侵攻編 1:梅田地下騒乱
――ハメられた。
女は胸中で現状の成り行きと己の見通しの甘さを呪った。
場所は梅田の地下、いかな後ろ暗い仕事だろうとよもやおおごとにはなるまい――なんて、呆れてしまうくらい楽観的な見方だったと悔やむ。
女はもはや属する家のない退魔師だ。
才能はあったが家に縛られる生き方を嫌って
しかし退魔師という人種は縄張り意識が強いものだ。
精々並の二級退魔師には、新月期の厳戒態勢くらいでもなければ早々実入りの良い仕事は回ってこない。
だからこそ
白蛇のぬけがらに呪符を重ね、曰くつきの刃物で
ごく単純な呪いの手順。
しかし蛇がよほど力あるものだったのか、あるいは刃にこもった恨みのせいか、今しも感じているのは、中妖には到底おさまりきらない強い気配。
呪いの産物としてはあきらかに人の手に余る怪物だ。
いまだ完全な出現はならずとも、あたりはすでに息苦しいほどの妖気の圧に満ち、呪った当人である女は不可視の蛇に全身をしめつけられ身じろぎ一つもできない。
「アンタ、何をまごついてるんだ……! 今やらないとまずいことくらいわからないのか!」
必死の訴えもしかし、刀に手をかけた葛道家の青年はいまだ実体になりきらぬあやかしにたいしての判断を決めかねているようだった。
その背で錫杖を構える従者の娘は、主人と女の間に視線を行き来させるだけでいかにも頼りにならない。
「葛道なんだろう!? 当主代行は! きてないのか!」
「――この件にヤツは関係ない!」
最後の望みをかけた問いへの返答は絶望的なものだった。
青年の表情からは、はっきりと件の人物への隔意が見てとれた。
「おいおい、マジかよ……」
葛道家の現当主代行、
だからこそ身内のために同盟者の庭で火遊びくらいはするだろうと思った。
同時に、その異名通りにことあらばすぐに片づけることも可能、だからこその依頼だと考えていたのに――
退魔師家中の内ゲバなど珍しくもない。
そもそんな世界を嫌って家を飛び出したというのに、どうしてこれを当主代行が知り置いたことだと思い込んでいたのか。
「この程度の気配がなんだ。生まれたばかりのあやかしなどオレが一刀で切り捨ててくれる――!」
いまだに能天気なことをのたまう葛道の縁者に女はいよいよ希望を捨てた。
「ぐぅ……っ」
自らをしめつける蛇身に、強く強く力がこもる。
生臭く、生ぬるい息が顔にかかった。
――あぁ、
「クソッタレ――」
ぬるりとした感触に、頭から包まれて女は意識を手放し――そうして二度と浮かび上がることはなかった。
女の霊気を最後のカギとして、災いの蛇が生まれる。
「
地の底に悲鳴が響いた。
§
「――代行、
「なんや、不吉な物言いやなあ……」
一人修練場にて汗を流していた直志は、家人の言葉に心底嫌そうな顔を浮かべた。
修行を切り上げ、邸内の固定電話へと向かう。
「はぁ、梅田の地下に、大妖の反応……?」
『ああ、そうだ』
そうしてその予感がまったく正しかったことはすぐにわかった。
大声を出さずにすんだのは、告げられた事態があまりに現実味を欠いていたからだった。
人口二百万を超える大都市の中心、その直下に大妖の出現。
冗談にしてもまったく笑えないそれがどうやら現実と来ている。
『至急対応に当たらねばならんが、大妖となれば例によって数は頼めん。当家の戦力だけでは不安が残る。葛道殿にもご助力願いたい』
「まぁ、事態が事態です是非もありませんわ。そちらからは誰が?
『ああ、だが彼はまだ完調には遠い。かわりに娘を連れて行ってもらいたい』
「――すずりちゃんを? ええんです?」
『緊急事態だ、本家の者が行くべきだろう。無論、君が娘は頼れぬというなら他の候補を考えるが』
「ほなお嬢さんをお預かりします。まぁどない事態だろうがすずりちゃんだけはお返ししますよって――」
『いや、気づかいは無用。必要とあらば一人の退魔師として命を懸けさせてくれ』
声音に確かな覚悟を感じて、直志はそれ以上の反論をやめた。
「わかりました。詳しい状況は? 中には誰か残っとります?」
『入場を把握できている中で脱出が確認できていないのは二名。一人は陰陽寮に割り当てた臨時パスで入った外部の二級だがこれがどうも臭い』
「と言うたら?」
『経歴に疑わしい点が多い、何か起こす気で潜ったものかもしれん』
「はぁ、また呆れたアホがおったもんで。もう一人は」
『君の
「そらまた……」
――あんのクソガキ、ホンマ……!
何者かによって引き起こされたらしき大妖出現。
それにたまたま巻き込まれたと考えるには、これまでの
共犯とまではいかなくとも、なにかしら利用されたか一枚噛んでいる可能性は十分に考えられた。
「ご迷惑おかけしますわ、こらますますボクも気合入れんとなぁ」
『それともう一つ、こちらはいい知らせだが滋賀の
「こないな状況や好き嫌い言うてる場合やありませんし、使える手は多い方がええ。ボクも構いませんわ」
『わかった、ではあとは現地で。わかったことは全て娘に伝えておく』
「ええ、ほな特急でうかがいますわ」
§
「――おう」
「やあ」
「中は見たんか?」
「いいや、まだだよ」
「さよけ。協力は助かるけどな、どない風の吹きまわしや」
「大妖の大元、おそらくうちから盗まれた白蛇の脱け殻みたいでね」
「ほぉん、ほな互いにしりぬぐいってわけや」
「まぁ、そうなるのかな」
先に待っていた唯月とごく簡単に挨拶をかわして、直志は梅田地下ダンジョンが広がる空間へと足を踏み入れた。
「うへぇ」
「これは――」
ダンジョンのエントランスはエンジンの音やガソリンの匂い、立ち並ぶ投光器というおおむねのところは以前のままに、しかし退魔師の感覚に訴える印象はまったく様相を転じていた。
闇はのしかかってくるような圧をまとい、ときおり巨大な生物が呼吸でもしているかのように生ぬるい風が吹き、そして通路の奥へとまた戻っていく。
「キッショ、なんやねんこれ」
「なんとも不吉極まりないね」
エレベーターで下りながら率直な感想を互いに零す。
強力なあやかしを目前にした時とはまた違う異質な気配。
それは百戦錬磨の若き一級退魔師たちをして顔をしかめるような事態だった。
「――ナオ
家人と何やら話し込んでいたすずりが、二人に気づき手をあげる。
そばには
「概要はお父さんから聞いとるけど、なんやあれからあった?」
「二人なら未帰還のままだ。中に式神を飛ばして確かめたが、道順や構造に大きな変化はまだ起きていない。ただ先日に固めたばかりの通路の先は濃い
「ほぉん、ま、十中八九でヘビはその先か」
「中も作りかえられてそうだね」
「それから、木っ端の出現は普段よりむしろおさまっているかもしれない――まるでなにかを恐れるようにな」
「さよけ、ちなみに内部からの連絡は?」
「できない。電子機器での通信はもちろん、式神を介しての念話も無理だ」
「ほな入ったあとは人の足が頼みやな、まぁそれも予定通りっちゃ予定通りか。入るんは三人だけでええよな?」
「異論はないよ。おれはいつでも」
「ああ、私も大丈夫だ。用意はできている」
「ほなその前に――義直クン、知っとることあったら全部話してもらおか」
じっと黙りこんでいた青年が、のろのろと直志を見上げる。
常の
顔には十年は老けて見えるほどの
「何が何だか、オレにもわからん。気づけばもやが出て襲われていて……」
「最近連れまわしとったお嬢ちゃんは」
「
「さよか。で、キミはなんでここにおんの」
聞いておいて無関心な声に反発を覚えたか、義直の瞳にわずかに力が戻る。
「紫雲家から葛道に協力の要請は出ているだろう。参加して何が悪い――美冬は三級だが、規定ではオレと一緒なら問題ないはずだ」
「んにゃ、派手好きのキミがこない地味な仕事するなんて殊勝なこっちゃって感心しただけや。
「それは……」
直志の視線は鞘に入ったままの刀に向けられていた。
祖父の形見でもある最上大業物は、葛道家の財産だが現役の実用品でもある。
当主代行である直志が使わない手前、義直が扱うことに問題はないが――普段使いでおいそれと持ち出すようなものではない。
「――オレを疑っているのか?」
「イヤやなぁ、そないなこと一言も言うてへんわ。そもそもキミの企みやったら、自分の女見捨てて逃げかえるなんてみっともないことになってへんやろ」
まして見栄っ張りの従弟である、状況証拠としては十二分。
主犯ではないだろう。だがこれほどの事態、目こぼしする理由はなにもない。
挑発するように直志は続ける。
「今頃『オレが一人で大妖の大蛇を倒しました』て鼻高々やろ――キミの企みやったらな」
「――……」
何事かを言い返そうとして、結局従弟は言葉を飲みこんだ。
人の心を見透かすような観察力が、自らに備わっていると直志は思わない。
だがやはり偶然の被害者ではなさそうだと結論付けた。
「別邸で養生しとき。ボクが戻ってきた時にもしよそにおったら――」
「ああ。念押しされるまでもない。オレに後ろ暗いところなどない」
「そらなにより。まぁ義直クンもまさか紫雲さんとこが管理しとる梅田で事起こそなんてアホやないわな。だぁいじょうぶや、潔白が証明されるまでの辛抱やで」
「わかった……直志、その」
「さん付け、忘れとるで」
「……っ、直志、さん」
「なんや」
「美冬を、助けてやってくれ」
思いがけずも出てきた殊勝な言葉に直志は、あらためて義直を見る。
不本意ながらも似た面影を持つ青年の目は珍しくまっすぐに視線を受け止めた。
「優先順位、高くはできひんで」
だからこそ嘘偽りなく、厳しい現実を口にした。
悲痛な表情をした従弟は重々しく頷く。
「わかっている……だがお前なら全くの無理でもないだろう」
「はン、まぁた都合のええことを。ま、やるだけはやるわ」
「頼んだ」
応とは言わず直志はひらひらと手を振ってこたえた。
「ほな、二人とも行こか」
そうしてもはや従弟には視線を向けず、入口に向かって歩き出す。
彼には声が届かない距離まで離れて直志は口を開いた。
「そもそも
「ナオ兄……」
「本当についていくって言いだしたら許可するのかい」
「んにゃ? 足手まといやしすっこんどれ言うで、当たり前やろ」
「ダメだろう、それは!」
「人の心とかないのかな」
「あっれマジで?」
あいにくと同行者たちの賛同は得られなかった。
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