第13話 蠢く影

 空泉そらいずみ芸術文化財団の展示室に、夕暮れの光が差し込んでいた。


「この配置で、 来場者の動線は自然な流れになりそうですね」


 空泉さんの声が、静かな空間に響く。展示会まで残り二週間。準備は着々と進んでいた。


 僕は画面上の3Dレイアウトに最後の調整を加えながら頷いた。さまざまな身長の方が来場されることを考えて、展示室を3Dスキャンさせてもらい作成した3Dレイアウトだ。そこに藤村さんの研磨技術を可視化したデータと、佐江木さんの作品が織りなす空間を投影しているのだが、ようやく理想的な形を見せ始めている。


 その時、財団の職員が小走りで展示室に入ってきた。


「理事、申し訳ありません。矢野金属工業から連絡が」


 空泉さんは優雅に振り向く。


「展示会への参加を、見直したいとのことです」


 一瞬の静寂が、展示室を包んだ。矢野金属工業は、展示会の重要な参加企業の一つだ。伝統技術を持つ中堅企業として、このプロジェクトの象徴的な存在でもあった。


「理由は?」


 空泉さんの声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っている。


「社内での再検討が必要になったとのことですが……」


 職員の言葉が続く前に、別の職員が資料を手に展示室に入ってきた。


「理事、日進精工からも同様の連絡が」


 空泉さんの細い指が差し出された資料を受け取る。そのまま資料に目を走らせると、その瞳に僅かな陰りが宿った気がした。


「両社とも、黄巳おうみ商事と取引がある企業ですね」


 彼女の言葉に、私は画面から目を上げた。黄巳商事。亜里沙の婚約者が専務を務める総合商社だ。


 続く数時間、同様の連絡が断続的に入り続けた。表向きの理由は様々だが、共通するのは黄巳商事との取引関係の存在だ。プラントや大規模インフラを得意としているからといって、精密機器関係や部品関係の企業とつながりがないわけじゃない。だが、僕たちはそのことを軽視し、影響度を低く見てしまっていたのだ。


「徹底的ですね」


 夕闇が深まる展示室で、空泉さんがつぶやいた。


「直接的な妨害ではなく、取引関係を通じた間接的な圧力。これなら、表立った非難もできない」


 その分析は正確だった。黄巳商事は、ビジネス上の正当な判断という形を取っている。しかし、その影響は確実に展示会の根幹を揺るがしつつあった。


 空泉さんのスマートフォンが震える。画面に表示された名前に、彼女の表情が微かに曇る。


「父からです」


 空泉グループのCEOからの連絡。事態は、すでに家族をも巻き込み始めていた。


九ヶ上くがうえさん」


 彼女は私に向き直った。窓から差し込む最後の光に、彼女の顔が照らされている。僕と目が合った彼女は、深く頭を下げた。


「この度は、個人の感情を端とする諍いに巻き込んでしまい、申し訳ありません。お詫びと言えるかはわかりませんが、空泉グループ内の情報産業系企業を取りまとめている次兄に、TechFlow 社を売り込ませていただきました。次兄が興味を持っていましたので、近いうちに次兄側からご連絡させていただくことになると思います」


「……僕たちはお役御免、というわけですか」


 思いもよらぬ言葉に、喉の奥がキュッとしたような気がした。普段の僕では考えられないほど掠れた声が出る。クライアントの希望はわかるが、僕の中に言葉にできない思いが渦巻いていく。


 頭を上げた空泉さんは、軽く首を左右に振る。


「本来であれば展示会の終了まで……いえ、展示会の後も一緒に取り組ませていただきたいと思っておりました。ですが、思った以上に黄巳商事の、真治しんじさんの感情が強く現れているようです。黄巳商事は他の三大総合商社と比べると、情報産業や精密機器の分野を不得手としていますが、ご覧の通りの影響力を持っています」


 ゆるやかな動きで、彼女は僕に背を向けた。


「このプロジェクトは、単なる展示会ではありません。伝統とテクノロジーの共生、そして未来への可能性。これは、私たち空泉芸術文化財団が示すべき新しい価値なんです。どのような妨害工作があったとしても、展示会の開催を中止するわけにはまいりません。しかしながら TechFlow 社を、九ヶ上さんたちをこのまま巻き込み続けたくないのです」


 その声には、揺るぎない信念が宿っていた。だが、彼女の手は、硬く握りしめられている。それが、悔しさの現れであることもわかっている。


「ということは、僕たちにできることはまだあるってことですよね。でしたら、できることがなくなるまでご一緒させてください」


 僕はできる限りの笑顔を作り、一歩前に出た。今までやったことのないものに挑戦できる絶好の機会だ。今まで考えもしなかった技術を組み上げている実感がある。ここで取り組んでいる技術は、僕たちの今後のビジネスにも使えるものだ。


 そして何よりも、空泉 亜里沙さんの力になりたい。思いを持って取り組んでいることを、あろうことか婚約者に妨害されている状態なのだ。そんな状態の人を放り出せるわけないだろう。短い付き合いではあるが、彼女は凛々しく優雅に、そして自由に振る舞っているのが最も魅力的だと思う。


「……いいのですか。TechFlow 社自体にも、圧力がかかるかもしれませんよ」


「ええ、その覚悟はできています。それに、僕たちだってただやられるだけじゃ終われないですからね」


 僕の言葉に、彼女は静かに頷いた。


 展示室の窓の外で、冷たい雨が降り始めていた。晩秋の夜の気配が、静かに忍び寄っている。明日からは、きっとより厳しい戦いが始まる。


 それでも、僕たちは歩みを止めるわけにはいかない。

 この場所で見出した可能性を、誰にも否定させない。


 展示室に佇む空泉さんの姿が、決意と凛とした美しさを湛えていた。

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