第19話 揺らぐ信頼
「御社の技術には大変興味があるのですが……」
「黄巳商事さんとの関係もありまして。今のところは様子を見させていただきたいというのが、正直なところで」
テーブルの上に置かれた契約書は、まだ白紙のままだった。
「藤村さんたちと進めさせていただいた技術検証の結果は良い感触であるとお伺いしております。できれば早急に導入し、他の部品製造も技術継承を進めていきたいと」
「ええ、現場からの評価は非常に高いです。ですが……」
泰介さんは言葉を切った。その表情からは、板挟みの苦しさが滲み出ていた。
「……こんなこと、
言葉を切った泰介さんは居住まいを正した。会議室には、僕と泰介さんしかいない。
「それでも、黄巳商事が怖い。父が話してくれる限りではありますが、今まで黄巳商事とはよい取引を続けてきました。私が製作所に入ってから、一度としてこんな圧力を受けたことはありません。そんな黄巳商事が、我々のような地方の中小企業に圧力をかけてきたのです。まだ目にしていませんが、黄巳商事にも、技術継承を進めるためのサービスがあるそうです。九ヶ上さんたちの効果はわかっていますが、義理や人情でこの製作所を潰すわけにはいきません。我々も、従業員やその家族の生活を背負っています。申し訳ありませんが、今日のところはお引き取りください」
僕に向かって頭を下げ続ける泰介さんにかける言葉が見つからず、挨拶もそこそこに商談を終了せざるを得なかった。
会議室を出て、私は深いため息をついた。早矢巳の影響力は、想像以上に広範囲に及んでいた。さすが、三大総合商社の一角と評すべきだろうか。
「九ヶ上」
「大洋システムからも、契約を保留にしたいと」
それは僕たちの主要取引先の一つだ。彼らのシステム運用に必要な施設の 3D スキャンと分析、展開を一手に引き受けさせてもらっていたのだが、あれこれ理由をつけて新規契約を保留にしたいという。この一週間、似たような連絡が相次いでいた。
「
「開発チームと対応を協議中だと。何とか既存システムの保守だけでも契約してもらえないか、各社と交渉するための素材をまとめてくれている」
その時、スマートフォンが震えた。見覚えのある番号。心当たりはあったが、この展開の早さには驚かされる。
「九ヶ上です」
「お世話になっております。ベンチャーストリームの
聞き覚えのある投資ファンドだ。これまで何度か出資の打診があったが、経営の独立性を保つため、断り続けてきた。
「再三のご連絡となり、申し訳ありません。それくらい御社の技術には、大変興味を持っているのです。ぜひ一度、お時間を……」
会議開催をゴリ押ししようとする担当者をなんとかかわして電話を切った後、僕は再び深いため息をついた。状況は明らかだった。早矢巳は、僕たちの経営基盤を揺るがそうとしている。なぜなら、ベンチャーストリームの運営母体は黄巳商事だから。正確には、本体の黄巳商事ではなく、グループ会社によるコーポレート・ベンチャーキャピタルではある。だが、本体の意向が反映されないわけがない。
「九ヶ上、空泉さんから連絡が来てるぞ」
武良守の声に顔を上げると、そこには意外な報告が待っていた。
「文化芸術財団の理事会で、デジタルアート部門の予算が突如、審議されることになったと」
僕は思わず目を見開いた。展示会の会期中だが、予想よりも人出は多いと聞いている。いくつかの商談も進んでおり、佐江木さんや延条寺さんの作品も売却予約が締結しているそうだ。さっきの泰介さんとの打ち合わせでも、冒頭に展示会経由で商談が進んでおり、感謝していると言われたばかりだ。それなのに、なぜこのタイミングで。
「空泉さん自身も理事だったが、審議は寝耳に水だったとか」
答えるように頷きながら、僕は頭の中で状況を整理していた。取引先への圧力。投資ファンドからの接触。そして財団の内部工作。早矢巳の策略は、複数の方向から同時に仕掛けられていた。
再び、僕のスマートフォンが震えた。また別のベンチャーキャピタルかと思って着信を切ろうとしたが、表示された番号を見て急いで通話状態にする。
「九ヶ上さん」
電話の相手は空泉さんだった。電話越しでも、いつもの凛とした声の中にある僅かな疲れが見える。
「理事会の件、見ていただけましたか」
「ええ。ちょうど今見たところです」
空泉さんは小さく息を吐いた。
「おそらく、黄巳商事とつながりのある理事たちが動き始めたのだと思います」
その通りだろう。展示会での出来事の後、早矢巳は様々な手を使って私たちを追い詰めようとしている。
「ですが」
空泉さんの声が、強さを帯びる。
「ここで諦めるわけにはいきません。職人の方々の期待も、祖父の信頼も、私が裏切るわけにはいかないのです」
その言葉に、僕も背筋を伸ばした。
「空泉さん」
「はい」
「次の理事会、いつですか」
「臨時の理事会が、来週の木曜日に開催されます。場所は、空泉文化芸術財団の会議室です」
僕は小さく頷いた。
「技術で証明してみせましょう。僕たちは、ソフトウェアの技術者です。一介のプログラマーの力、とくとご覧にいれますよ」
武良守に身振り手振りで外を指すと、すぐに理解してくれて先に駐車場へと向かってくれた。
「九ヶ上さん……」
「一週間」
僕も駐車場に向かう。
「一週間で、誰もが認めざるを得ない確たる証拠を、成果を作り上げます」
外に出ると、すでに秋の陽が傾き始めていた。時間との戦いが、また一つ始まろうとしていた。
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