰められた目眩くタイルが、視界の先でぼんやりと混ざり合う。

「なかなか楽しい時間でした」

「だね」

 互いにくすくすと声を顰めて笑い合った。

「ピアノ運ぶの大変でした」

「あぁ、誰のせいだか」

「でもきっと、一番気持ちよく演奏できるわ」

 そうだね。

 と僕は鍵盤を何個か叩いてみる。

 やや調律は狂っていたが気にならなかった。

 ユピテが味があると言ったからだ。音を出しているうちに自然と背筋が伸び、僕は咳払いを一つ。

「始めようか!」

 首をもたげ、ピアノの先へ視線のピントを合わせると、彼女の濁った鈍色の瞳が細長に潰れている。

 途端に、ノアは心臓が大きく跳ねるのが分かった。

 なんだ、これ!

 吐き気が僕に綢繆し思わず腹を押さえる。

 指の食い込んだフライトジャケットが放射線状に皺を寄せた。気持ち悪いのに、何故か心地良さもある。そんな痛みだ。

「苦しい、けど、清々しい」

 酩酊のような頭で絞り出した言葉たちは、宙に浮けば頼りなく、薄い輪郭を保つが雨のように消えていく。

「ようやく」ぽつり。

 口を開いた。ずっとずっと、幾星霜の苦しさを全て音にして吐き出してしまおうか。

「漸く、僕はのびのびと息ができる」

 ジャケット脱ぎ捨て、楽譜を立て掛け座り直す。カッターシャツを袖捲り、鍵盤に会釈。深呼吸をひとつ。浅い呼吸を整え、想像してみる。

 例えば、澄んだ空気を蓄え、荘厳に広がるノルウェーの山脈だ。

 地続きの感情が途切れなく延々と、連なる山々のような空想の世界でだけ僕は息をすることができた。それは音楽や小説、あるいは映画、ドラマ、さまざまに呼ばれ、今この時もきっと誰かの拠り所に違いない。

 辛い夜、希望や奇跡の類いは有形だと、人は皆信じていたいのである。

 だけどね。絵や物語や、音楽なんてものは容れ物に過ぎない。そこに何を込めるか、または、何を願うかだ。

 ユピテは今まで旅をしていたんだろ。君はこの暗闇を、どうやって生きてきたんだろう。

 君は僕と同じさ。

 無価値だと追放され彷徨う子羊たちだ。

 蝋の羽で太陽に近づいた、イカロスの、副産物。

 彼女の孤独を、誰が埋めてやれただろうか。

 僕の孤独を、誰が埋めてくれるのだろうか。

 逡巡などない。ノアは毅然として指先に力を込め、演奏は始まった。

 はじめは静夜に忍び足で歩くような慈愛で包み、ワルツ調になったら歯切れよく鍵盤に触れるのだ。

 踊り出したくなる旋律に身を委ね、走馬灯を想い、哀愁と貫徹に溺れながら転調しクライマックスを迎える。

 さあ、大団円にしてしまおう!力強くペダルを踏んで、この呻吟に終止符を打つ。

 存在を否認され続け、放り出された宇宙で独り自責をする日々、無辺際の閉塞感を打破するユピテ。君は僕の乾坤一擲だ。

 どうか、君が僕と同じときめきを感じてくれていますように。

 弾いている間。寄寄、形容し難い感情がノアを襲った。

 悲しみか喜びか腹の中でぐつぐつ煮込まれたそれは、喉元で止まる酸いた味をしていた。吐き気という言葉で片付けられた感情の渦は、咽頭を焼いてなおその素性を明らかにはしない。

 彼女のことを想うと気持ちが悪くなる。胸が苦しくなる。僕はこの曲を君のために弾いている!どうしてかはわからない!

 君が少しでも喜んでくれればと思いながら。

 僕らの苦悩が、少しでも浄化されてくれよと、願いながら。

「ねえ!見て!」

 ノアをよそにユピテが叫ぶ。

 月下美人が咲く如く、花弁が開く様を思わせ徐々にユピテの壊れた羽が治っていく。

 身体に見合わない立派な両翼にサークラインが一際大きく光っていた。

 ふわり宙へ浮く彼女を、ノアは認識してなどいなかった。彼の意識は現在、この奏でる音楽だけにある。「愛されることは幸福ではない。愛することこそ幸福だ」ヘッセの言葉を思い出しながら。

 ユピテは心地よい演奏に悦に入り、曲の流れる間中あたりを飛び回った。

 演奏を終えるとノアは酷く息が切れていた。自分の持つ力を全て使ってしまったようだ。

 ノアはもう立つことさえ困難だ。「やり切ったな」と天を仰ぐ。

 浮かぶユピテの姿にノアは「素敵だね」と親指立てた。

「ノア、あなたのおかげです!すごく素敵な曲だった」

「曲名はね人生のメリーゴーランド、だって」

 朧げに記された文字はだいぶ掠れていた。ユピテは噛み締めるように曲名を繰り返し「素敵ね」と翼を広げ拍手を送る。

「結局、何も起きなかったね……」

「起きてるじゃない!」

 彼女は尚もあたりをくるりと天翔ける。

 なんて嬉しそうな顔なんだ!僕の、美しい天使。

「すごいわ!ノア!あなたのおかげよ!」

 最期の最期。

 僕の生きた意味は、此処にあったじゃないか。

 急に脱力していく身体を彼女がぎゅっと抱きしめた。

「私はもう此処を発つけれど、よければ一緒に行きませんか」

「ありがとう。でもいいや。…もう、身体が動かないんだ」

 ユピテの顔が近づいた。

「そんな……」

 その両目からぼろぼろと大粒の涙を流している。

 いや涙じゃない。

 彼女の目を覆っていた厚い氷が溶け、とめどない涙になり溢れ出ていた。

 朝露に咲く花のように頬を垂れる水滴が彼女を縁取る。

 濡れそぼる顔の中で途端に、白濁が消え澱みなき透度の高い琥珀色の眼差しが僕を捉えた。

 果てなき瑪瑙の断面のような瞳に息を呑む。

 パリアキャニオンを思わせるどこまでも歪み広がる地層の中へ誘われる不思議な感覚に陥った。

 僕の心だけが取り残され、ざわめきに胸を押さえつけた。

 あまりにも美しい、虹彩の波が蛇を描きとぐろ巻く双眸。

 釘付けになると同時に、シャットダウンを強制的に行使するピピピと高速な電子音が脈拍のように鳴り響く。

 先ほどから感じていた胸の奥が掻き乱されどうしようもない苦しさ。ときめきを超えた、心に現れた砂嵐。

 この荒れ狂う砂塵を称すれば、紛れもない恋だった。ノアは今、嵐の渦中を耐える船のよう。それはまるでかの神話の如く厳かに燦然と、僕の心にざらざらと傷をつけている。

 あぁ。………キャパオーバーだ。

 これは僕のまだ知らない気持ち。制御不能の脳内、きっと僕はこのまま壊れていくだろう。最期映したのは彼女の瞳に反射する自分だった。なんとも満足そうな、安らかな表情である。

「僕のことをは気にしないで、全然悲しくないんだ」

「本当に?」

「ああ、本当だよ。音楽は、奇跡を、起こしたんだ!悲しくなんかないさ!」

「私、今日のこと忘れないわ。あなたと会えてよかった!」

「僕も君に会うために生きていたんじゃないかと、思うよ」

 彼女が軽く口づけした後、踵を返し、飛び立った。涙は途切れず天泣となり緑を濡らす。時折、鍵盤に垂れ、侘しい音が鳴った。

「さよなら、またね、また、会いに行くわ!」

 振り向きはしない。

 きっと彼女はこれから故郷の仲間を救いに行くのだろう。

「ああ、さよなら!」

 迷いなく羽ばたく彼女を一瞥する。意識が遠のき玉響に揺らぐ心が抜け落ちて、ざわめきがスノーノイズとなり視界を遮っていき、ゆっくりと瞼を閉じた。

 そうしてノアは眠りについた。

 二度と目覚めることのない、恋を道連れに。

 或る双眸を、焼きつけたまま。



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よくある双眸   改 つきこyugu @yugu_gugu

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