真成編 2:恋しき人よ、死に候え
男女の発する霊気には違いがある。
そも陰陽五行に基づけば男は陽に、女は陰の性質に属している。
具体的にどうとは簡単に言語化しづらい、個人差のある感覚的なものだがその差異が明瞭であることは間違いなかった。
「ええ……」
だからこそ、どれほど
「マジか……」
そもそも退魔師が性別を偽る必要自体が薄いのだ。
女性の当主は珍しいものではない。
全体の男女比率もおそらく六:四か、偏っていても七:三だろう
なのにわざわざ呪具まで持ち出して、認識を誤魔化すなど聞いたこともない。
いくらか毒気の抜けた表情で、唯月が困惑を隠せない直志に声をかける。
「――何か、驚くというより凹んで見えるんだけど」
「いや、あんまりにもヒネりのない驚き方した己を恥じてんねや」
「府民の価値観は本当に理解に苦しむね……まあ、これでもろもろ察してもらえたかな」
「ああ――あぁ? いやちょい待てや、整理するわ」
納得と唯月はそう言った。
その前提に基づいて最初の敗北、そして彼――彼女が八年避け続けた再戦に臨むに至った動機に思いをはせる。
異性との退魔師の決闘は、互いに決定的な優劣の意識を刻み込む。
そして
「さっき五分言うたんは、五分五分やのうて――」
「あぁ、五パーセントって意味さ」
異性間の決闘で勝利したものが再戦において勝利する確率は実に九割五分。
決闘後の性交を伴った例と二度の勝利ののち三戦目に至った例での勝率となれば十割、記録に残る限りただ一つの例外もなく逆転は絶無だ。
それは直志をして挑戦と呼ぶのをためらうような絶対的な壁。
「ほなずっとこの時を待ってた、っちゅうのもそういうことか」
「そう。おれに勝機が曲りなりにも残っているのはあと一度だけ。それもごくごく細い糸さ――なのにまぁ逃げ腰だなんだと散々煽り散らしてくれたよね」
「知らんわ。男装なんざしとるオマエのせいやろ」
「……直志に言われる正論ほど頭にくるものもないな」
「どういう意味や」
「言葉通りさ――さて、これで納得できたかい?」
「あぁ、
「――は?」
「お、珍しい反応やな、本当のこと言われて腹ぁ立ったか?」
「……安い挑発だね。意図が見え見えだ」
「はン、それに乗るオマエはなんやねん」
納得は終わった。
動機も、事情も、背景も理解した。
驚きはある、疑念が尽きたわけではない。
それでも、自らが今すべきことが変わらないことはわかっている。
「ま、よう考えりゃそっちの事情も理由もどうでもええわ。ボクに喧嘩を売ってきた以上はぶちのめすだけや」
「……まぁ、直志ならそう言うんじゃないかとは思ったよ。おれとしても大事なのはキミに迷いがないことだしね」
言いながら柄頭で顔を狙ってきた唯月の一撃を、直志は手のひらで受け止める。
視線が真っ向からぶつかり合った。
どちらも目を逸らさず、ただただ相手の瞳のその奥底を覗いている。
「オマエん牙は今度こそここで全部へし折る。
「――ああ、そうだ。それでこそだよ、
歯をむいて直志が凶悪な笑みで言うと、唯月は恋人に向けるような親愛を含んだ笑みで応じた。
「じゃあ、死んでくれるかな」
「オマエが死ねや」
その表情のまま互いの殺気が一気に膨れ上がった。
唯月の体がふっと沈みこむ。
後ろに脚を伸ばした前後開脚で無理やり間合いを確保した唯月の刃が、直志の脚を狙って振るわれた。
やむなく踏みつけていた足を離して、それをかわす。
「るぁ――――!」
すかさず、釘付けにされていた地から胡蝶が飛び立った。
上方から無数の突きが放たれる。
「おお――ッ!」
直志は身を振り霊気を込められぬ両腕も使ってそれをかわし、払い、受けた。
それでも防ぎきれなかった刺突が、肌を裂いて無数の赤い筋を直志の体に刻みこんでいく。
「ふッ!」
突きにようやく目が慣れてきたところで、目先を変えて全くためらいのない横凪ぎの一撃が首を狙ってくる。
「しゃあ――ッ!」
意趣返しのように直志もまた足を広げて身を沈めてかわし、それを閉じながら身を起こし、流れるように体をよじって浴びせ蹴りを放った。
意表を突いたそれはしかし空を切る。
壬生唯月は虚空を蹴って更に上、手の届かぬ高さまで逃れていた。
百八十四センチという日本人としてはかなりの長身の直志だ、あやかし相手はいざ知らず人を見上げて戦う機会には乏しい。
幸いしたのはすずりのおかげで、最近は刀を相手とする機会に恵まれていたことか。もっとも彼女の剣は、誰を見習ったものやら剛の性質。
より洗練され変幻自在の唯月の剣の見切りは難度が違う、これでも左腕に障りを抱え得意の二刀は失っているのだからたまらない。
「
「誉め言葉だね――!」
とんと再び虚空を蹴って、唯月が重力に身を任せた。
自由落下の加速を乗せて切っ先を真っ直ぐに直志に向けた剣が降る。
「るぁぁぁ――――ッ!」
「しゃあッ!」
たん、たんと軽く足を入れ替えるステップでタイミングを合わせて迎え撃たんと直志が跳ぶ。
霊力を込めた足刀、つい先日鬼の角を切り落としてみせた右足が美しい円弧を描いて跳ね上がった。
霊気のこもった鋼と人体がぶつかり合う。
キィンと高く硬い音のあと、折れ飛んでいたのは鋼の刃だった。
「――――ッ!?」
振り上げた足が地に着くや否や、今度は左の足が首を狩らんと唸りを上げる。
ギィンと今度は先よりも少し鈍い音。
峰に手を添えて蹴りを受け止めた唯月の刀は、さらにその刃を短くしていた。
「相変わらず、冗談みたいな力だね……!」
「ずいぶん脆いなぁ、虎徹やったか?
簡単に言ってみせたが直志は内心で安堵を感じていた。
退魔師であろうともやはり徒手空拳で武器を有する相手に抗するのは容易ではない、まして壬生唯月は形の上では直志と同格。
その技の鋭さは今しも体験したばかりである。
だからこそその刀が切っ先を失い、間合いの広さという徒手に対する優位の一つを欠いたことの意味は大きい。
「泣いて謝るんやったら今のうちやで――!」
「クッ」
ごうと風を巻き起こす右の上段蹴りを、唯月が上げた左腕で受ける。
「ッし!」
直志はすかさず跳躍し、今度は左の中段蹴り脇腹に突き刺した。
「ぐぅっ……!」
そして唯月の顔が苦痛にゆがんだ直後には、再び右足が今度は両足を薙ぎ払って、壬生唯月の体を浅い水に叩き落としていた。
「ッ、しゃあ――!」
倒れたところへのそれが恐ろしいのは、打撃による衝撃だけではなく、体が地面という揺るがぬ硬いもので二度打ちすえられることになるからだ。
「くぅっ……!」
やむなく刀を捨てた唯月が、足裏を両手で受け止める。
直志が体重をかけそのまま潰そうとした刹那。
「るぅあぁぁ――――――――!」
大きく開かれた唯月の喉から、人の声とは思えぬ音が発せられる。
それは咆哮だった。
古来より獣の声には力があるとされ、犬のそれは邪気を払うと言われている。
壬生は
なによりも空気をびりびりと震わせるほどのその
「チッ!」
叩きつけられた力に対して身構えた一瞬、その隙を突いて唯月は直志の足から逃れて身を起こしている。
しかしその代わりに今度こそ武器を失った。
もとより折れて短くなっていたとはいえ、それでも更に一手、決着へと寄せた手ごたえがある。
「おおお――!」
霊気を帯びた手刀での突きが来る。
唯月はあくまで剣術を修めた退魔師、その動きが素人であろうはずもない。
しかし。
「役者が違うんじゃボケ!」
武器があってなお互角。
葛道直志を相手取るには、それはいかにも付け焼刃の技だった。
「ッ!?」
容易く腕を取るとそのまま懐にまで難なく滑り込み、襟を掴むと身を回して背負い込んだ。
一本背負い、ぐるりと回った唯月の体が大きく水柱を立てる。
そしてそのまま仰向けになった唯月の額を踏みつけ、顔を水面下へと叩きこんだ。
「――ッ!? ――!!」
ばたばたと反射的な動きで、四肢が宙をかき、水を叩く。
人が息を止められている時間は平均でおおよそ一分。
もがけばそれはさらに短くなる。
いかな一級退魔師と言えど、生物の原則からはそうそう逃れられない。
水面の下でもがく昔なじみを冷徹に観察しながら、二分を待つことを直志は決断した。
両腕で脚を掴み、なんとか逃れようと決死の表情を浮かべる唯月と水面越しに目があった。
「オマエ、死合がしたかったんやろ? 望みどおりにしたるわ」
直志にすれば必ずや息の根を止めねばならない、とそこまでの想いがあるわけではない。
だが勝利を確実にするためには、その線を越えることも許容した。
それは壬生唯月への敬意、あるいはいつぞや指摘された通りに後ろめたさに似たものがあるのかもしれなかった。
なんだかんだと言って同年代では
もっとも、その相手を今まさに溺死させるかもしれないことをためらうほどではない。
「――――!」
ばしゃばしゃと水音が上がる。
文字通り死に物狂いの力で脚に食い込んだ唯月の爪が皮膚を破り、肉をえぐる。
その激痛を、霊力で我が身を強化し押し返した。
ふっとその痛みが和らぎ、指から力が抜ける。
水面は気づけば静かになっていた。
しかしさらにそこから二十秒、自身のカウントで二分二十秒が経過してようやく、直志は唯月の頭から足を離しその顔を水中から引っ張り上げる。
元々白い顔に陰が差し、唇は紫色に変色してぴくりとも動かない。
「終わりやな」
もとより覚悟の決断とは言え、一級退魔師を減らしては結局苦労するのは直志自身である。
なぎ倒されたヨシの上に彼女を寝かせて蘇生措置に入る。
呼吸を確かめるべく口元に手をやったところで悪寒を覚えて慌てて腕を引いた。
がちんと唯月の歯が音を立ててかみ合わされたのは直後のことである。
「オマエ――!」
振り下ろした直志の拳は、空しくヨシに覆われた水面を叩いた。
「ごほっ、ごほ……っ!」
せき込みながら、壬生唯月は四つ足の獣のように手足を動かし、水を蹴立てて距離を取るべく駆ける。
「――ごほっ、ごほっ!」
しかしひと際大きな咳とともに、その動きが止まった。
地に手を突きうずくまった背に向けて、改めてとどめを刺さんと直志が駆ける。
「っしゃあ――ッ!」
背を砕かんと握りしめた拳が届くより早く、銀光が閃き直志の喉を焼けるような痛みが貫いた。
「ッ!?」
切られた! しかし何に!?
素手で直志の身を切り裂けるほどに霊気を練れる状態ではなかった。
そも手刀ならばそれより先に直志の拳が届いている。
答えは、唯月の手の中にあった。
(コイツ、すずりちゃんの刀を……!)
「――鼻は効くほうでね、狗も馬鹿にしたものじゃないだろう?」
喉を押さえる直志の前で、剣聖と呼ばれる退魔師が再び得物を手に立ち上がる。
二人となった手負いの獣の視線が静かに交錯した。
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