第2話 白金台への帰路
「白金台……と」
僕がナビの設定を終えると、
「東京への帰り道、そんなに時間かからなさそうですよ。渋滞も少なそうですけど、何かあればいつでも言ってくださいね」
緊張を和らげようとする彼の気遣いが、車内の空気を少しずつほぐしていく。後部座席では
「ご親切に、ありがとうございます」
凛とした声。それでいて、そこには確かな安堵の色が混ざっている。
東名高速に戻り、僕たちの車は東京へと走り出した。秋の夜が、窓の外に広がっていく。しばらくの間、車内は静かだった。それぞれが、この不思議な状況を受け入れようとしているかのように。
「改めまして」と武良守が声を上げる。
「さっきは名刺出しそびれちゃったんで。俺、
「
さすが営業畑の武良守だ。自己紹介から始めて、場の雰囲気を自然に作っていく。昔から人付き合いの上手な男だったが、この1年で更にその腕を上げている。
「
彼女の口調は依然として丁寧だったが、先ほどより幾分柔らかくなっていた。バックミラー越しに見える表情にも、わずかな緊張の緩和が見て取れる。
「仕事は……空泉芸術文化財団で理事を務めております」
その言葉に、僕は思わずバックミラー越しに彼女を見た。空泉財団と言えば、日本有数の芸術支援機関だ。名前を聞いたときにチラッと頭をよぎったが、本当に関係者だったとは。確かに、彼女の佇まいからすれば不思議ではない。しかし、その若さで理事とは驚きだ。
「芸術文化財団……」
水瀬が興味深そうに声を上げる。
「最近、デジタルアートの支援にも力を入れてるって聞きました。先月、六本木で開催された展示会、私、見に行ったんです」
「ああ、『Digital Horizon』展のことですね」
空泉さんの声が、明らかに明るくなる。
「実は私、あの展示会の企画から関わらせていただいて。伝統的な日本画と現代のデジタル技術を組み合わせるという試みだったんです」
「面白かったですよ!」
水瀬が身を乗り出す。
「特に、あの水墨画が、観客の動きに反応して変化していくインスタレーション。すごく印象的でした」
「ご覧いただけて、嬉しいです」
空泉さんの声に、確かな誇りが混ざる。
「実は私、デジタルアートには個人的にも興味があって。伝統的な芸術とテクノロジーの融合って、これからの大きな可能性を感じるんです」
「へぇ」
思わず声が出た。
「それ、面白いですね。具体的にはどんな……」
「賢一、技術者モード入っちゃったな」
武良守が笑いながら遮る。
「でも、今日の商談先でも、似たような話が出てたよな。職人の技をデジタル化する話」
「ああ」
僕は少し声を上げた。
「職人の技、ですか?」
空泉さんの声に、明確な興味が滲む。首都高に入り、街灯の明かりが車内を照らす。バックミラーに映る彼女の瞳が、知的な輝きを増していた。
「ええ。創業100年を超える町工場の職人さんたちは、自分は先輩の背中を見て仕事を覚え、背中を見せて後輩たちに教えてきた方ばかりなんだそうです。そのため、感覚的な部分が多く、マニュアル化の話が出るたびにたち消えになっているとか。職人さんたちが元気なうちはそれでもよかったそうです。ですが、職人さんたちも年齢を重ねて引退目前。後継者らしい後継者がほとんどいないという状況で、職人の技をどうやって残していくか。デジタルによる技術の継承というテーマに取り組んでいるんですよ」
「具体的にはどんな……」
今度は空泉さんが身を乗り出すように聞いてきた。その仕草には、先ほどまでの固さが微塵も感じられない。
「例えば、熟練工の動作を3Dスキャンで記録して」
僕は慎重に言葉を選ぶ。
「その中から、本質的な"コツ"とでも言うべきものを抽出する。それを機械学習で分析して、初心者でも理解しやすい形に変換していく」
「なるほど……」
空泉さんの声が、さらに興味を帯びていく。
「それって、芸術分野でも応用できそうですね」
「芸術分野、ですか?」
思わぬ言葉に僕はオウム返しになってしまう。
「不勉強で申し訳ないのですが、芸術は同じジャンルだとしても、個々で異なる技術をお持ちなので継承とは無縁だと思っていました」
「もちろん九ヶ上さんのおっしゃるように、余人をもっては代えがたい唯一無二の技術を持つ方もいらっしゃいます。ですが、すべての芸術が独自技術で成り立っているわけではありません」
彼女の声が、徐々に打ち解けたものになっているような気がする。
「例えば、日本画の伝統技法。筆の運び方一つとっても、言葉で説明するのが難しい"感覚"の部分が多くて」
「ああ、なるほど。そういうことでしたらわかります」
思わず相づちを打つ。
「今日お伺いした町工場さんでも、まさにその"感覚"の部分をどう残すかが課題で」
「それは職人さんの"目"ってことですか?」
水瀬が話に加わる。
「総務にいても、よく現場から上がってくる課題なんです。ベテランの経験則みたいなものを、どう若手に伝えていくか」
「そう、まさにその通りなんです」
空泉さんが水瀬の方に体を向ける。
「例えば、絵具の配合一つとっても。"これくらい"とか"こんな感じ"とか、暗黙知になっている部分が多くて」
「そういうことでしたら、うちのシステムで何とかできるかもしれません」
僕の言葉に、武良守が助手席で小さくうなずいた。《SmartBizFlow》は、まさにそういったデジタル変革のために作ったシステムだ。
「実は、町工場さんでも似たようなアプローチを提案してて」
僕は慎重に言葉を選ぶ。
「熟練工の"感覚"を、できるだけ客観的なデータに落とし込んで。でも、単なるデジタル化じゃなくて」
「その人らしさも残したまま、ですよね」
空泉さんの言葉に、僕は思わず目を見開いた。まさに、僕たちが目指していることを言い当てている。
「九ヶ上さんのところって、ベンチャー企業……でしたよね?」
彼女の問いかけに、武良守が嬉しそうに答える。
「はい。TechFlowって会社です。創業3年目なんですけど」
「あら、思ったよりも若い会社なんですね」
空泉さんの声が、さらに柔らかくなる。
「でも、そうやって新しいことに挑戦できるの、素敵だと思います」
「空泉さんも、デジタルアートの部門立ち上げとか、新しいことに挑戦してるんじゃないですか」
水瀬が自然な流れで話を広げる。
「ええ、まあ……」
少し照れたような表情を見せる。
「ただ、伝統を重んじる財団ですから。改革というのは、なかなか難しい部分も」
その言葉に、何か深い意味が込められているように感じた。街灯の明かりが車内に差し込むたび、彼女の表情が浮かび上がる。凛とした美しさの中に、どこか切なさのようなものが混ざっているように見えた。
「でも、伝統を守るためにも、新しい技術は必要ですよね」
僕の言葉に、バックミラー越しに彼女の目が合った。そこには、何か強い共感のようなものが宿っている。
「はい……まさにその通りです」
会話は自然と広がっていった。武良守が時折面白い話を挟み、水瀬が的確なコメントを加える。気がつけば、車内の空気は驚くほど和やかなものになっていた。
そうして白金台に近づくにつれ、僕は不思議な感覚に包まれていた。この偶然の出会いが、何か大きな可能性を秘めているような。
「あ、このあたりで大丈夫です」
高級住宅街の静かな街並みに入ったところで、空泉さんが声を上げた。しかし、その声には先ほどまでの和やかさとは異なる、何か固さが感じられた。
車を路肩に寄せ、エンジンを切る。街灯に照らされた石畳の歩道が、上品な雰囲気を醸し出している。
「本当に、今日は……」
言いかけた彼女の言葉を、水瀬が優しく遮った。
「私たちこそ、素敵なお話が聞けてよかったです。デジタルアートの展示会、また見に行きますね」
「ええ、是非」
空泉さんの表情が、少し明るくなる。
「次回は『Contemporary Vision』という企画展を準備していまして。12月の初めになりますが」
「行きたい!」
水瀬が声を上げる。
「その時は、九ヶ上と直人も誘うよ」
「ああ、僕も興味あります」
思わず身を乗り出して答えた。
「デジタル技術の応用って、色々と参考になりそうだし」
「技術者は話が専門的になりすぎるからな」
武良守が茶化すように笑う。
「俺が通訳しますよ」
その言葉に、車内に小さな笑いが広がった。
空泉さんが降りようとした時、水瀬が彼女の手をそっと握った。
「本当に大丈夫ですか?」
その問いかけに、一瞬の沈黙が流れる。
「はい……」
彼女は小さく頷いた。
「お貸しいただいた電話で、家族にも連絡を入れさせていただいていますので」
その時、フロントガラスの先に大きな門構えが目に入った。国内有数の名門、空泉家の邸宅だろう。歴史を感じさせる門構えと、現代的なセキュリティシステムが、奇妙な調和を保っている。
「では、失礼いたします」
深々と頭を下げる空泉さん。その凛とした佇まいは、最初に出会った時と同じだ。しかし、その内側に秘められた優しさや知性を、僕たちは確かに感じ取っていた。
「空泉さん」
思わず声をかけていた。彼女が振り返る。
「もし……もし何かありましたら」
僕は慎重に言葉を選ぶ。
「その、デジタル化のお話でも、何でも」
「ありがとうございます」
彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「その時は、ぜひ」
車を降りた空泉さんは、少し車から離れて足を止める。きっと僕たちを見送りたいんだろう。そう思った僕は、車を発進させる。バックミラーに映る彼女の姿が小さくなっていく。凛とした佇まいは変わらない。だが今は、そこに確かな温かさを感じ取ることができた。
「良かった」
水瀬の安堵の声が聞こえる。
「家に着くまで、ずっと心配だったから」
「だな」
武良守も同意を示す。
「でも、思いの外、話が合ったよな。特に賢一と」
「何だよ、それ」
思わず声が出る。
「だってさ」
武良守がにやりと笑う。
「久しぶりに見たよ。その技術者モード全開の顔」
「うるさいな」
苦笑いしながらハンドルを握り直す。確かに、思いがけない共通点を見出せた気がする。伝統とテクノロジー。一見相反するその二つを、彼女もまた、必死に結びつけようとしているのだろう。
秋の夜空に、星が瞬いていた。
どこか懐かしくて、でも新しい。そんな不思議な余韻が、車内に満ちていた。
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