短編
うさぎ
Resumption
鈍器で殴打されたような疼痛が絶えず体を襲う。痛みで震える手を何とか制御して鎮痛剤を口に放り込む。干乾びた喉では上手く薬を呑み込めない。舌を噛んで唾液を出し、何とか飲み込む。こんなものは気休めでしかないのに、縋ってしまう。対症療法よりも、根本解決をしなければいけない。目の前で光る画面を見た。
私の勤める会社は地球・月間高速エレベーター『ムーンライト』の開発工事を担当する、世界有数のゼネコンであった。ちなみに、エレベーターという名称にはなっているが、ほとんどモノレールみたいなものだ。果てしなく続く塔をレール代わりに車輪とワイヤーで箱を上下させる、仕組みは簡単なものだった。そして私は一エンジニアに過ぎないが、このプロジェクトに携わっている。何万もの倍率を潜り抜け狭き門を突破できた私は至極幸運であったことは間違いない。
ムーンライトの施工は人類の宇宙進出の一つの里程標である。つまりはこのプロジェクトに携わるということは、歴史に名を残すことと同義であった。それゆえに先導国同士の争いなどはもちろんあり、核戦争まで引き起こされた。幸か不幸かそれは放射能技術の発展に寄与し、ムーンライト開発の一助になった。今では、薄氷の上のプロジェクトには間違いないが、何とか明後日竣工というところまできた。記念すべき初回の運航は各国の首脳陣が乗り、彼らを月、正確には月の上空一万キロメートルの位置にあるムーンステーションまで送り届ける。エンジニアがやる仕事は既に終わり、あとはエレベーター内部の清掃くらいしかないはずであった。
会社のパソコンの前で悠々とコーヒーを傾けていたのが懐かしい。オフィスの椅子に座ると、ムーンライトが窓からよく見えた。故郷と違い赤道直下に位置するムーンライト付近では、時間の流れが随分と緩慢であった。自分のやり遂げた仕事の達成感に浸っても、塔は見上げても果てしなく、矮小な人間にとって永遠を感じさせるものだった。あのときは、先端に向け細くなる塔を見て、過去の苦労や徹夜した夜も豆粒のように小さくなった気がしていた。
「青村眺はどこですか!」
部屋に誰かがどたどたと駆け込んできた。こんな良い昼下がりに誰だと憤慨し声の方を見た。
スーツに身を包んだ男が入り口近くのスタッフに詰め寄っていた。顔は絶望とも焦燥とも取れるような可笑しな顔をしていた。男に詰められたスタッフは不思議な顔をしながら、私を指した。
突然、当事者にされた私は驚いて硬直してしまった。男はほとんど走る速度でこちらに迫ってくる。
「貴方ですか?」
泣き声にも似た絶叫のような声が部屋に響いた。男の意図を掴めず不器用な笑みを浮かべることしかできない。
「申し訳ない。とりあえず、今すぐ、会議室Hに来てください。話はそこから」
男はくるりと身を翻し、オフィスを出る。言葉の解釈がうまくできず、とりあえずコーヒーを口に含んだ。
「何をしているんですか。今すぐ来てください!」
男が入り口に仁王立ちし絶叫した。泣きそうな顔をしている。いい年をした男が泣くなんて情けない。軽く悪態を吐いて私は男の後を追った。
「それで、貴方が青村眺ですか?」
会議室の椅子に座るなり、男は私にそう聞いてきた。その不躾さが癪に障ったが穏健に頷いた。そのことを男が認めるとすぐに、持っていたパソコンを開いた。
「貴方が呼ばれた理由は、ムーンライト保護のレーダーとその撃墜装置を開発したチームの、長だからです」
「は、はぁ」
「これは他言禁止、いえ、おそらく貴方はこれから他人と会えなくなりますが、今からする話はチーム外の誰にもしないでください」
「えぇ、わかりました」
男は一度咳払いをして話を続ける。
「初回のムーンライト運用が明後日に迫ったのはご存知ですよね」
「当たり前じゃないですか。今はオフィスでもその話題で持ちきりで……」
男が手を軽く振り、私の話を制止した。
「その記念すべき初回にテロが行われるという情報を掴みました」
男の発言に若干動揺はしたが、しかし、自分達のチームが開発したエレベーター保護装置を思い出した。テロごときでムーンライトは壊れたりはしない。この男は私たちが積み上げてきた技術を知らない経営陣の手先であろう。私は彼にいかに防御装置と撃墜装置が完璧であるか、を説明するために頭に平易な言葉を並べだした。
私の舐め腐った顔に苛立ったのか、男は眉間の皴を深くして睨む。
「テロ内容はエレベーター保護装置のプログラミングを書き換え無効化、各国首脳を殺すこと、ムーンライトの破壊だそうです」
男の発言の素っ頓狂さに笑いそうになった。何を馬鹿な。プログラミングの書き換えなんてそんなことできるはずがない。書き換えのためには幾重にも張り巡らせたロックを開錠し、膨大なコードを読み解かなければ無効化など出来ようがない。わが社もこのようなことで、とやかく騒ぎ立てるような無能な人材を雇ってしまったか。
「あはは、大丈夫ですよ。貴方が想像するより、私たちのセキュリティ環境は強固です。大丈夫です。そんなことより、大統領たちの長い演説の最中に狙撃されないか、心配された方が良いと思いますよ」
手を銃の形にしてふざけて見せる。男は眉間の皴をさらに深くした。
「貴方のチームで今日まだ出社していない人がいるでしょう」
「え、えぇと」
「チェット・ライトナー、です」
誰が出勤しているかも把握していない私を待つことなく、男はある部下の名前を出した。彼は超人的な記憶力と情報把握能力を持ち、チームの主力メンバーであった。その能力を見込まれ、基本的に彼がプログラムのパスコード全てを把握・管理していた。確かに今日は顔を見ていない気がする。
「彼が何か?」
男は短く息を吸って、吐き、口を開いた。
「彼が、テロリストの内の一人だったことが、判明しました」
少しの時間を要した。人が驚いたとき、本当に動きが止まってしまうのだと感じた。脳が理解を拒む。言葉がやっと意味を伴って立ち現われて来た。見開いた眼が徐々に乾いていくのを感じた。
つまりは、つまりは。
「ですから。貴方には責任をもって、この問題に対応していただきたいのです」
男は私の顔を見て泣きそうになっていた。釣られてか私も泣きそうになった。
現実逃避は辞めろ。そんな声が脳の内側から聞こえた。画面に並ぶコードは整然と、私の理解を拒むように美しく並ぶ。膨大な情報処理を任された我々のチームは休憩という言葉を忘れてしまった。全員が画面に向かって文字列を追う。書き換えられた箇所が不明なため、二千万行を超えるコードをほんの五十人程度で読み解かなければいけなかった。こんなこと人間ができるわけがない。そう、できるわけがないのだ。部屋の中が諦念で埋め尽くされている。全員の机の上に痛み止めの入っていたであろう包装シートが散乱している。そんなことは知らないとでも言いたげな様子で、全身は鈍く強い痛みに悲鳴を上げ続けていた。
「リーダー、担当箇所からは見つかりませんでした」
表情を漂白された部下が私のもとにやってきた。彼も初めは青い顔をしていたのに、だんだん感情が消えた。
「あぁ」
見つからないからと言ってどうすることもできない。今できるのはただコードを読み続けることだけだ。初回の発射まで残り四十時間を切った。
「青村さん、は、いらっしゃいますか」
活力を感じられない声が聞こえた。随分と懐かしい。
「手が離せないんです。こちらに来てください」
呟きより微かに大きい程度の声しか聞こえなかった。しかし掠れた声を彼は受け取ったようで、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「見つかりましたか」
彼の言葉に力なく首を横に振る。男は固く唇を引き結び、私の目を見た。
「おそらく、もう無理でしょう」
「は?」
想像よりずっと低い声が出た。
「おそらく、防御装置を直すことは無理でしょう」
咄嗟に、男のシャツの胸元を掴む。彼は抵抗することなく、従順に掴まれる。いきなり動かした体は鋭い痛みで身体を突き刺す。
「ふ、ふざけるな! お前が言ってきたんだろ! それにまだ、作業を始めて二十時間だ。まだ、まだ」
そんなことわかっていた。まだ五%も解析が終わっていない。でも、そういう話ではない。ムーンライトの一端だろうと、私たちはこの仕事を任せられたのだ。テロや首脳が死ぬことなど最早どうでもいい。これはただ、私たちのプライドの話た。
男は黙って私を見ていた。しかし目に静かな光を湛えていた。
「お前、何を考えている」
握力を緩めた。男は不敵な笑みを浮かべる。
「ムーンライトに乗り込みましょう。迎撃装置が働かないのならば、手動で迎撃すればいいのです」
つい、鼻を鳴らした。そんなことできるわけがない。もう夢物語を話せる段階は終わったのだ。
飛来物を宇宙空間で確実に迎撃するには膨大な計算と緻密な操作を求められる。人間の劣った感覚器官でどうにかなるものではない。ましてや初回の運用。少しもエレベーターに傷をつけるわけにいかない。
「青村さん、少し話をしましょう」
断りたかった。コードを一行でも読みたかった。それをさせない強情さと切実さを男は持っていた。それに懸けてみたくなった。
隣の休憩室に移動し、改めて男を見た。明らかにやつれた男の顔は、まだ死んでいなかった。まじまじと男を見ると、案外若そうな顔をしていた。奥に見えた鏡が目に入った。全部を放り出してしまいそうな顔をしている。プライドやなんだと言っていた割に、私はなんて弱い人間なのだ。コードを読まなくていいと微かにでも思った瞬間、それに縋りつく弱さしかない。
「改めて、私は、白川航です」
名刺にはShirakawa Kouと簡単なセリフ体で書かれていた。
「所属は統制部です」
それを聞いて理解した。彼は私より圧倒的に有能であった。経営部の手先だと思った自分が恥ずかしい。統制部はプロジェクト全体を管理統括し、場合によっては助けに入る優秀な部門である。だからこそ、今の行為がいかに不可能な試みであるか、というのを理解できたのだろう。その彼の胸元を掴み暴言を吐いた自分が情けなく感じる。
「改めまして、青村眺です。すみません、今名刺がなくて。名前の、ながめは眺望の眺です」
既知の事項だ、とでも言いたげに白川は鷹揚に頷いた。
「まず、現状を確認しましょう」
「……えぇ」
「確認したところ、エレベーターの保護と迎撃装置が機能していませんでした。おそらくその二つのプログラミングが書き換えられ、現在、ムーンライトは剥き身の存在です」
窓から見える塔を見た。すでに深夜と呼ばれる時間帯の塔では、一定間隔で光る赤いランプが、塔がまだ立っていることを示していた。電磁膜の無い今のあの塔は雷や雨に対する防御策はない。天候が良いのは幸運だった。
「統制部の面々でエレベーター付近の宇宙ゴミの回収、人工衛星の統御は行っています、ただ」
「エレベーター運用時に宇宙船や航宙機を見せるわけにはいかない、のでしょう」
白川は目を伏せる。
「えぇ、報道も乗り込みますから。あまり物々しい雰囲気を醸し出すわけにはいきません。テロは首脳陣には伝えられていますが……」
テロに屈するわけにはいかないというのが、昔からの共通認識である。
「つまりプログラミングの早期の復旧が大切でしょう。しかし、コードが変わった部分は分からない」
砂漠の中から同色のビーズを見つけるようなものだ。緻密にコードを組みすぎたのが仇となってしまった。もっとレジリエント力があり、整備のしやすいコードを。などと考えたところで起こってしまったことは仕方がない。後悔をしたところで何の役にも立たない。チームリーダーとしてそういうプログラムをするように言った私に責任がある。私が無能だったというだけだ。白川は項垂れる私を見て、無理に笑顔を作った。
「いえ、おそらく変わった部分は分かります。調査結果より、迎撃装置、レーザー砲の発射自体は問題なくできるそうです。問題はレーダーと迎撃装置との連関がうまくいっていないそうです」
光明が見えた。ならばレーダーとレーザー砲の関係を再構築すればいい。配線を繋ぎ直すだけであるから、それほど難しいわけではない。
「ならば話は簡単です。そこのコード読み取らせるように指示します」
白川が慌てて口を開きかけた瞬間、休憩室に部下が走りこんできた。
「リーダー! レーダーの制御値が滅茶苦茶になっています!」
徐々に、頭から順番に、脳が彼の言葉を解釈する。
息を呑んだ。震駭した。手が震えそうになった。顔から血の気が引き、全身に鳥肌が立つ。部下もガチガチと歯を鳴らし、今にも卒倒しそうだ。
私も彼と同じくらい青い顔をしているだろう。配線を繋ぎ直そうにも、配線の穴を滅茶苦茶に変えられてしまったのだ。もう、どうすることもできない。
「目が、私たちの作った、目が」
部下が譫言のように呟く。気の遠くなるような試行を超えて、私たちは目のような、目なんて生温いと言えてしまうような完璧なレーダーを作り上げた。
「わかった。よく見つけてくれた。それから……落ち着け。落ち着いてくれ」
部下にかけた言葉が、あまりに弱々しくて惨めだった。子供を殺された親の気持ちが、今痛いほどわかる。落ち着いてなんていられない。憎悪とも痛嘆とも取れる感情が渦巻く。
「青村さん、私たち、統制部の作戦を聞いていただけませんか」
緊迫した顔の白川はまるで神のように思えた。私が、ムーンライトが縋りつける藁はもうこれしかない。
「頼む」
白川が力強く頷いた。
「遂に、遂に、我々の悲願が達成されるのです!」
豪胆な大統領の言葉を傍目に、白川と私はエレベーターの上の狭いポッドに身を入れた。
本来レーダー装置が入っていた部分であるため、人が生存できるようには設計されていない。しかし、一応保守点検用にポッドを動かすことができるため、生命維持機器類は動かせた。激しく呼吸をしなければ、何とか生きていける程度の酸素はあるらしい。
ポッドの中は案外広く、大人二人が寝転がれるほどの広さだった。壁はコードや配管が剥き出しであり、エンジニアの血が騒いだ。壁には宇宙服が掛っており船外活動もできるようになっていた。
「青村さん、寝不足ですか?」
白川は目の下のクマを指す。自身も大きいものを飼っているのに。
「それは貴方にも言えることでしょう」
緊張してあまり眠れなかった。私の手にムーンライトの生命が懸かっている。思わず、天井窓を見上げた。天井には丸窓が付いていて、一直線に伸びる塔がずっと彼方まで見えた。記念すべき初回だからが、塔のランプは虹色に光っている。
「ランプ、赤以外に光るんですね」
独り言ちると、白川が小さく笑った。
「統制部は、営業部や広報部の意見も柔軟に取り入れていますから。ちなみに、五億ドルほどで好きな色に光らせられますよ」
白川の冗談に軽く笑い返す。その顔がやけに幼く見えた。
「失礼でなければ、白川さんはお幾つなのですか?」
「今年で二十二になります」
やはり息子と言えるような年齢であった。同僚が同じ年齢の子供がいたと言っていた。
「お若いんですね」
白川は後ろめたそうに笑う。
外から、大きな歓声が聞こえた。
「あの人たちもそろそろですかね」
「いえ、あと一時間ほど、彼らは発射しませんよ」
至極冷静にそう言う。
「統制部はそんなことまで管理しているのですか?」
「えぇ、統制部ですから」
白川は外に合図を送った。一度深く沈んだかと思うと、瞬間、上部から押さえつけられる感覚に襲われる。
「宇宙に行くってこんな感覚なのですね」
エレベーターの往復費用は一人二百万ドルほどだ。庶民に手が出せるようなものではない。統制部の白川はおそらく何度も行ったことがあるだろうが。
「作戦は頭に入っていますか」
白川の問いに何度か頷く。作戦といえるほど大仰なものではないのに、作戦と呼ぶ白川が滑稽だった。
「迎撃装置は発射可能なので、敵の位置の捕捉を人力で行うのです。それは私が勤めます。貴方は指示通りに発射してほしい」
白川は小学生でも思いつきそうなことを言った。
「レーダーの代わりになる、ということですね。申し訳ないですが、それは無理と言わざるを得ません。地球で銃弾を発射するのとはわけが違うのです。迎撃装置として採用した、レーザー砲は宇宙では不可視。着弾したかどうかのみで射線を推測する。それにレーザー砲は強力で高速ですから、周囲に干渉しないように、拡散しないように、強度角度射程を操作しなければならないのです」
人間如きがあのあまりに優秀なレーダーの代わりをできるわけない。
「わかっています。しかし、相手がどれほどの武器を持ってくるかわからない以上、こちらも最も強力な武器を使うしかない。おそらく人類が持ちうる最強の武器はレーザー砲でしょうから。
もちろん、旧式のレーダーは持っていきますが装置との調整が済んでいないので、おそらく大まかな場所の把握にしか使えないでしょう。周りで飛ぶ航宙機にもバックアップを頼みますが、最終的には目視で微調整したい、いえ、します」
白川は強く主張する。それを、信じるしかない。私は代替を提示できないのだから。
「確か、レーザー砲には、念のために手動発射ができますよね」
「そこのコードは変えられていないはずです」
「なら、貴方は私の言う位置情報を入力してくれればいい。強度射程などの微調整を任せることになりますが……。おそらく、チームリーダーの貴方が一番、把握しているでしょう」
「いや、リーダーだからと言って……」
「謙遜は不必要です。貴方は何でも自分で把握しておきたい性だということは調査済みです。貴方しかいないのです」
白川は縋るように私を見た。
「そう、言われてしまったら如何ともし難い、ですね。人の扱い方がお上手なことで」
「統制部で散々扱かれましたから」
遠い目で白川はそう言った。
「『地球は青かった』とはよく言ったものですね」
最早、過去というより歴史となった宇宙飛行士の名言を無邪気に言われた。白川は何度も宇宙に行っているだろうに、私に合わせてはしゃいでいるように見えた。ぐんぐんと昇るエレベーターは既に高度百二十キロメートルに達した。
「ここからポッドの速度を落とします。民間ロケットはこのくらいの高度が限界ですので、おそらくは攻撃を仕掛けるならここらです」
白川は耳のイヤフォンを押さえつけ、集中して音を拾った。周りを周回する航宙機が異物の有無を報告してくるらしい。窓を覗くと遠くで航宙機が飛び回るのが見えた。下を見ると、地球の表面を列をなして浮かぶはずの人工衛星が見当たらなかった。これなら、ムーンライトに近づく異物なんてすぐ見えるのではないか。楽観的な考え頭に流入したところで、それを堰き止めた。これは認知バイアスに過ぎない。緊張しろ、慌てるな、冷静に。
しかし元来デスクワークしかしてこなかった私は、こんな緊張感には慣れていなかった。勝手に手が震える、目から涙が溢れそうになる。
自分よりもはるかに若い青年に、全てを任せて待つだけの状況が情けない。かと言って私が何かできるわけでもない。白川がぼそぼそ何か言うのを、宙を眺めて待つことしかできない。
ムーンライトを見上げる。果てしなく続く塔は巨人のように思えた。第一回の運用に乗る人はおよそ二百人。しかし、私の手にはそれ以上の命が握られている。
人間にとって、科学は発展しすぎた。個人の理解が及ばない程度には肥大してしまった。ゆえに、だれも科学の持つリスクを正しく判断することはできない。時に過少に、時に過大に科学は評価されてしまう。手に余るものを私たちは取り扱っている。もしムーンライトがテロの被害を受けてしまったら、今後半世紀は科学の発展に対する危険性が過大に評価されるだろう。
今、私の、私たちテロと相対する人たちの手には二百人の命だけでなく、今後の科学の発展までもが握らされてしまった。顔を手で覆ってみるが、緊張が解けるわけはなく、指先の震えを感じてより一層血の気が引いた。
「……そんなに、空に、宇宙に、人を近づけたくないか」
「誰に対して言っているのですか」
白川は私に胡乱な瞳を向けてきた。それに力なく笑うことしかできない。
「もしも、もしも神に言っているのだとしたら、それは間違ったことです」
白川は窓の外を眺めながら呟く。
「この世界に神はいません。いないものに祈っても仕方のないことです。今私たちが祈るべきは」
白川は塔を見上げ唇を嚙んだ。
「この果てしない塔と今まで積み上げた科学です」
言い聞かせるような痛切な叫びをあげ、白川は苦しく眼を閉じた。願うことしかできない自分の憫然さがあまりに屈辱だった。
しばらく瞑目していると、白川のイヤフォンが小さくブザー音を鳴らした。一、二言言葉を交わし、こちらに顔を向ける。
「青村さん、捉え方によってはいいニュースをお伝えしても?」
茶目っ気のある言い草に笑ってしまった。了承すると白川は微笑んだ。
「現在、ムーンライト周辺に不審物は見当たりませんでした。おそらく、下のエレベーターが上がってくるまで敵は動かないのでしょう」
「客にバレないように撃墜するのがより一層難しくなったと思うのですが……何がいいニュースなのですか?」
「あと十五分ほど、青村さんとおしゃべりできますから。なんて」
白川は自嘲して、床にへたり込んだ。彼も、緊張しているようだった。顔から一切の表情が抜け落ちている。笑顔も軽い態度も、私に対する彼なりの気遣いだったようだ。微かに足が震えている。
「統制部は、こんなこと何度もあったのではないですか?」
視線を彷徨わせながら、白川は言葉を産む。
「ムーンライトは巨大ですからね。広告には都合がいいのです。テロ、デモ、愉快犯、確信犯……本当に大変でしたよ。でも、今日ほどではありません」
白川は小刻みに足を揺する。
「要人が死ぬなんてのは、本当はどうでもいいんですよ。ムーンライトのお披露目に、泥を塗るかもしれないのが恐ろしい」
その名の通り、ムーンライトは白い塔だ。泥なんて塗れば一等目立つだろう。
「それは、そうだな。私も怖いです」
白川はそれを聞いて目を見開いた。
「青村さんもですか?」
「なんで、そんな驚くんですか。私がそんなに肝の据わった人間に見えます?」
白川は視線を逸らして、何かに迷っていた。何度か言葉を言いかけては止めた。
「……年齢を重ねれば、肝が据わるものとばかり」
「君の父親はそれほど豪胆な人物なのですか?」
微かに目線が泳ぐ。
「早くに亡くしてしまったので」
よそよそしく目を逸らしてしまった。こういう時に何といえばいいかわからない。
「青村さんはどうして、ムーンライト事業に携わろうと思ったんですか?」
おもむろにそう聞かれた。私も地べたに座り込んだ。手を軽く揉み、手の震えを誤魔化す。
「国の一大イベントに関われるなんて、科学者の夢じゃないですか」
白川は浅く何度か頷く。
「いいですね。科学者らしい」
「科学者か。私は理論屋ではないから何とも言い難いですね。エンジニアと言われた方がしっくりくる」
「科学は理論屋さんのものなのですか?」
はは、と白川が笑った。私は少しの間唸る。
「理論屋がパイオニアであることは確かですから。でも……まぁ彼らが科学という巨人の身長を伸ばし、歩かせているとするならば、私たちは日々大きくなる巨人の服を作っているような感じ、ですかね」
白川は面倒くさそうな顔をこちらに向ける。自分の詩的すぎる比喩に恥ずかしくなった。
「まぁ、端的に言えば、科学に宇宙に憧れたからですよ。それだけです。君はなぜ」
「私もまぁ、憧れたからですかね」
投げやりに彼は答えた。
「ムーンライトに?」
思ったより怪訝な声が出た。彼は少し悩んで、まぁいいかと言った。浅く息を吐き、決壊したように言葉を紡いだ。
「ムーンライトは私にとって、夢そのものなんですよ。幼いころから、ずっと、嫉妬と羨望と憎悪を込めてこの塔を眺めていた。
父がムーンライトの建設中の事故で死んだんですよ。私が六歳の頃でした。ちょうど成層圏で壁面の工事をしていましてね。運悪くスプライト、ありていに言えば雷を受けて、死にました。棺の中の父の死体は真っ黒焦げで小さくなっていて、顔もわからなくて、虫歯の治療痕と遺伝子検査でやっと父だとわかって。悔しかった。母はその父を見て、二年後に後を追いました。父が愛し、母を殺したムーンライトが憎かった。
でも、この塔は、憎み切るにはあまりに美しすぎた。父は幼い俺にいつもこの塔の特別性と完全性を誇った。『綺麗だろ。お父さんがこれを作ったんだぞ』ってそんな言葉だけが耳に残っていて。
しょうがないんですよ。もう、この塔は俺の人生を完璧にズタズタに変えてしまった。もうどうしようもなかった。これに縋るしかなかった」
白川は長く息を吐く。
「だから、俺はこの塔に関わろうと思った。死に物狂いで勉強をして何とか統制部に引っかかって、関わることができた。
塔に関わるたびに、破壊衝動に駆られた。俺の人生を滅茶苦茶にした報いを塔に受けさせてやりたかった。でも、でも……」
白川は乾いた笑い声を上げた。親の仇のような物に関わるのは苦痛だっただろう。彼に賛成はできないが理解はできた。
「……塔を壊したいか?」
白川は強く首を横に振った。
「なぜ」
「祈る対象、最後に縋るものを壊すことはできません」
何も言えなかった。苛烈と思える彼を持て余してしまった。
しばらく流れた沈黙を、鋭いアラーム音が切る。私たちは恐慌した。パソコンを開き、直ぐに迎撃ができるようプログラムを開いた。白川も素早く手に持っていたタブレットを手に取る。
「青村さん、あと二分でエレベーターがやってきます」
白川は既に平静を取り戻していたように見えた。私も表情を作って頷く。いよいよ、来る。
「ははは! やはりこのエレベーターは壮観ですなァ」
共和国大統領は出た腹を抱えて、窓の外を眺めた。彼には青く光る地球は他の星から一線を画しているように思えた。それは自国も同じことで……。
それを傍目に連邦国首相は一切窓に近づかず、暗闇を見つめていた。羽虫のように煩わしく遠くを飛ぶ航宙機が、まるで彼の地位を脅かす不敬な人どもに思えた。注がれた水の透明度と匂いを確認して、口を湿らせた。五時間後のムーンステーションの会談でどう皮肉ってやろうかと、そればかり考えていた。
公国副総理は大国二つのどちらに着くかそればかりを考えていた。どちらに着くにせよどちらかに背を向けることになる。両国からは疾く決断するようにと常に剣先を向けられている。グラスに継がれたワインに口をつけた。この程度で酔えない体が憎かった。
SPの彼は大統領の安全よりなにより、このエレベーターに出されたテロ予告の方が心配だった。一昨日、世界中で拡散された動画は嘘のように感じられなかった。当局側は「そのようなテロ予告は受けてはいないし、エレベーターの試運転もうまくいった。塔自体にも全く不調は見受けられない。悪戯な動画に惑わされないように。」という発表がなされたがどうもきな臭い。握る手に力が入った。
記者として彼は全ての人間に聞き耳を立てていた。いつスクープが飛び出すかわからない。会話の一言一句もネタになる。自分たちの手の上で踊らされる彼らが可笑しく、この仕事は彼にとって天職だった。カメラを窓の外ではなく各国首脳に向け、写真を撮った。
白川は焦っていた。私も同様に焦っていた。
不審物が見当たらない。レーダーにも航宙機から向けられる数多くの視線にも、どこにも不審物は見当たらない。我々が乗るポッドはエレベーター本体のほんの二千メートル上を粛然と昇り続ける。
「見つからない!」
白川はギリリと奥歯を噛んだ。彼が八重歯なのをそこで知った。
「レーダーにも映らないのですか?」
「えぇ! 何もない!」
白川は苛立たし気に私を見た。その顔の恐ろしさに両肩が一瞬上がる。彼はもっと違う任毛と思っていた。先ほどまで感じていた白川に対する人間らしさが一気に喪失した。
しかし、私は違和感を覚えた。壁に設置された高度計を見る、上空一万八千キロメートルを指している。
「本当に何もないのか?」
「だから、言っているでしょう? レーダーには何も映らない! やはり貴方たちのレーダーがなければ、こんな旧式では、そもそもこんな高さにテロリストごときが爆弾を飛ばせる訳がないのに。奴らに踊らされただけなのか……」
泣き言を言う白川の手からタブレットを奪い取り、レーダーの反応を見る。
無い、無い!
「無い!」
私の手から素早くタブレットが消える。胸元を掴まれ、眼前に白川の顔が迫った。
「だから無いと言っている! 狂ったか?」
首を絞めんとする白川の肩を叩き、まっすぐ目を見る。
「高度二万メートルのランプの反応がないのです」
白川の意味が分からないという顔に言葉を続ける。
「高度一万メートルごとに、ランプに細工をしたのです。宇宙空間でも手軽に現在地が分かるように」
「いや、事前調査では、そんな反応。それに一万メートルでそんな反応があれば今までの調査で気が付くはず……」
私は肩を竦めた。
「地球からの電磁波の影響で一万キロのランプの反応が無くなるように見えます。また、統制部の調査日にはランプの反応を消していました。それに、この反応は旧式のレーダーにしか反応しないのですよ。最新型には反応しないのです。現場が使うようなレーダーのみに反応する」
「なっ……」
白川は驚愕と憤慨が織り交ざった顔をした。
「竣工当日に全ランプの反応を消す予定でしたが、狂ってしまって」
白川は盛大な溜息を吐いた。しかし、彼は眉間の皴を深くして私を睨み上げた。
「だから、だから何だというのです。ランプの反応がないからと言ってそれはそのランプ自体の不具合かもしれないでしょう?」
「ロケットの範囲外になったならば、もう塔自体に細工するしかないのではないですか。内部にテロリストが紛れ込んだのであれば、ランプに細工するの簡単でしょう」
白川が唸る。私は畳みかけるように言葉を続けた。
「私たちのランプの反応が統制部にバレなかったように、小さな装置や旧式のものならば、おそらく」
「それは、理論的に可能というだけで、実際にできるかどうかは。いやしかし、ここまで高度が上がったのならば、もうそれくらいしか手が無い筈だ。それに、」
白川は顎に手を当ててぶつぶつと考え出した。しばらくそうして、諦めたように両手を挙げた。
「聞きたいことは山ほど、書かせたい始末書は海ほどありますが、今は時間がありませんね……統制部に二万メートルのランプを調べてもらいます」
ちらりと高度計を見た。一万九千キロメートルを指している。
「いや、私たちが直接調べた方が早いでしょう。宇宙服はありますか」
白川はタブレットを操作しながら軽く頷く。
「一人分は」
視線を交差させる。どちらが外に出るか。
「私が、行きましょう」
口火を切ると、白川は一瞬目を見開き、厳しい表情で首を振った。
「今日、初めて宇宙に来た人が、動けるわけないでしょう」
「そうかもしれない、でも私は君よりいくらか年上です。大人が責任を果たすべきだ。それに君より能力値で劣っている、でしょう。人類の貢献度を考慮したときに、私が外に出るべきです。ランプの構造や設置の仕方は私の方が詳しい」
彼が一瞬、息を呑んだ。まじまじと私を見て、ぶんぶんと首を振った。
「……いえ、だめです。私が行きます。もし、不審物が飛んできたとき、貴方ならレーダー砲を起動できますが、私はできません」
「君がいなければ、位置が分からないのでは?」
「それは目視でどうとでもなるでしょう。人間の目は思ったより優れた感覚器官なんですよ」
白川が自分の目元を軽く叩いた。そして壁に掛かっていた宇宙服を手早く取り、着替えを済ませる。
高度計は一万九千四百キロメートルを指す。ポッドが徐々に速度を落とすのをを感じる。
「エレベーター本体に速度を落としてもらうように頼みましたが、おそらく停止できるのは、四分が限界でしょう」
四分以内にランプの異常と、何かあればその除去をしなければならない。できるのだろうか。いややらねばならない。
「もし、四分以内で解決できなければ」
そう聞くと忙しなく動いていた白川の手が一瞬止まる。
「もし、四分を超えてポッド外に出ていたとしたならば……いえ、失敗のことを考えるのは止めましょう。そもそもランプに何かついている保証自体ない」
「やはり危ないんじゃないか」
白川に近づくと、彼は気怠げに手を払った
「時間がありません。天井のハッチを開けます。圧力は制御されるとはいえ、私が出たらすぐ閉めてください。空気が無くなります」
白川を見つめる。彼はこちらを見て、一瞬、強張った顔をした。しかしすぐにヘルメットを被ってしまい、もう表情を読み取ることはできなかった。
「……私たちは巨人の肩に乗っています」
私の言葉に白川は怪訝な顔をした。
「……何が言いたいんです」
「そして、未来、巨人の一部になり、後世の人々がより高みを見られるようにしなければなりません」
高度計は一万九千九百キロメートルを指す。
「ましてや、巨人が転ぶなんてことは、肩に乗る者として、何としても防がなければならない。それが私たちの果たせる、責任です」
フッと笑った声が聞こえた。
「わかっていますよ。大丈夫です。安心してください。塔は壊させませんし、私が壊すこともありません」
私は首を振った。
「巨人が死ぬことはない。転んだところでまた立ち上がらせればいいだけ。
でも、人は死ぬ」
ポッドの速度が限りなく遅くなる。背を向け梯子を登り始めた。
「君は死ぬ。科学は死なない」
ポッドが完全に停止した。白川がハッチを開ける。ポッド内に風が吹き荒れた。急いで閉める。静寂が部屋を埋める。自分の心臓の音が聞こえた。拍動によって体が振動するのを感じた。唇を噛んで、私は窓の外に目を向ける。虚空の中で少し遠くなった故郷の星がどこか気楽に浮かんでいた。
白川がポッドの上に乗ると、目の前には自分の頭ほどの大きさのランプがあった。虹色に変化するランプは目障りでしょうがなかった。ポッドを軽く蹴り、ランプ上部へ回り込む。
はたして、そこには穴が開いていた。ぽっかりと空いた穴には剥き出しの電球とワイヤーと、明らかな異物が見て取れた。
「クソッ」
無性に苛々した。俺のムーンライトを馬鹿にしやがって。ムーンライトもこんなものをのうのうと取り付けられやがって。思わず手が出そうになったが、青村の言葉を思い出した。俺は死ぬ。死ぬ存在だ。
人はちゃんと死ぬということを教わったのは、初めてだったかもしれない。父さんも母さんも教えてくれる前に死んだ。一度大きく深呼吸をして、平静さを取り戻す。まずは異物を見てよく確認する。機構は見ただけで分かるほど単純であった。二十センチほどの箱に黒い機械がテープで張り付けている。黒い箱の上部には二つの銅線が触れるか触れないかの隙間を開けて設置されている。おそらくこの二つが接触したら爆発するのだろう。なるほど、エレベーターがここを通ればその振動で爆発する仕掛けか。変にセンサーなどを使っていないから、見つけられなかったのか。
そこまで分かって、背中に嫌な汗が流れた。少しでも乱雑に触れていたら、死んでいた。頭が揺れるほど大量の血液が全身を巡る。舌を噛み痛みで目を覚まさせる。ここで恐怖という夢に微睡むわけにはいかない。
「白川です。二万キロメートルの直達目安灯の中に不審物を発見しました。除去します」
「了解」
統制部に報告し、異物を改めて見た。黒々と光るそれを見れば見るほど、不快感しか湧いてこない。
頭の中で鏡面のように静かな湖を想像する。入念に自分の心の冷静さを確認して、ランプの中の異物に手を伸ばした。
青村は忙しなく上下左右の窓に目を向けていた。宇宙は黒い。その中で白く光るムーンライトは目立っていた。月から伸びる白線であるからムーンライトと名付けられた、らしい。しかし彼には、天から地獄へ伸びる蜘蛛の糸のように感じられてならなかった。
ふと、左の彼方を飛ぶ航宙機が大きくなったように思えた。砂粒が小石になった程度の違い。しかしそれは、明確な違いであった。大きくなっている。白川は航宙機や宇宙船はエレベーター運用中にこちらへ飛んでこないと言った。つまりアイツは悪意を持ってこちらに近づいている。
「やって、来る……!」
覚悟はしていたが、直面するとこうも恐ろしいとは。震える手を何とか押さえつけて、青村は目測で距離と方角をパソコンに入力する。発射命令を出した瞬間、ポッドが相当に揺れる。エレベーター本体に取り付ける用に開発されたものであるから、想定よりも反動が強い。
外を見ると、運よく航宙機の右翼を掠めたようだが、エンジンに当たっていないため、易々と航宙機はこちらに向かって飛ぶ。じわりと心を良くない予感で染まる。あれに殺されるかもしれない。塔が破壊されるかもしれない。巨人が転ぶかもしれない。科学の営みが止まるかもしれない。理性が恐怖で薄くなる。瞼小刻みに揺れたそのとき。
「右に二十二度、上に五度、強度を今より二分強く」
口が勝手にそう言っていた。
そうだ、何度もやったではないか。防御機構の開発で何度も試行を重ねた。レーダーが上手く相手を捉えられるように、調整を繰り返した。
蝉が鳴くような耳鳴りが遠くに聞こえた。限界まで開かれた目が乾燥して違和感を生み出す。身体の先が痺れた。口が半開きになり、唾液が零れた。しかしそれを脳は情報として処理をしない。
ただ、迫る物の位置を正確に、捉える。それだけに憑りつかれてしまった。
足元が、ポッドが揺れた瞬間、目の前が真っ白になった。
白川は茫然とした。
一瞬心臓が止まった。確かに止まったのを感じた。しかし、今は、激しく動いている。栓が全て取れてしまったかのように、全身から汗が噴き出した。肩と手を硬直させ、浅く何度も息をする。
既にランプから異物を剥がし、両手に持っていたことが幸いしたようだ。起動はしていない。
死ななかった。
その事実が白川をかつてないほど安心させた。父親の葬式に参加した時も、母親の首吊り死体を見た時も、ポッドで青村に言葉を掛けられたときよりもずっと、生と死を実感した。希死念慮を抱いたことはないが、今後一切抱かないであろうと思えるほど、生きたいと感じた。
科学は死なない。俺は死ぬ。
その事実が身に染みる。
ポッドを蹴り、ランプの上に乗る。おそらく振動は青村がレーザー砲を起動したことによるものだと考えた。ならば、何度も発射するに違いない。これからする作業を考えると、少しの振動も許されない。
ランプの上部に立ち、深く呼吸をする。耳元でアラーム音が鳴った。宇宙服内の空理残量が少ないらしい。しかしそんなことはどうでもよかった。慎重に自分の宇宙服の膜を剥がす。これが絶縁体で出来ているということは、統制部の講習会で叩き込まれた。
それを銅線に巻き付ける。視界が不明瞭の中で細かい作業をするのは、不可能だと心が言っている。それは承知の上だ。それでも。
巨人の前の小石くらい、俺が退かす。
ポッドが揺れ、二発目が発射された。航宙機の羽の部分が昇華し、消え去った。しかし片翼の消えた航宙機はその慣性で速度を落とすことなく近づく。
大きく息を吐き、レーザー砲の方角と強度を練り直す。敵が近づいた分、的は大きい。過集中の彼には児戯に等しかった。
「壊せ―――――!」
素早く数値を入力して発射ボタンを押す。レーザー砲の強度を上げた分、ポッドが今まで以上に大きく揺れた。壁に背中を叩きつけられながらも、窓から目を離さなかった。不可視のレーザー砲はおそらく航宙機に向かって駆け、真ん中に当たった。航宙機が内部から爆発し、その破片が飛ぶ。大部分が昇華したため大きな破片は飛んでいないようだ。
入念に窓の外を確認する。大きな破片が飛んでいないか、レーザー砲は遠くを飛ぶ航宙機にぶつかっていないか。この集中力が切れれば、もう二度とこんな芸当出来るはずない。
おそらく、大丈夫だろう。
そう確信した瞬間、どっと疲れがやってきた。投げやりに身体を放りだした。ズボンに落ちた唾液も、いつの間にか溢れた涙も、全身に張り付く汗も、どれもが不快だった。しかしそれ以上に心地よい達成感で満たされた。
窓を見る。先ほどまで飲み込むような虚空に思えた宇宙には、ちゃんと星が見えた。光に邪魔されない分、地球よりも明瞭に見えた。
星を眺めながら、周りを見る。航宙機は流星群のように飛び交い、こちらに迫る様子はない。下を覗くが人工衛星も、こちらに迫ってくる様子はない。
しかし、一つ、迫ってくるものがあった。
エレベーターが、すぐそこまでやってきていた。
白川は安堵の息を漏らした。銅線に膜を巻き終わった。全身を使って、それを投げる。爆弾は一直線に虚空へ飛んでいく。空気も重力も無くてよかった。あとは統制部にこれを破壊してもらうように頼むだけでいい。
ポッドは三発目のレーザー砲を打ったようだ。一、二発目より大きく揺れた。砲の飛んだであろう先を見ると、航宙機が爆発していた。明らかに軌道を外れ、こちらに向かって来た航宙機を射抜いたようだ。
航宙部にも裏切り者がいたとは。青村のチームに裏切り者がいたと詰っておきながら、統制部とも距離の近い航宙部にも侵入を許してしまった。自分たちの不甲斐なさが身に染みた。しかし、それ以上の安堵と達成感が彼を埋め尽くした。今になって、体が震える。とても足に力を入れていられなくて、宙に浮かび膝を丸める。ワイヤーでポッドと繋がっているとはいえ、体全体を宙に投げるのは、ご法度だった。上司がいたらきっと馬鹿みたいに叱られるだろう。
七色に光るランプを傍目に浮かぶ星を見た。
満天の宇宙に自分の声が響いてくれたらいいのに。そう願った。自分が成し遂げたことの偉大さを、人類だけではなく、どこかにいるかもしれない地球外生命体にまで知らしめられたらいいのに。
成層圏で死んだ父はおそらく、星空というより地球の青さを見ながら死んだのだろう。夕暮れ空の中、首を吊った母には、真っ赤に焦げた空を美しいと思ったのだろうか。今の自分のように、空に投げ出されたのだろうか。命綱もなく。しかし今の自分は、ポッドに二分もあれば戻ることができる
両親に思いを馳せながら下を見る。
命綱の繋がる小さなポッドのすぐ奥に、巨大なエレベーターが見えた。
エレベーター内は歓声に包まれていた。首脳陣も、報道関係者も、身辺警護も全員が騒ぎ立てた。
迫ってくる航宙機を見えない何かが爆発させたのだ。そのあとに響く、
「エレベーターの防御装置が起動しました。破片はエレベーターに影響しないほど小さなものにまで分割されました」
という放送に、心底安心した。つい先ほどまで喉元に迫っていた死神の鎌が一掃されたのだ。全員が腹に渦巻くものを忘れ、抱き合い喜んだ。
歓声を上げる客らをエレベーター内の統制部の者は冷ややかに見ていた。違う、これは防御装置ではなく、白川と青村眺個人の功績だ。しかし彼らの名前を出すわけにはいかない。こうやって彼らの功績を自分たちが踏み潰すことに、テロリストの侵入を許したことに、自分たちの愚昧さに、悔しさを覚えこそすれ、喜びを表すことはできなかった。
加えて、彼らが喜べない理由の一つに、白川から連絡が未だだということがあった。爆弾らしき不審物があったという連絡はあったのに、爆弾の除去をしたという連絡が入らない。高度計は一九九〇〇キロメートルを指している。
もしも、万が一、まだ船外活動をしていれば、エレベーターに踏み潰されることは確実だ。白川が作業している直達目安灯はエレベーターが通るレール上にある。エレベーターは速度を落としたとはいえ、限りなく速い速度で上昇している。人間のような柔らかい物体を轢くことなど造作もない。連絡を忘れているだけ、異物の除去とテロリストの排除をあの小さなポッド内で喜んでいるだけ。そう自分たちに言い聞かせていた。しかし、背中の嫌な汗を止めることはできない。こういう予感ほどよく当たるのだと、何度も修羅場を潜り抜けた彼らは痛感していた。
白川の優秀さはよくわかっていた。戦闘訓練や筆記試験で彼は軽々と首位を独占した。だからこそ上司はこの人類史をかけたチャレンジを、彼に任せたのだ。確かに彼ほどの適任はいないだろう。
ふと、彼が統制部に入った理由を思い出した。初めはムーンライトに憧れていたからだなんだと言っていたが、酒に酔わせると本当のことを話してくれた。
曰く、ムーンライトが全てになってしまったから、と。父を殺して母を消沈させ自殺させたこれに縋るしかなかった、と。
彼の独白は命なんて物、ムーンライトのためならばいくらでも投げだせる、と言っているように聞こえた。
「死んでない、よな」
誰かのつぶやきに、彼ら全員が頷いた。
「起きろ!」
薄らと声が聞こえた。意識が浮上して、また闇へと消えようとする。意識を保ち続けられるほど、理性は強靭ではなかった。また深い眠りに落ちようとするのを、誰かが肩を揺さぶって制止した。
「いくな!」
顔がもげそうなほど激しく肩を揺すられた。しかし、どうにも瞼が開かない。上半身を起こされてやっと、目を開こうかという気になった。
光が目を刺す。乾いた目には刺激が強すぎる。じわりと涙が溢れた。
「何泣いてるんですか、青村さん」
しばらく、聞いてなかった声が聞こえる。とても、懐かしかった。
「そうか、そうか」
私はちゃんと彼を助けられたのか。
「私は君に対して、大人の責任を果たせた、みたいだ」
掠れた声でそう言うと、彼は黙って頷いて見せた。
何か言おうとしては咳き込む私の体をさすりながら、白川は大きな溜息を吐いた。
「青村さん、貴方、本当に死ぬところだったんですよ」
涙声を聴いて、自分が本当に死にそうだったのだと、他人事のように思った。無知は勇気をもたらしてくれるようだ。蛮勇ではあるが。
「俺なんか轢死してもよかったのに。エレベーターの錆になれるのなら、それこそ本望です」
「宇宙では酸化しない」
そこまで言って、咳が大量に出た。また背中をさすられる。介護とはこういう感じなのか。
「そういうことを言ってるんじゃないです。二人して死ぬところだったんですよ。ハッチを開けえるなんて正気の沙汰じゃない」
ぼやけていた記憶が、輪郭を取り戻す。
エレベーターの存在を認識した瞬間、素人にもわかった。おそらくこのままポッドごと静止していたら、死んでしまう。どうしようもなくなった私は、ポッドを加速させ、天井のハッチを開けた。外で作業する彼がポッドの中にすぐに戻れるように。開けた瞬間から荒々しい風がポッドから大量に抜けた。手で留めた風船の口を離すように、ポッド内から空気が抜けたのだろう。そして、おそらく空気が足りなくなって私は意識を失った。
覚えている限りの記憶を話すと白川は一瞬絶句し、首を勢い良く振った。
「空気が無くなる? そんなことどうでもいいんですよ! 問題は圧力です! 血が沸騰して肺が破裂してもおかしくないんですよ? 貴方が助かったのは、ポッドの圧力調整機能が過度に優秀だったのと、私が直ぐにハッチを閉めたからです!」
激高した白川は、勢いよく床を殴った。
「わかってます? 死ぬんですよ。死ぬんです。言ってたじゃないですか! 人は死ぬって。そんなことも忘れたんですか!」
「まぁまぁ、何はともあれ、助かったじゃないか」
わざと能天気に言うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……貴方はトロッコ問題で、体を張っても止める馬鹿なタイプですよね」
私は少し黙って、白川を見た。彼は迷いなく、トロッコのレバーを切り替え、一人の少年を殺す選択をするだろう。なぜなら、彼は、彼自身を守られた経験が少ないだろうから。彼の合理性は大変賢く危うかった。
険しい顔の表情筋を少しでも緩めたくて、私は人差し指を立てた。
「それはもう解決したはずだ」
「は?」
私は昔に見た、この問題の解決の定石を話す。
「前輪を過ぎた瞬間、レバーを切り替えるとトロッコは脱輪してどちらにも当たらない」
そういうと白川は一度呆気にとられた顔をした。そして腹を抱えて笑った。顔が赤くなって、涙が出るほど笑った。
「そんなことが言いたいんじゃないですよ」
ひとしきり笑って、白川は窓の外をみた。いつの間にか高度は十八万キロメートルを超えている。随分と気を失ってしまった。既に月と地球の中間地点に来た。
「科学という巨人は、どのくらいの大きさでしょうか」
白川が呟く。
「ランプには爆弾がついてたのか?」
「えぇ。このくらいの」
白川は手で四角を作る。二十センチのそれを見て言葉を続ける。
「それに躓くくらいだから……人間くらいじゃないか?」
白川は苦笑して頷いた。
「随分、頼りない巨人ですね」
「そのくらいの方が、親近感があるだろう?」
違いない、と白川は微笑んだ。
ふと地球を見ると、ちょうど太陽が地球の影に隠れようとしていた。
「日の入りだ」
そう呟いた瞬間、窓から入っていた光が消える。
宇宙で瞬く星がより一層、はっきりと見えた。星座に明るくないため、あれらが何の星なのかわからなかった。
ぼんやりと眺めていると、白川が右の窓を指さす。
「こっちが東なので、あれがアンドロメダですね」
「星座に詳しいんだな」
白川は少し悲しそうに笑った。
「父が、好きで。あとはこの塔を見上げてれば、星は自然と目に入るでしょう?」
軽く肩を竦めて答えた。白川は、ひとしきり星座を教えてくれた。
ふと、私を見て言う。
「ねぇ、青村さん。地球に戻ったら、飲みに行きましょうよ」
私は首を振る。
「私の故郷には『善は急げ』という言葉があってね。地球と言わず、月で飲もう」
彼は、酒を飲むにはまだ早そうな、少年の顔をした。
短編 うさぎ @kokko2323
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