葛道赤穂の帰還 結:我が暮らし楽にならず

「――ほなまた来るわ。約束のメシもまだやし、次には良うなっとけよ」

「ええ、そっちもあんま無茶しないでよぉ」

「そらぁ成り行き次第やな」

 直志なおしと彼の見送りのために杏奈あんなが部屋を出ていってからしばし、神部かんべ山桜桃ゆすらは自身が最も信頼する存在に視線を向ける。

 表情には険しいものが混じっていた。

「じい、話は聞いてたのよね?」

「はい。坊ちゃま」

乳母おんば日傘ひがさ――そう言ったわよね、アイツ」

「は、あまり直志様らしくはない言葉選びでございました」

 義務教育しか受けていない、くわえてそれ以降も人生のほぼ全ての時間を退魔師として費やしてきた直志は名家の生まれであっても教養にはやや欠ける。

 今までは語彙ごい詞藻しそうにそれが現れてきた。

「ナオは地頭は悪くない。本人の言う通りなにか心変わりがあったなら、そこまで不自然でもないけど。どう思う?」

「さて読書に目覚められたとも聞きませんが……少し話は逸れますが、梅田にお一人で向かわれなかったのも意外といえば意外でありました」

「――そうね」

 単なる自信過剰ではない、だが簡単に他人を頼れない一面が友人にはあった。

 梅田に大妖出現の報を聞いた山桜桃はまず軽挙を慎むよう連絡を送ったくらいだ。

 その解決に一級の壬生みぶ唯月いつきはともかく、紫雲しうんすずりまでを伴ったのはにわかには信じがたい異変・・だったのである。

「アイツはあやかしさえ倒せば、家の名前さえ守れればそれでいいって感じだったわ。自分のことはどうでもいいみたいに」

 それが今では元々近しかったとはいえ紫雲家にはっきりと協同する姿勢を見せ、その長女を実質的な弟子としている。

 おそらくは将来的には彼女を妻として迎え、両家の結束を揺るぎないものとする気だろう。

 そのほか、阪内の他家への働きかけも以前より積極的になっている――スパルタ方式は変わらないようだが。

 それは全て大阪の、ひいては関西の安定につながるもので、八家の主家筋の振る舞いとして理にかなう。

 彼自身にとっても悪いことではない。

 けれど――

「どうにも、らしくない気がするのよね」

「とはいえ報告を読む限りどちらの大妖も、精神的な干渉をしてくる類のものではなかったかと」

「……」

「くわえてあの方の覚悟に疑いは持ちようがありません。なにか心境の変化があったとして、今のところ歓迎すべきものと思われますが」

「ん~、それもそう、なのよねえ」

 同じ関西八家に生まれた山桜桃でも、仮に自身がもっと頑健だったとして彼ほど全てを捧げられたかと問われれば首を横に振らざるをえなかった。

 葛道かずらみち直志は関西最強の名を得るまでに、そしてその後も退魔師の使命を果たすために他の者よりも多くの時間と労力を捧げてきた存在でもあるのだ。

 その熱意の分だけ、悪評と敵を作りもしたが――

「なんでもいいわ、思いつく可能性は?」

「人が変わる契機と言えばやはり恋人や子供でしょうが――弟子を取られたのも似た契機になるかもしれません」

「ふぅん?」

 なるほど、今の路線の第一歩として紫雲家の長女を弟子にしたのではなく、彼女を弟子にしたことで舵を切ることになった、因果が逆というわけだ。

 師には実力だけではなくある種の見栄も必要だろう、そのあたりの事情で教養を求めたか。

 特に紫雲すずりは少し前まである意味で直志以上の問題児でもあったわけだし。

 だがそれも確信と言えるようなものではない。

「まぁ理屈と膏薬こうやくはどこへでも付くものね――いいわ。どのみち杏奈の試し・・が本命。ナオのことはまた何かあれば考えましょ」

「は。ところで坊ちゃま、お体の具合は本当によろしいのですか」

「ちょっとぉ、じいまでやめてよねえ。なんでもないったら」

 わずらわしそうに手を振って、山桜桃は窓の外へ視線を移す。

「左様でございますか、失礼いたしました」

 しばらく待っても主の意思が変わらないのを確かめ、従者はうやうやしく頭を下げた。

「少し話し疲れたわぁ。一人にさせて、ゆっくり休みたいの」

「承知いたしました」

 ひらひらと手を振る山桜桃にうながされ、石動以下家人たちは部屋を出た。

 静かにドアが閉じると、部屋は途端に静寂に包まれる。

「――――」

 一人になった部屋で窓の向こうを眺めつつ山桜桃は深くため息を吐いた。


 §


 兵庫から大阪へ向かう帰りの電車で直志は腕を組み思考に沈んでいた。

 揺れる車内でつり革も持たずにまっすぐに立つ長身の青年は、和服の上にインバネスコートという姿もあってかなり視線を集めていたが、当人はそれを意にも介していなかった。

 ――なーんや隠し事しとる雰囲気やったなあ、アイツ。

 神部山桜桃は知恵者と広く知られている。

 なにかと比較されがちな同年代の葛道の代行と比べて、理知的で冷静――その分析は大きく外れているわけではない。

 だがそのために、情動の面においても彼が直志とは対極にあるという事実が見落とされがちだった。

 すなわち非情は直志の、情は山桜桃の領分であり、それゆえに理知がその鋭さを失うときがあるという事実が。

 直志当人は、友人の情の深さは短所であり同時に美点でもあると思っていた。

 むしろそういう人間でなければ付き合ってこられなかっただろう。

 だが、だからこそこの場合は気がかりだった。

 ――キツネは八尾言うとったか。

 妖狐もまたあやかしの中で知恵者の代名詞。

 ただくず葉狐はきつねの例を挙げるまでも無く、その全てが人に仇をなす存在ではない。

 しかし封じ込めに成功してなお山桜桃に干渉してきた事実は無視できなかった。

 一般に、妖狐は年齢を重ねただけその力と尾の数を増すものである。

 八尾ともなればその生は百年や二百年では下るまい。

 それほどの年月を経たあやかしであれば、人の心の間隙につけこむことはたやすいだろう。

 呪いか、あるいは言葉か。

 いかに山桜桃が病弱とはいえこれほど尾を引くのは珍しい、やはり注視しておくべきだろう――考えすぎなら、それでいい。

 またそれ以外にも、友人は頭を悩ませる問題を抱えていた。

 由緒正しい社家である神部家は長子相続が原則だが、現当主である山桜桃の伯父は甘い男だった。

 妹夫婦の忘れ形見である甥の嗜好を理解はせぬものの無理に矯正しようともせず、自らの息子たちと同様に厚く遇したのである。

 山桜桃がどれほどわきまえた振る舞いをしても、その才と伯父の態度が彼こそが次の神部家当主ではと周囲と従兄弟たちに疑いの種をまく結果になっていた。

「ありがたいけど困った伯父様」と苦笑いする友人を思い出す。

 しかしことは同じ八家はっけの継承問題。

 部外者がおいそれと口を挟めるものではなく、くわえて「大阪のごんたわんぱく」との付き合いは、甥に甘い当主が唯一苦言を呈するところでもある。

 ごんたと名指しされた当人としてはなかなか動きづらい。

 ――さぁて、どうしたもんやろ。

「きゃっ」

「っとぉ」

 物思いを中断させたのは、列車の揺れに乗じて・・・直志にもたれかかってきた制服姿の少女だった。

「すみません、すみません」

「あぁええよええよ、お嬢さんも大丈夫?」

「は、はいッ」

 すぐそばで同じ制服を着た友人たちらしき一団が、ひそめた声でかしましく何かをささやきあっている。

「気ィつけてな」

「は、はい。あの、ところでお兄さんモデルさんかなんかです?」

「ほぉん、そない見える?」

「はい! めちゃめちゃ服おしゃれやし、よう似合ってはるし、背ぇも高いし!」

 うんうんと周囲の制服が頷く。

 ナンパにしてはそこまで下心も熱心さも感じない。

 単にイケメンと少し話してみたかった、そんなところだろう。

 いかにも年頃の少女らしいたわむれだった。

 ――すずりちゃんとはえらい違いやなあ。

「そらどうも――」

 車内アナウンスが次の到着駅を告げる中、ふっとかすかにあやかしの気配を感じとって、直志は窓の外へ一瞬視線を向ける。

「――けど残念、ボク、ただの一般人やねん。やから撮影は勘弁してな、ほな」

「あ」

 ニィと笑みを浮かべて会話を打ち切り降車の流れに乗ってホームへ下りた。

 県境は越え、すでに大阪府内だ。直志が動くのに大きな支障はない。

 ――このあたりは紫雲さんの縄張りで良かったやろか。

 まぁ、違ったらそこに恩を着せればいいだけの話だ。

 友人の小さな異変も、他家への仁義も、退魔師の本分の前では二の次だ――少なくとも葛道直志にとっては。

「しっかししゃあないとはいえ、働けど働けど、やなあ」

 冬の日、帰路を急ぐ人々の流れに乗って残業・・のために駅を出る。

 気負いはなかった。

 街中に出るあやかしなど敵ではない、思い上がりではなくそうわかっている。

 そしてそれは今回も事実だった。

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