真面目プログラマーと凛々しい令嬢

カユウ

第1話 SAでの出会い

 静岡での商談を終え、車のハンドルを握りながら、僕は深いため息をついた。高校時代からの親友で今は我が社の営業部長を務める武良守むらかみが、後部座席「お疲れ」と声をかけてくる。1年前に大手メーカーから引き抜いた彼の声には、今日の成功を心から喜ぶ温かみがあった。


「ありがとう。でも、ここからが本番だよな」


 レガシーシステムの刷新という難しい案件だ。河羽田かわた製作所が抱える暗黙知をどうデジタル化していくか。確かに僕たちの《SmartBizFlow》は技術的には申し分ない。プログラマー時代に培ったノウハウを全て注ぎ込んだシステムだ。だが、長年築き上げてきた職人の技をデータに落とし込むには、システムだけでなく、人の心も動かさなければならない。


「そろそろ休憩しない? お腹すいたんだけど」


 同じく後部座席から水瀬みなせの声が聞こえた。大学時代からの友人である彼女は、今や大手企業の総務部でバリバリと働いている。今朝、武良守と僕の商談が午前中で終わると聞いて、「静岡観光に連れてって」と車に同乗してきたのだ。


「そうだな。海老名で休もうか」


 東名高速は週末の夕方とは思えないほどスムーズに流れていた。秋晴れの空が徐々に夕暮れの色を帯び始める。充実した一日の終わりに相応しい景色だった。


「いや、でも今日の提案は本当に良かったよ」


 武良守が話を商談に戻す。彼の社交的な性格が、今日の成功を後押ししてくれたのは間違いない。


「お前のフォローがあったからだろ。最後の質疑応答なんて、完璧だったじゃないか」


「いやいや、それは賢一が下準備をしっかりしてくれてたからよ。あのシステムの概念図なんて、エンジニア以外にも理解できるんだから見事すぎるって」


 後ろで水瀬が小さく笑う。


「もう、いつもの掛け合いね。でも本当に分かりやすかったよ。ちらっと見た私でも理解できたもん」


 海老名SAに到着したのは午後5時過ぎ。駐車場には休日らしい賑わいがあったが、うまく空きスペースを見つけることができた。


「じゃあ、フードコートな」


 上着を車に置き、ワイシャツ姿のまま歩き出す。朝からスーツを着通していた身体が、少しずつ休日モードに切り替わっていくのを感じた。仕事モードから解放されて、やっと周りの空気が目に入ってくる。


 そこで僕は彼女を見かけた。


 フードコートまでの通路脇のベンチに、一人の女性が座っていた。淡いグレーのジャケットに膝丈のスカート姿。長い黒髪は丁寧に整えられ、背筋の伸びた佇まいには凛とした空気が漂う。


 しかし、何かが違和感を覚えさせた。


 プログラマーとして、そしてベンチャー企業の創業者として培った観察眼が、なんとなく感じた違和感の正体を論理的に分析していく。SAという場所柄、旅行者の姿は珍しくない。だが、彼女の身の回りには荷物らしきものが見当たらない。スマートフォンさえ持っていないように見える。それでいて、その佇まいは明らかに行き倒れのようなものとは違う。


「賢一、どうした?」


 武良守が声をかけてきた。高校時代からの親友だけに、僕の様子の変化を見逃さないようだ。


「ああ……いや、なんでもない」


 僕は首を振り、フードコートへと足を向けた。休日の買い出しや遊びに来て、トイレに行っている同乗者を待っているというのが現実的なところか。余計な詮索は無用だろう。


 フードコート内は予想通りの混雑だった。武良守が席を確保し、僕と水瀬が食事を運ぶ手筈を整える。休日のSAでよくある光景が、いつもと変わらず流れていく。


「でも本当に今日はよかったね」


 食事をしながら、水瀬が話を振る。


「私も総務で色々な提案書見てるけど、あそこまでしっかりしたのめずらしいよ」


 水瀬の言葉を皮切りに、あの提案書を作るのにどれだけ大変だったのかとか、提案書は絶賛されるけど契約に行きつかないとか、武良守の口から苦労話がこぼれ出てくる。話を盛りに盛っている武良守と、それをニコニコしながら聞きながらときどき茶々を入れる水瀬。そりゃ武良守が水瀬に惹かれるのも当たり前だよな、と友人カップルのキューピットになれた大学時代の自分を誇らしく思う。


 だが、そんな和やかな状況も、食事を終えて車に戻ろうとした時に一変した。


 フードコートを出て駐車場に向かう途中、僕は再び彼女の姿を目にした。同じベンチ、同じ姿勢で座っている。秋の夕暮れが深まり、肌寒さが増してきているというのに。


「あの人、さっきからずっとあそこにいるね」


 水瀬が小声で呟く。彼女も違和感を感じていたのだろう。水瀬の声に、武良守が小さく頷いた。


 僕たちは車のそばで足を止めた。武良守が状況を察したように口を開く。


「もしかして、何かあったんじゃないか?」


 確かにその可能性は高い。しかし、見ず知らずの人に声をかけるのは簡単ではない。相手は明らかに育ちの良さそうな女性だ。余計なお世話だと思われるかもしれない。


 だが。


「あの、さ……私が声かけてみようか?」


 水瀬の提案に、私と武良守は顔を見合わせた。確かに、同性である彼女なら警戒されにくいだろう。それに、水瀬は人に歩み寄るのが上手だった。しかも、大手企業の総務部で培った対人スキルも相待って、誰とでもにこやかに会話ができるのではないかと思えるほどだ。


「悪いけど、頼めるか?」


 僕の返事を待っていたかのように、水瀬は颯爽と歩き出した。僕たちはそれを見守りながら、車に寄りかかって待つことにした。


 夕暮れの空が赤みを帯び、SAの照明が一斉に点灯し始める。


「やっぱり何かあったみたいだな」


 僕は女性に近づいていく人がいることを願って駐車場を見回していたが、僕の願いはむなしく消えたようだ。武良守の言葉に顔をベンチのほうへ向ける。水瀬が女性と言葉を交わしているのが見えた。距離があるため会話の内容は聞こえないが、深刻な様子が伝わってくる。


 やがて水瀬が戻ってきた。普段は冷静な彼女の表情に、めずらしい困惑の色が浮かんでいる。


「ちょっと、大変なことになってるみたい」


「あー、それなら僕らも彼女から聞いたほうがいいかな?」


 僕の問いかけに、水瀬は一瞬ためらったように見えた。


「うん……その方が良さそう。私から説明するより」


 その言葉に促されるように、僕たちは先ほどの女性の元へと向かった。近づくにつれ、彼女の座り姿がより鮮明に見えてくる。確かな教養と品格を感じさせる佇まい。それでいて、どこか守るべきものを感じさせる。


「失礼します」


 私が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。澄んだ瞳に、一瞬の警戒の色が浮かぶ。だが、水瀬が傍らにいることで、その緊張は少しずつ解けていくように見えた。


「先ほどは……ご親切にありがとうございました」


 凛とした声音。それでいて、かすかに震えているのが分かった。


「二度手間をおかけして申し訳ないのですが、お力になれることがあれば」と僕が言葉を続けると、彼女は一瞬だけ俯いた。何かを決意するように見える。


「実は……」


 彼女の名は空泉そらいずみ 亜里沙ありさというそうだ。午後、浜松の美術館での用事を済ませた帰り道。同行していた婚約者と言い争いになり、このSAに置き去りにされたのだという。


「携帯も、財布も、すべて車の中で……」


 その言葉に、僕たち三人は思わず顔を見合わせた。SAに婚約者の女性を置き去りにするなど、あまりに非道な仕打ちだ。しかも、これから寒くなる夜に。迎えに来るなり迎えを寄越すなりにしても、このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。


「東京までお送りしましょうか?」


 武良守が率直に提案する。しかし、空泉さんは静かに首を横に振った。


「ご親切に感謝いたします。でも……」


 見ず知らずの人の車に乗ることへの不安。それは当然の反応だろう。


「あの、先ほどはお伝えしなかったのですが、私、空泉グループの子会社の総務部で働いています」


 カバンをガサゴソと漁っていた水瀬が、一歩前に出る。


「名刺をお見せできます。会社にも確認の連絡をしていただいて構いません。土曜日ですが、今日は休日出勤している人がいたはずです」


 空泉さんは水瀬の差し出した名刺をそっと受け取った。カバンを漁っていたのは、自分の名刺を探していたのか。街灯の明かりに照らされた名刺を、空泉さんはじっと見つめる。


「僕からも。といっても、小さなベンチャー企業の者ですが。あと、彼女の会社に確認の連絡をするなら、こちらもどうぞ」


 僕も自分の名刺を取り出した。TechFlowのCEOとしての肩書きが、些細な安心材料になればと思って。合わせて、電話アプリを立ち上げた状態で個人用のスマートフォンを彼女に差し出す。


「IT企業の……」


 空泉さんの表情が、わずかに和らぐ。


「実は祖父が、デジタル技術に興味を持っていて」


 話を続けるうちに、彼女の緊張は徐々にほぐれていった。水瀬と僕の名刺。そして何より、他愛もない会話を重ねることで生まれる信頼感。


「ご自宅……は不安でしょうから、ご自宅近くまで、確実にお送りします」


 僕の言葉に、空泉さんは深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。ご厚意に甘えさせていただけましたら……」


 その姿に、凛とした美しさと共に、どこか切なさも感じられた。まるで、誰かに強いられた殻を、少しずつ解いていくかのように。


「では、車までご案内します」


 私たちが車に向かおうとした時、空泉さんが小さくつまずいた。長時間同じ姿勢で座っていたせいだろう。咄嗟に手を差し伸べる。彼女はそれを遠慮がちに、しかし確かに掴んだ。


「大丈夫ですか?」


「はい……ありがとうございます」


 その一瞬の接触で、彼女の手の冷たさを感じた。秋の夕暮れの寒さが、いつの間にかこれほどまでに。


 車に乗り込む際、武良守が助手席に座り、空泉さんが水瀬の隣に座れるよう気を配った。小さな気遣いだが、それが彼女の緊張をさらに和らげたように見えた。


「ご住所か、最寄駅を教えてもらえますか?」


 僕がナビの設定をしようとした時、空泉は少し躊躇したように見えた。


「白金台の……」


 その高級住宅街の名前に、僕たちは誰も驚かなかった。彼女の佇まいからすれば、むしろ自然な感じがした。ただ、そこで何か大きなものの片鱗を感じ取ったような気がしたのは、きっと気のせいではない。


 エンジンをかけ、ハンドルを握る。バックミラーに映る彼女の顔が、街灯に照らされてほのかに浮かび上がる。


 この出会いが何をもたらすのか。その答えはまだ見えない。


 だが、確かなことが一つだけあった。今この瞬間、僕たちは正しい選択をしたのだと。


 秋の夜が、静かに深まっていった。

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2024年12月5日 18:00 毎日 18:00

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