賤ケ岳血戦 2:後悔、先に立たず

 新潟での大妖出現の報が大阪へ届く日よりさかのぼること二日。

 五十嵐いがらし家の蔵を作り変えたあやかし・退魔師用の座敷牢に囚われた青年がいた。

 名は葛道かずらみち義直よしただ、渦中の人物である。

 囚われの身と言えど、牢の中での自由は与えられ衣食の不安も無い。

 しかしそれは青年の心をなんら慰めるものではなかった。

 梅田の一件がどう決着したかさえ、義直には知らされていなかったからである。

 しかしもし人口二百万を超える都市の中央が壊滅したなら、さすがに他管区のものでも安穏とはしていられまい。

 つまり従兄は健在か、少なくとも大妖は討ち果たしている。

 こんなことになったのは自身も動転していたところに、半狂乱で新潟への同行を求める母を落ち着かせるために一度従ったのがまずかった。

 まさか到着するなりこんなところに閉じ込められようとは。

 ――この状況、間違いなく直志なおしの怒りに触れている。

 時がたてばたつほど弁明はいっそう困難になるだろう。

 なにより、美冬みふゆがどうなったかを知らねばならなかった。

 食事のときを含めて日に六度は様子を見に来る母をつかまえて、なんとかそれを理解してもらおうと義直は訴える。

「母さん、お願いだ。ここから出してください。今ならまだ間に合うかもしれない――」

「またそんな聞きわけのないことを――これはあなたのためなのです、義直さん」

「今戻らねば、それこそオレに葛道での未来はありません」

 あるいはとっくに遅いのかもしれない。

 だがそれでもこんなところにい続けるよりはマシだ。

「大丈夫です、あなたは佳哉よしやさんと私の息子なんですから。できないことなどなにもありません。ただ今は少し、時期が悪いだけ」

「母さん……」

 今までも母の言葉に疑問を覚えたことがなかったわけではない。

 それでもおおむねのところでは同意し、信じてきた。

 その期待に応えようと努力してきた。

 だが、今となってみればわかる。

 彼女の言葉は前向きなのではない、意志が強いわけでもない。

 これはただ現実を、あやかしを、退魔師という生き物を理解していないがゆえに出てくる夢想家のたわごとなのだと。

「――悔しいですがオレと直志の差は、一朝一夕には埋まりません。今の葛道には、間違いなく奴の力が必要です」

 それでも、越えられないとは認められなかった。

 歪んだ誇りだけではない、一人の男の意地として。

「父と姉の口添えがあればおそらく直志もオレの命までは奪わないでしょう、そうすればわずかでも再起の目は残ります」

 いや、思い返せばそもそも脅威として認識されていたものか。

 自分が相手にとってどうでも良い存在だと思われているかもしれない、そんな想像は自尊心に傷をつける。

 けれど、だからこそ生き残れる目も出てくるのなら今は甘んじてそれを受け入れよう。

 そうでなくては、身を挺して自分を助けた娘に合わせる顔がない。

「ここに閉じこめられていても何も変わらない、オレを大阪に帰してください!」

 真摯しんしなその言葉を、しかし母は受け止めてはくれなかった。

 眉根を寄せ、まるきり聞き分けの悪い子供を見る表情でため息をつく。

「かわいそうに、義直さん。よほど怖い思いをしたのね、まだ冷静じゃないのでしょう」

「――――母さん」

 それは二級退魔師に、いや成人した男子に向ける言葉ではなかった。

 だが悪いことに一端の事実を捕らえている、たしかに顕現した大妖を前に義直は恐怖した。

 それがゆえに何も知らぬ母の侮辱でしかない言葉に反論できない。

 焦燥が、絶望がじわじわと義直の心を染めていく。

「間違えてはいけません、命までは奪わないなんてとんでもない。葛道直志、あの男は人ではなく蛇です。こころのない、冷たい生き物」

 瑞穂は義理の甥への嫌悪を隠しもせずに言うと懐へ手を入れた。

「だから平気で、こんなものを送り付けてくる」

「それは――?」

 母が取り出した包みを開くと、片側を白い紐で束ねられた黒い何かが見える。

 格子越しに差し出されたそれを受け取ると、艶のある美しい糸に思えたそれは人の髪だった。

 長く手入れされた、恐らくは女の髪。

「可哀想なことをしました。こんなことになるなら、後にあの子も連れ出せるよう手配しておけば……」

「まさか」

 まさか、まさか、まさか――

 音が遠い、世界が回る、吐き気が喉まで競りあがってきたのを何とかこらえた。

『義直さま』

 耳鳴りの中、自らが見捨てて逃げた娘の声が聞こえた気がした。

 それからも瑞穂は何事かを言い募っていたが、それが義直の耳に届くことはなかった。


 ――ふと牢の上部にある明り取りに、光が見えなくなっていることで義直は夜になったことを知った。

 夕食が運ばれてきたことにさえ気づかなかったらしく、明かりのついていない座敷牢の中にほのかに食べ物の匂いが漂っている。

 腹は減っていたが、その事実さえも今の義直には煩わしくて仕方なかった。

「なぜ――」

 胸中を占める言葉を音にして口から吐き出す。

 思考はその先に進むことをやめていた。

 なぜ美冬が死ななければならない? そもそもこれは本当に彼女の髪なのだろうか? 母が自分をだます理由はある、従兄の脅威を過大に訴え、帰阪を諦めさせるためだ。だが本当に美冬の遺髪である可能性がないかといえばそれも言い切れない。ならばこれを用意したのは直志か、母のどちらであるか。その際に手を下していないと言い切れるのか? 従兄は非情だ、だが同時に自分は頭を下げ彼も約束を言葉にした。男と男の約束である。しかしそれを裏切り自分はここにいる、ならば遺髪を当てつけがわりに送ってきた可能性はあるか――?

 わからない、どれほど考えようとも情報は断片的で、今の義直にそれ以上を知る術もなかった。

 どうどうと巡る内向きの思考はどこまでも答えを、正解を求める。

 どれほど歪で不自然であろうとも納得のいく理由を。

 であればそう、すべては――

「――オレが、弱いからか」

 常の義直であれば至らなかったであろう結論、そこへたどり着く。

 力さえあれば、従兄に対抗しようと功を焦ることも無かった、ここでみすみす虜囚の憂き目にあうことも、なによりも美冬に守られることなどなかったのに!

「……あああぁァァ――――!!!」

 向かう先のない怒りと焦燥に駆られ、義直は何度となく牢に頭を打ち付けた。

 額の皮膚が裂け、ぬるりとした感触が顔を伝っていく。

 けれどその程度では男の腕よりも太い木材で組まれた格子はこゆるぎもしない。

「あぁ、ぁぁぁぁ…………!」

 やがて動きを止めた義直は、格子に寄りかかり意味のないうめき声をあげながら床へ崩れ落ちた。

 獣の声にも似た嘆きが、暗い牢の中でしばし木霊する。

「――お労しや、義直殿」

 そこへいるはずのない二人目の声が響いた。

「!?」

 声のした方へ向き直ると闇になれた目が、格子の向こうに黒色の輪郭をとらえる。

 いつの間に現れたものか、それはもう遥か昔に思える日に葛道家別邸に忍び込んできた黒づくめと同じ人物と見えた。

「貴様は――……ッ」

 よく自分の前に顔を見せられたものだ、そう言おうとして義直はそれをすんでで飲みこんだ。

 梅田で起こることすべてを事前に説明されたわけではない。

 だが直志に比肩しようと願えば彼と同様の貢献と戦果を求められるのは当然のことと言えばそうだ。

 大妖に敗れたのは義直自身の事情、力不足に過ぎない。

「オレの失敗を、笑いに来たか」

 それは少し前の義直ならば決して口にしなかった卑屈な言葉だった。

滅相めっそうも無いことでございます。確かに、貴家の代行殿を抑える目が無くなったことは主もいささか残念に思ってはおりますが」

「主か」

 ふとそれで色んなことに得心が言った。

 主を持つものの働きは、たとえそれが結果として他者の益になることがあろうとも、基本的に主のため以外ではありえない。

 なんのことはなく自分は体よく利用されただけだった、それも失敗すればいささか残念・・・・・・に思う程度の企みに。

 よくもまぁそれで相手を見下し、利用できるつもりでいたものだった。

「しかし耳に入ってしまいましたが……力をお望みですか、義直殿」

「だとしたらなんだ。くれてやるとでも?」

「いいえ」

 捨て鉢な気持ちで問えば即座に否定が返ってきた。

 自嘲が音となって義直の口を出ていく。

「くだらん。お前は嬲るためにわざわざ新潟まで来たのか、暇な奴だ」

「私はただ、身の内のそれを引き出してさしあげることしかできませぬ」

「――なに?」

「あなたは葛道の直系男子、お気づきにならぬだけで素質は十分にお持ちだ。必要だったのはきっかけ・・・・だけ」

 なにを馬鹿な。

 母と同じ類の、何の根拠もない妄言だ。

 今までそう思いながらそうではないと思い知らされた事実。

 自分とアイツは違う。違うのだ。

 それをまざまざと見せつけられてどうして、今さらそんな言葉に酔えるだろう?

「かつての貴方は満たされていた。家柄、容姿、才、そして家族の愛――しかし、人とはそれだけではない。欠けたるからこそ得られるものもございます。ご承知の通り、貴方の従兄殿とてそうだ」

 利用されていたと、そう気づいたはずの義直はしかし気づけば再び黒づくめの言葉に耳を貸していた。

「前にもお伝えした通り、貴家を割るつもりはありませぬ。だが代行殿は苛烈な方だ、弱き者の言葉に貸す耳はお持ちでない――そう、問いただすにも力が必要でしょう――」

「あ、あぁ……」

 それが持つ力は、甘美さは、まるでその欠けたるなにかの間にすっと入り込んでくるようだった。

「さぁ、お目覚めください。せきりゅう・・・・・の子、雷神の直系――龍と鬼の末裔よ」

 いつの間にか牢の内にいた黒ずくめの手が、自らに伸びてくるのをよけようともせずただぼんやりと義直は見つめる。

 ひやりとした感触が額に触れた途端、、ずぐんと背骨が痛みそのものに置き換わったような強烈な刺激が身中を焼いた。

「あぁぁ――――――――!?」

 産声にも似た、再誕の咆哮が夜の静寂に響きわたる。

「素晴らしい、これほどの妖気は今世では中々感じられない……見込んだ通り、やはりあなたは才がおありだ、義直殿」

 黒ずくめの楽し気な声はそれにかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

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