第12話 暗雲
展示室に、藤村さんの研磨データが描く光の軌跡が浮かび上がる。
「この部分の動きは?」
「面白いですね」
「
空泉さんが展示室の中央へと歩み出る。ヒールの音が静かに響く中、彼女は優雅な手振りで空間を示した。
「改めまして、全体の流れから。入口から入っていただいた来場者は、まず伝統工芸の実物展示を目にします。その後、奥に進んでいくにつれ、徐々にデジタルに近づけていきます。そして、デジタルデータの可視化。最後にインタラクティブな体験展示へと。伝統からデジタルへの架け橋を、来場者自身に体感していただく流れです」
技術と芸術を繋ぐという私たちの試みが、ここで形になろうとしている。
最近知ったのだが、空泉さんは学芸員資格を取得されているそうだ。その話を聞いて学芸員資格を得る方法を調べたのだが、試験と審査に合格しなければならないとのこと。分野が違いすぎて試験の難易度はわからないが、審査に合格というのが大変だということは僕にもわかる。起業するときに融資を受けたのだが、審査を受けたあと結果を聞くまでそわそわしたものだ。試験と審査に合格し、学芸員資格を得た後も学び続ける姿に尊敬の念が絶えない。僕も、気持ちを新たに学びへと取り組むことができているので、空泉さんと一緒に仕事をすることができ、本当に感謝している。
「システム的な調整は、あとは細部の」
その時、展示室のドアが開いた。
「失礼します。九ヶ上」
「ちょっといいかな」
僕は空泉さんと佐江木さんに目礼し、展示室の外へ出た。
「忙しいところ、悪いな。この前電話で話したこと覚えているか?」
「この前って……もしかして、
「ああ。やっぱり黄巳商事が動いているみたいだ」
武良守の口調は慎重だった。
「具体的には?」
「展示会に参加予定の企業に、圧力をかけているという話が出ている」
水瀬が補足する。
「特に、
頭の中で状況を整理する。黄巳商事。三大総合商社の一角であり、特に繊維関係を得意としているらしい。その証拠に、グループには数多くの有名海外ブランドの日本代理店を抱えている。だが、黄巳商事の強みは繊維だけではない。他にも食料や住生活、金融といった生活消費関連ビジネスに強みを持っているとのこと。
だが、機械関係はプラントや大規模インフラなどの大型機械を中心に取り扱っている。そのためか、河羽田製作所が製造しているような精密機器は専門商社の後塵を拝している印象だ。河羽田製作所と取引している企業も、精密機器に関する企業が大半のはず。得意分野ではない業界の企業に圧力をかけることで、黄巳商事にどんなメリットがあるのだろうか。
「証拠は?」
「まだ噂レベルだ。でも、複数のルートから同じ話が上がっている。ただ、うちの営業メンバーが訪問した先や、他社の営業との雑談で出た話なだけなんだ。どこも話し手は当事者じゃない」
武良守の言葉に、水瀬が続けた。
「私の前の会社の知り合いからも、同じような話を聞いたわ。黄巳商事の意向で、会社としては展示会への来場を見送るよう社員に通達している企業が出始めているとか。ただ、こっちも当事者から聞いたわけではないから、信憑性という点では疑問符がつくわ」
二人の話を聞き、静かな怒りが込み上げてくる。起業をして以来、初めてと言ってもいいくらい純粋に技術者として取り組みたいと思い、参加した展示会のプロジェクト。それを、このような形で妨害されるというのか。
いや、まだ可能性の話でしかない。そもそも、黄巳商事とは関わりがなかった。僕たちの業界はあまり手を広げていないらしく、取引先や競合になったことがない。それに、いくら三大総合商社の一角とはいえ、空泉グループに喧嘩を売るような真似をすることはないはずだ。噂話として流れていく間に内容が変質してしまったんじゃないか。そんな一縷の望みを抱いたそのとき。
「九ヶ上さん」
後ろから空泉さんの声がした。いつの間に出てきていたのだろう。
「少し、お話しできますか。事情をご存知のようですので、お二人も同席をお願いします」
僕は武良守と水瀬に目で合図し、再び展示室へと戻った。夕闇が迫る展示室で、藤村さんのデータが描く光の軌跡だけが、静かに明滅を続けている。佐江木さんは席を外したようだ。
「すべて、聞こえていました」
空泉さんの声は、いつもの凛とした調子を保っていた。
「廊下で騒がしくしてしまって、申し訳ありません」
「いいえ」
彼女は静かに首を振った。
「これは私の問題でもあります。いえ、私と彼の問題なのです。あの日以来、彼は変わってしまいました。いえ、そもそも彼は、私のことなど見ていなかったのでしょう。それが表に見えた。ただ、それだけなのかもしれません」
空泉さんは僕たちに背を向け、ひとりごとのように言葉を紡いでいく。その儚げな雰囲気に飲まれてしまい、声を発することができない。僕だけでなく、武良守や水瀬も同じ様子だった。
「彼と出会うまで、私の周りには私の意見や考えを優先する方ばかりでした。空泉グループを束ねる会長の孫娘ですからね。当たり前と言われればそれまでなのですが。大人からも忖度をされることが多かったのですが、子ども心に正しいことではないと感じていたのです。そんな中、私におもねることなく、自分の意見を通そうとする彼の姿に惹かれていったことは事実です」
一度言葉を切った空泉さんは、ゆっくりとこちらを向く。
「私と彼の問題に巻き込んでしまったような形になり、大変申し訳ございません。九ヶ上さんたち TechFlow 社への影響は最小限となるよう尽力いたします」
深く頭を下げる彼女。そして頭を上げると、展示室の薄暗がりの中、空泉さんの瞳が決意に満ちて輝いている。
だが、決意に満ちた瞳をこちらに向ける彼女には申し訳ないのだが、伺いたいことができた。聞いておいたほうがいい、という心の声が聞こえるようだ。だが、こんなこと聞いていいのか、という思いもある。しかし、聞かなければ先に進めないこともまた事実だ。
僕は、逡巡する気持ちを抑えるように、意識してゆっくりと呼吸をする。そして、無理やり気持ちを落ち着けた僕は、意を決して口を開いた。
「……すみません。彼、とは?」
「え……?」
僕たちの間の空気が止まった。僕を見る空泉さんの顔は、鳩が豆鉄砲を食らったようだった。
「あ、いや、その……先ほどまで話していたのは、三大総合商社の一角である黄巳商事が圧力をかけているという噂についてでして。空泉さんが懇意にされている方の名前に聞こえてしまったようで、申し訳ありません」
ポカンとした顔をしていた空泉さんだったが、僕の説明を聞き終えると徐々に顔が赤くなってきた。僕が言葉を続けようとしたが、彼女は両手で顔を抑えるように隠した。僕は彼女の地雷を踏み抜いてしまったのかと思い、何も言えなかった。
光の軌跡が映し出されたままの展示室に静寂が満たされる。僕だけでなく、武良守も水瀬も、かける言葉が見つからないようだった。
しばらくして、空泉さんが絞り出すように声を発した。
「……私の婚約者は、黄巳商事の専務である
「……え?」
今度は僕が豆鉄砲を食らう番だった。まさかそんなつながりがあるとは。僕の後ろで、武良守と水瀬の二人も衝撃を受けたようだった。何かを囁き合っているが、僕は聞き取ることができない。
「……ですので、黄巳商事が妨害しているのは、私と彼の問題がきっかけです。ですが、個人の問題に多くの人を巻き込むのは、許されることではありません。今回の展示会プロジェクトは、技術と芸術の可能性を示すもの。誰かの感情で左右されていいはずがありません」
気持ちを立て直したのだろう。手をおろし、こちらを見た空泉さんの瞳には、再びの決意が満ちていた。彼女の言葉に、僕も頷いた。僕のほうは気持ちを立て直すのに少し時間がかかってしまったが。
「……ええ。一緒に乗り越えましょう」
言葉は短くなってしまったが、そこには確かな意味を込めた。技術者として、経営者として、そして––。
展示室の窓から、東京の夜景が見えていた。無数の光が、暗闇の中で煌めいている。僕たちのプロジェクトも、きっとあの光のように、誰かの心に届くはずだ。
それを、誰にも邪魔はさせない。
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