侵攻編 4:蛇哭啾々

 白波を蹴立けたてて直志なおしは走る。

 ぶぉん、と風切り音をあげて迫る蛇の頭をかわして右へ跳躍、そこに続けざまにもう一つの頭が伸びてきた。

「ほっ、とぉ――!」

 さらに右へもう一度跳ねたその先へ、今度は巨大な尾がしぶきをあげて滑ってくる。

 動く壁そのものの高さをもったそれを、今度は着地と同時に後方への数メートルの跳躍で距離を取りつつ飛び越えた。

 単純だが効果的な一連の大蛇の動きは、人の尺度に置きかえれば左のジャブから右のストレート、そしてローキックと続けるようなごく軽い動きに過ぎないだろう。

 しかし彼我ひがのサイズ差が直志に全身を使い、体の数倍の距離を動きまわった回避を強いてくる。

 重労働だが、かといってもう一度我が身で受けてみる気にはなれない。

「怪獣退治は、畑違いや思うんにゃけど、なッ!」

 歴史を紐解いてみれば「山のような」と形容されたあやかしとの戦いは、かつては確かに存在した。

 けれどそれはすでに遠く過去のこと、現代のこちら・・・側にそれほどの怪異、神秘が発生・存在するほどの余地はほとんどない――文字通りの意味で。

 つまり直志にとってもこれほどに巨大な相手と戦うことは初めての経験だ。

「しゃあッ――――!」

 だがその事実は青年の闘志をなんら鈍らせるものではない、疾風迅雷の勢いで蛇の双頭のつけ根まで一息に踏み込む。

 掌打の衝撃がもやを吹き飛ばす、巨大な白蛇が人の一撃で確かに揺れた。

「ふッ!」

 続けて直志は軽く数メートルを飛びあがって右の首へ蹴りを入れ、それを足場に左の首に跳ぶと、さらにもう一つ蹴って尾の方へと抜けた。

 わずかに遅れて、双頭の牙が続けざまに空を切る。

 蛇の背へと着地をした直志は、そのままよじれる蛇の身を駆け抜けた。

 ぶぅんと風を切った尾の先端が それを叩き落とさんと唸りを上げる。

「っしゃあ――――!」

 スライディングで潜り抜け、逆に広げた右手の指を尾へと食い込ませる。

 水中に降りたって地を踏みしめると、続いて左の手でも蛇の体をつかんだ。

「お、お、ぉ――――!」

 直志の全身を霊気が巡り、生じた雷が空気を焦がす。

 あやかしの巨大な体が硬直し、人と大蛇の間で一瞬だけ、力の拮抗が生まれた。

「――おっも。やっぱ無理やな」

 軽い調子で言って直志は地を踏みしめていた足からあっさりと力を抜いた。

 ぶぅんと尾が振り上げられ宙へと引っ張り上げられたところで、蛇に突き立てていた指を放す。

 放り上げられた勢いを利用して宙を飛び、再び遠く遠くへと間合いを取った。

 ばしゃあんと水音を立てて着地したあと、軽く二度三度と水面の上で跳ねる。

 その動きを追うように、獲物を狙う大蛇の二つの頭がゆっくりと上下に動いた。

 ――敵は大きく重く、そして強い。

 更に一つか二つは切り札がある可能性は頭に入れておくとして、現状では十分に対応は可能だ。

 その一方で、やはり直志の打撃で致命傷を与えるのは容易ではないだろう。

 より速度を上げれば通せる可能性はあるだろうが、それは同時にカウンターの危険が増大することを意味する。

 腰を据えればじわじわと削り殺すのは可能かもしれないが、それもまた時間の経過による体力と気力の消耗がリスクになりえた。

「他人任せは趣味やないけど、ま、こりゃしゃあないか――」

 結論としてはやはり、今はどこかで機を待っている唯月の刀に頼るほかない。

 であればその隙を作るためにまだ消耗の少ない今、短期決戦こそが最善の判断。

「せいぜい派手に暴れたるわ――!」

 そう心が決まれば行動は早い。

 ひととき静けさを取り戻していた水辺に、ばちばちと無数の雷光がはしる。

 直志の体からあふれ出す余剰の霊気が、雷の舌となって水面を舐めた。

 それはやがて網の目を作り、檻のように巨大な大蛇の全身を覆いつくしていく。

「速度全開でブチのめしたる――!!」

 言葉を置き去りに、すでに青年は駆けだしていた。

 連続する音と衝撃が大気と葦原を揺らす、地下空間に吹き荒れた時ならぬ嵐は人の形をしていた。

「ッしゃあ――――――!」

 ドンという衝撃とともに大蛇の右の頭が跳ね上がる。

 その次の瞬間には、左の首が半ばほどの位置でくの字に折れた。

 ドンと三度大気が震え、大蛇の体が右に左にブレながらその場で円を描く動きを始める。

 否、それはぴたりと身にはりついて拳を連打するを、なんとか食らいつき、引き離そうと必死の抵抗をしているのだった。

「はン、目ェつぶってても当たる相手や。こっちゃ殴り放題やで――!」

 直志の拳が大蛇の体を打つ、その衝撃でわずかに空いた空間を稲光が走り小さな雷鳴が何度も響く。

 身をよじり、二つの頭を使ってなんとかそれを食い止めんとする大蛇の動きははたから見ればもはや狂乱し、自傷を行っているように見えるほどだった。

 ぐるりととぐろを巻き、身の内に獲物を収めようとする動きを内からの打撃で歪めさせられ、牙が何度も何度も虚空を噛む。

 ばしゃんばしゃんと繰り返し水柱を立てる大蛇の動き、それに巻き込まれただけで人どころか大抵の生物は息絶えるだろう。

「しゃあ――――!」

 しかし葛道かずらみち直志はその只中に踏みとどまり――いや、駆けまわって逆にあやかしを攻めたてる。

 一方の大蛇もまた屈することなく、我が身を食わんばかりの勢いで長大な胴の内へと囲んだ獲物に向けて何度もその牙を伸ばしていた。

 それをかわしながら直志は狭まりつつある円から外へと飛び出すと、蛇の身に決定的ではない、しかし確かな痛打を浴びせていく。

「――――――!」

 大蛇が身をよじりながら、吼える。

 蛇身は今やらせんを描きながら進むことで直志を内に捕らえ、すりつぶし、締めあげて、打ち砕かんと荒れ狂う。

 そのことごとくをくぐり抜けながら、直志もまた前進した。

 何度となく両者の体が交差し、すれ違う。

 間一髪で突進をかわした直志の左肩が裂け、鮮血が肩を赤く濡らした。

「ククッ……!」

 青年の喉が鳴り、視線がすっと細く鋭さを増す。

 口元がゆがんで凶悪な笑みが浮かんだ。

 大蛇がまき散らしているのは決して人の身ではなしえない暴威。

 それに今、真っ向からあらがい、戦っている。

 苦難が、苦闘が自らをより高みへと引き上げている、直志にはその確信があった。

 さぁ来い。もっともっと、力を見せてみろ――!

「――砕月」

 静かな声がその熱狂に割って入った。

 葦原を割って流星が天へと駆けのぼり、銀の光がまばゆく閃く。

 任せた当の直志自身さえ頭から消えていた唯月の横槍は、狙い通りに蛇の頭の一つを切り飛ばした。

「――――――――!」

 片割れを失った蛇が、啾々しゅうしゅうき声をあげた。

 朱い、朱い雨があたりへと降り注ぐ。

 瞬間、確かに直志と大蛇の視線が交錯した。

「闇討ち、不意打ち、騙し討ち――あやかし相手に打てる手は全部使うんが人の業っちゅうもんや、悪いなァ」

 四角い蛇の顔に「信じられない」という驚きが見えた気がするのはらしくもない感傷だろうか。

 あるいはかつてない巨大な、現世にはもはや現れないであろう存在との戦いで神話や伝承の一端に触れた興奮の余韻か――

「ま、あんま思うてへんけど」

 それを振り払うために直志は露悪的に笑った。

 だがいずれにせよそれは余分であり、油断。

 戦いの場において、必ず罰せられるべき慢心だ。

 報いは切り落とされ転がった大蛇の首、その開かれたままの口から放たれた。

「――っ!?」

 とっさに交差させた両腕で顔をかばう。

 腕が濡れる感触を覚えたあと、感じたこともない強烈な熱と痛みが全ての感覚を塗りつぶした。

「がああぁぁぁぁ――――ッ!?」

 呪いそのものを形にした毒液を両腕に浴びた直志が苦悶の声をあげる。

 じゅう、と肉が焦げる音と異臭があたりに漂った。

 慌てて身を地面に投げ、浅い水の中へと両腕をつっこむと水に触れたところからまた白煙が立ちのぼる。

「ぐッ、ぐぅぅぅおぉ――――……!」

 毛穴という毛穴に無数の針でも突きこまれているかのような痛み。

 しかし、ただそれにうずくまって耐えている余裕はない。

 大蛇の頭はいまだ一つ健在なのだ。

 地面を転がって追撃をかわし、濡れ鼠になりながらも距離を取る。

「――クソがッ! 頭の形からしてアオダイショウやろ!? 毒ない蛇とちゃうんかい! 五兆歩譲っても毒飛ばすのんはよその大陸にしかおらんやろ――!」

「ずいぶん詳しいね。いつから蛇博士になったんだい?」

 悪態をつきながら立ち上がると、大蛇の顔の周囲を駆けまわって気を引いていた唯月が、上空から呆れ混じりにそう言った。

ちょけとふざけてる場合か?? ぐッ……!」

「意外と余裕ありそうだけど」

 見上げれば青年の曲がっていた左の腕は、見た目こそまっすぐに戻っていたもののだらりと垂れて力はいまだ入らない様子だった。

 つまり右腕一本で首を落としてみせたわけだ。剣聖の異名は伊達でないことがわかる。

「ンなわけあるかい、めっちゃヤセ我慢しとるっちゅうんねん。クッソ、痛みで腕に霊力回せへん……!」

「呪いは? 回る前に切り落とさなくて大丈夫そうかい」

「アホぬかせ、トカゲやないんやそうそう簡単に切られてたまるかい」

「命に係わるようならそうも言ってられないと思うけど……まぁ、その調子なら平気かな。いいさ、しばらくはおれに任せて――」

 不幸中の幸いというべきか、一つとなった大蛇の首は片割れを奪った唯月に狙いを移している。

 片や首を失い、片や腕に深手を負っている両者は、互いに機をうかがい迂闊うかつにはしかけられない。

「お断りや、ボケ――――!」

 そんな空気を全く無視し、腕が動かなくても脚がある、とばかりに今度は直志の横槍が頭を失った蛇の首を蹴り飛ばした。

 ぶうんとしなったそれが鞭のように健在な頭を打ち叩き、絡みついた。

 一瞬で均衡は失われ、戦場が動き出す。

 ひらりひらりと蛇の牙を優雅にかわしながら唯月がため息を吐いた。

「直志さぁ……」

「やられたらどんな手ェ使ってもやりかえせがウチの家訓やねん」

「腕、動くのかい?」

「脚がある、それでダメなら噛みついたるわ」

「まぁそれでいいなら、いいんだけど、ねっ」

 とん、と空中で唯月がトンボを切る。

 直志の腕を焼いた毒液がそこを通り過ぎて行った。

 一時的に両腕が使えない直志と左腕の自由が利かない唯月、対して大蛇も首を一つ失い、全身に傷を負っている。

 あやかしの負傷が深い一方で、消耗が激しいのはおそらく退魔師たちだ。

 それを勘案すれば――

(状況はまぁ五分ってところか)

 すでに最悪の事態への備えはすずりに託した。

 相手にもこれ以上の切り札はあるまい。

 先の油断により直志が呪いを浴びた一瞬は、大蛇にとってもこの上ない好機だったはずだが――しかしそれは活かされなかった。

 ならばあとは互いに死力を尽くすのみ。

「こっからド級のリベンジや!」

 直志は叫び、駆けた。

 一気に大蛇に肉薄するとそのまま足を上げて前蹴りをぶち込む。

 足裏に伝わる感触は土がむき出しになった崖を蹴るのに似ていた。

「ッらぁ!」 

 それでも直後、青年の踵は鱗を貫いて肉まで達する。

 虫でも振り払うように滑ってくる尾を蹴って、再び蛇の背に飛び乗った。

「っ、とと……!」

 しかし大蛇が対処に慣れたのか、両腕が利かないせいか駆け上るどころか十秒と持たずにふるい落とされてしまう。

「――――!」

 その蛇が、直志を省みることなく高く天へと背を伸ばしていく。

 見ればそこには見上げる者の目がくらみそうな高みまで駆けあがっていく唯月の姿があった、大蛇はそれを追っているのだ。

「はン、おあつらえやんけ」

 無防備に晒された蛇の腹。

 ぐんと伸びたそこへ向かって直志は跳ぶ。

 すずりを放り上げたときとほとんど変わらぬ高さまで、自らの脚力だけを頼みに放たれた矢の勢いで跳んでいく。

「ッしゃあ――――!」

 足裏にはやはり分厚く重い感覚。

 それを切り裂くというより、ぶち抜く。

 その衝撃が宙の獲物に気を取られていた大蛇の身を揺るがし、致命の隙が生まれた。

「唯月ィ――!」

「言われなくとも!」

 ときおり飛んでくる呪いの毒をひらひらと蝶のように舞ってかわしていた青年が、右手の刀を一度鞘に収める。

 虚空をぐっと踏みしめて、滑るような足取りで一歩を蹴った。

「三日月」

 流れる星のように、鞘から抜き放たれた刃が銀の光の軌跡を残す。

 決着は鮮やかで、一瞬だった。

 そのあとには、残った首も斜めに断たれたあやかしの姿が残るだけ。

 否、それさえもすぐにボロボロに崩れ、祟る神となった存在はただただ黒いもやとなって溶け消えてゆく。

「そや、もう一人のんは――」

 急いで霊気を探るも戦いの間に絞り出されたのか、元々か弱かったそれはすでに直志には気配をつかみ取れなくなっていた。

 刀を収めた唯月に視線を向けると、青年は痛ましげな表情で首を横に振る。

「――そうか」

 崩れ去っていくあやかしの中には恐らく核となったであろう神体も、呑まれていたはずの退魔師の姿も何一つ見いだせない。

 最後に残った人の頭ほどの大きな塊も、すぐに散っていく。

 人の形を残さない死は、退魔師にとっては珍しくとも無い話ではない。

 はぁ、と直志がため息を漏らしたのも、感傷というよりは勝利の安堵と、今回の件における手掛かりの消失に対する落胆によるところが大きかった。

「ま、最低限の仕事か。おう、お疲れやった――ッ!?」

 ねぎらいの言葉を口にしながら、いまだ重たいままの右腕を持ち上げる。

 瞬間、直感が本能が身を引くことを命じていた。

「チッ……!」

 反らした胸を逆袈裟の一閃が浅く切り裂く。

 傷を抑えた手を流れ出た血が濡らした。

「――さすが、いい反応だね」

 その傷をつけた下手人である壬生みぶ唯月の声は、まったくいつも通りの静けさを保っていた。

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