episode 4 一人の孤独な涙

 土足でずんずん突き進む天使に離されて靴を脱いでいると、廊下に現れた霊の私が病的に白い笑顔を見せた。彼女の視線は手前の天使だけにそそがれており、やっぱり私のことは無視かあとよくわからない落胆をしたとき、天使が右にある階段の先を見上げて神妙な面持ちで振り返った。暗いから瞳孔が丸い。

『二階でお亡くなりになられたのではないでしょうか』

「私――、じゃない霊が?」

 どうしてわかったのと訊きかけて自分を止める、きっと天使だから気づけたのだろう。そして思わず階段に足を進めそうになった私を今度は天使が止めた。

『友紀様はご覧にならないほうがよろしいですね、おそらく……』

 私は背すじがひやりとして視線を逃がし、ふと目の前のパジャマ姿が昨日自分が死のうとしたときと同じだと思い出す。もし私が昨日自殺していれば、このパジャマは死体を包んで階段に浮かんでいた――まあ、一日そのままってことはないのだが。今日の成功したパジャマに生死の境を越えた痕跡が見当たらないのは、単に霊だからなのか。

 天使が話を続ける。

『友紀様は確かに昨日から時間を飛んでいらっしゃったようですね。今この家に入ったために、私も天使でございますから、状況への理解が大幅に進みました』

「どう……いう状況なの? 教えて!」

 小声にする必要もなくなった家の中で私は膝の力が抜け、背を向ける天使の腰の辺りにすがりついた。天使は本当に冷たかった。

『生きている友紀様、その前に死んだ友紀様の霊をあの世にお連れさせてください。それがすみましたら必ず助けに参ります』

「――本当に? 必ず?」

 いつの間にか口調の変わった天使の声がかすかに紫がかって聞こえ、腕をはずせない私にその深まりゆく透明感がぞくぞく伝わってくる。天使の存在は今や神々しく、私は歯を食いしばって腕を離した。

 やがて鏡に映ったような霊が静かに近づき、向かい合う天使とともに手を伸ばす。

「や……っ、え?」

 目の前の〝二人〟が重なると、私の桜色のパジャマを着た霊は真っ白な布を羽織って透き通る天使とともに蒼い光に包まれ、

 うわあああ、

 消えた――。

 早乙女家の暗い廊下に残された私は冷たい床から腕を引き上げ、後ろに通学鞄を見つけてため息をついた。家の中で死ぬときに持つはずのない鞄を手に靴まで履いた私、着替えてセーラー服にコート姿だから昨日は自らの意志で死ぬのをやめ、飛ばされるまでに時間もあったに違いない。

 それから一日が経ち、天使が連れていった私の霊は自分の部屋で命を捨てた。しかしあの世に行ったのは霊だけで、天使に止められた二階に行けば私の身体が死んでいることになる。想像もしたくない死の臭いを感じないからといっていつ死んだか判断できないにしても、天使が現れたのはついさっき。まだ死んだばかりだと思いたかった。

 私は最初に死のうとしてから丸一日生きた。

「違う。これから生きるんだ、私が」

 記憶が消えた〝死のうとしてから着替えて一日飛ばされるまで〟が長すぎると残りが減っていくけれど、とにかく今間違った時間にいるこの私は何らかの方法で元の時の流れに戻り、再び今を迎えて死ぬんだ。

 天使はここを去る前に『必ず助けに参ります』と言った。必ず助けてくれる、いくら半人前でもあの天使を私は信じる。だって死んだ私を迎えにきてくれた天使だから、この私が死ねば迎えにきてくれる天使だから。

 それでも不安はなくならないし、そもそも一日後に間違いなく死ぬことを私は受け入れているのか、そう思ったらどんどん怖くなってきた。身体が震えてる、生きている証拠。でも生き続けられるわけではなく……ああ鳩がぼんやり鳴いている、小さいころにつつかれた嫌な思い出が――、

 膝を抱えて一時間も経ったと思ったのに二十分だった午後、私はぬれた頬にふれて自分が涙を流していたことを知った。

「どうして? どうして泣くの?」

 腕でぬぐう、死にたくないから?

 瞬間、階段から私の鼻に恐ろしい死の臭いが降りてきたような気がした。私は手で必死に風を起こし、顔の前のよどんだ空気を飛ばす。すると、

『友紀様、大丈夫でございましたか』

 天使が戻ってきてくれた!

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