幕間 策謀は暗闇の奥で

 大阪市内、葛道かずらみち家別邸。

 数年前より当主の弟である葛道佳哉よしやの一家が住まいとするその屋敷は、吹田市にある本邸に規模と歴史でこそ劣るものの、純粋な資産としての価値は今となってはむしろ上回っていた。

 しかし過去に当主代行の勘気に触れ、半ば追い出される形で借り受けることとなった経緯への心情は、住人たちの中で統一されていなかった。

 家長である佳哉は事の次第を恥じており、その妻は不当な処置であると憤慨ふんがいし、今は不在にしている長女は従兄いとこと離れて暮らすことに落胆し――そして長男である葛道義直よしただは、こここそが未来の葛道家本邸なのだと満喫していた。

「あぁ、いいぞ美冬。もっと強くだ……」

「んっ……」

 義直の私室で彼の前にひざまずき、口で奉仕をしていた娘はその言葉に頷いた。

 髪の間に指を差しこまれると、嬉しそうに目を細める、

 その小さな頭を撫でながら義直は、自らのしつけの成果に満足した。

 母につけられた当初はまったく初心で無作法だったこの従者は、義直の最新のお気に入りだった。

 顔は悪くない、肉感的な体は反応も良くて飽きが来ない。

 少し頭が足りない点は妻やパートナーとするには退屈でも、愛人としてならばそれも愛嬌の内だ。

「そのままだ、続けろ」

「はい、義直さま……んっ、むっ……」

 何よりも義直に従順で余計なことは一切口にしない扱いやすさが良かった。

 敬愛してはいるが箸の上げ下ろしにまで口を挟む母と、従兄びいきでなにかと比較してくる姉を持つ身からすれば、側において苦にならない女性は貴重である。

 美冬本人こそ退魔師としては三級止まりだが生来の霊力量は悪くない、なんなら一人や二人、自分の子を産ませてやっていいとすら思っていた。

「出すぞ」

「……んぅっ、ん、ん――っ」

 美冬が頬をすぼめて、頭を振る動きを細かく早くした。

 そうして終わりを迎えるとぴたりと動きを止めて、余韻を楽しませてくれる。

 美冬が鼻から洩らす長い息の音だけがしばし部屋に響いた。

「いいぞ、美冬。飲め」

「……っ」

 口元を手で隠しながら美冬は口中に貯まったものを何度かに分け飲んでいく。

 全てを飲み終えた唇を指先で拭うと、娘は控えめに小さな口を開けてちらりと桃色の舌を出した。

 どれもすべて、義直が教えこんだ作法だった。

「いい子だ」

「ありがとうございます、義直様」

 自らは愛情と信じて疑わない感情を込めて言葉をかけ、義直は娘の髪を撫でた。

 幸福そうに美冬がうっとりと目を細めて、口元を緩ませる。

 年齢以上に幼く見える、子供のように無邪気な笑みだった。

「お掃除、いたしますね」

「――いや、待て」

 そうして今度は清めるためにと唇を寄せようとするのを、義直は鋭い声で制した。

 窓の外を鋭く睨んだ青年は、手早く下着とズボンを引き上げてベッドのそばに置いていた刀を手に取る。

「義直さま? 一体……」

「客だ、お前も来い」

「お客さま、ですか? どこの使いが、予定は……あっ」

 とぼけた返事に内心で顔をしかめながら、義直は掃き出し窓を開けて庭に出た。

 叱責はしない、美冬に知恵の巡りの悪さを指摘するとしばらく落ちこんで、まるで自分が悪いような気にさせてくるからだ。

 なにより、動き出してしまえば理解せぬままでも彼女はあとをついてくる。

「――何者だ。ここを葛道家の屋敷と知ってのことだろうな」

 静まり返った夜の庭園に、義直の声だけが響く。

 身支度も整わぬ裸足の美冬は、きょろきょろと周囲を見渡した。

 事態は把握できていないだろうが、主人の振る舞いに敵となるものがいると悟ってか霊力だけは臨戦態勢にある。

 ――愚かだが忠実、母の人を見る目はやはり確かだ。

「答えんのならこのまま叩っ切るまで」

 抜き放った刃の先を、石灯籠いしどうろうへと向ける。

 そこにはやはり何もいないように見えた。

 義直が刀を上段に構え、その三歩後ろで美冬もまた霊力を高める。

 そしてそれが放たれようとした直前、石灯籠の前の空間が揺らいだ。

 隠形が解かれたそこには、片膝をつく般若の面をつけた黒装束の影がある。

「さすがは関西八家はっけ筆頭、葛道のお方。非礼をまずはお詫び申し上げます」

「ッ! 義直さま、お下がりください!」

 男とも女ともとれぬきしんだ声に、不吉を覚えた美冬が主をかばう様に前に出る。

「でしゃばるな美冬――下らん話はいい。名乗れ、賊」

 それを片手で制して、義直は一歩踏み出しつつ再び刀を突きつけた。

「さる高貴なお方に仕えるものとだけ――それ以上はどうかご容赦を」

「部下にコソ泥の真似をさせる高貴なお方か? 知れたものだな」

「これは手厳しい」

「いいからさっさと用件を話せ。貴様もつまらぬ仕事で死にたくはないだろう」

「葛道義直様――貴方様にお話を持ってまいりました」

 銀の光が閃く。

 ごとり、と斜めに断たれた石灯籠が滑り落ちて無念の音を立てる。

 苔むした石塊は、恨み言を述べるようにその断面を義直たちに向けて止まった。

「そんなことはわかっている。オレは用件を話せとすでに言ったぞ」

「これはこれは……申し訳ございませぬ」

(どうやって避けた? 何らかの術か? しかし動作も気配も無かった――)

 断たれた石灯籠を背に、しかし黒装束は直前と変わることなくそこにいる。

 速さ自慢のあの忌々しい従兄でさえ可能かどうか。

 表面上は平静を保ちながらも、義直の背に冷たい汗が流れた。

「では本題に。我が主は、懸念を抱いておいでです」

「何についての」

「貴家の代行殿について、でございます。大妖を個で打倒しうるほどの力をお持ちなのは確か。しかしながら――」

「大妖を一人で討伐だと? はっ、馬鹿々々しい。奈良の綾部あやべ家、それも最精鋭の一斑があの時生駒にいたのが事実だろう」

 遮るようにそう口にして、義直はわずかに後悔した。

 内容は真実でも、いかにもひがみに聞こえるタイミングになったからだ。

「おそれながら――代行殿はその為人ひととなりに、疑念がございます」

「それも今更の話だな」

(如才のないやつだ、嫌みなほどに)

 黒装束がそれを気にせず話を続けたことに救われ、しかしまたその事実に苛立ちながら義直は皮肉気な笑みを浮かべた。

「アレは力におごっている、奴には人の心がない」

 従兄を貶す際はいつだって舌が滑らかになる義直だが、内容に関しては一概に私怨だけとも言い切れなかった。

 身内である葛道家内でさえ、時に他者に対して苛烈に過ぎる直志の人柄は大きな欠点として認識されている。

 関西最強と呼ばれるほどの力があればこそ、認められているのは確かだろう。

 それは直志を支持する大叔父の義虎よしとら、そして代行補佐である佳哉でさえも幾度となく振る舞いに苦言を呈している事実にあらわれている。

 まして他家からすればつきあいに不安を覚えるのは無理もないところだった。

「まさしくそこにございます。やはり義直様にお話を持ってきたこと、我が主の目に狂いはなかったと確信いたしました」

「フン」

 見えすいた世辞を繰り返す黒装束に、義直は軽蔑を隠せなかった。

 ――こいつの主人とやらはどうにも自己愛が強そうだ、さして知恵があるとも思えんな。

 他人の欠点は、とかく目につきやすいものである。

「動機は納得してやろう。だが具体的にはどうしたいのだ。アレでも貴重な一級。それを害して葛道の弱体を企もうとしても無駄なことだぞ」

「滅相もないことでございます。主人はただ、義直様に次期当主としての器量を広く知らしめる機会を得ていただきたい――そうお考えなのです」

「――機会か」

 それは確かに義直も欲しているところだった。

 二級までの昇級こそスムーズだったものの、そこで足踏みが続いているのはまさしくそのための機会に恵まれなかったからだ。

 少なくとも義直本人はそう信じている。

 葛道家のあやかしへの対応は管区指令からの要請を除き、まず直志の補佐的立場にある佳哉が判断することになっている。

 中妖以上の対応は直志へ振るべきかを検討し、そうでない場合に実働班を決める、という具合だ。

 そうして義直に言わせれば父は過保護だった・・・・・・

 リスクの計算された、対応できる範囲の仕事しかこなせぬのでは従兄との評価は開くばかりだろう。

「主人にいたずらに貴家を割ろうという考えはございませぬ。ただ、義直様にも強敵を打ち倒した実績をお作りいただくことで、葛道の方々に一考の判断材料として欲しいく――それだけにございます」

「なるほどな」

 退魔師の名家はほぼ例外なく資産家だ。

 それがゆえに人の業として身内で相争うことは珍しくない。

 実力至上主義を掲げようと、あるいはだからこそ争う他無くなるときもある。

 葛道家もその例外ではない、義直たちの祖父の代にも三兄弟の長兄である祖父と次兄とが流血沙汰まで起こしている。

 それで言えば今回の提案は穏当といえた。

 何も直志本人と戦おうというのではない、功績をあげて世に問う――それは健全な競争とさえ言い換えられるだろう。

「――いいだろう、話に乗ってやる」

 背の美冬が何か言いたげな気配を発するも、先の叱責しっせきを覚えていたのか従者は結局沈黙を選んだ。

「おお、さすがは葛道のお方。実に果断でいらっしゃる」

「世辞も過ぎれば嫌みだぞ――お前の主は違うのかもしれんが。それで、場所は? 相手はなんとする」

「梅田地下ダンジョン、と申し上げればお察しいただけましょうか」

「わかった、備えておこう。連絡の手段は」

「こちらを」

 黒装束が差しだしたのは式神の依り代として使われる人型の符だった。

 胴の部分には朱い清明桔梗、五芒星が描かれている。

「万端用意整いましたらお知らせいたします。これが案内致しますゆえ、どうぞお持ち歩きください」

「――呪詛じゅその類はないな、よかろう」

 式神の依代人形は珍しいものではない。

 義直が持ち歩くことに不信を抱かれることはないだろう。

「それでは、私はこれにて――」

「待て。その前に一つ、忘れるな。必要であればオレ自身の手で葛道家を握ることは不可能でなかった。お前の話に乗るのは機会を活用するだけに過ぎん」

「は、心に留めておきましょう。では改めて失礼をば――」

 芝居がかった仕草で一礼し、黒装束は溶けるようにその姿を消した。

 慌てて美冬が霊気を飛ばし周囲を見回すも、それもまったくの空振りに終わる。

「部屋に戻るぞ、美冬」

「は、はい。義直さま」

 結局、義直は気づかなかった。

 あるいは考えるのを避けたのかもしれない。

 義直自身では密かに侵入など決してできない別邸の結界に忍び込んできた手練れが、その後で彼に気取られた不自然さに。

 ――たとえ恵まれたものであっても、より成功した相手を「ただ機会と幸運に恵まれただけ」と見なす愚かさとは無縁ではない。

 人は誰しも大小の愚かさを抱えているものである。

「直志――奴には情がない。人には確かにあえて非情に振舞わなくてはならん時もある、だが常にそうである必要はない」

 義直は知らない。

 気まぐれに振舞われる優しさより一貫した厳しさが好まれることがあるのを。

「なによりオレの方が頭もよく、母の血も優れている。アイツなど高校すら出ていないではないか」

 義直は考えない。

 姉と自身が享受する教育の機会が、なぜ当主の息子である直志には与えられなかったのか。

 それはとりもなおさず、直志が十五の時から退魔師として全てを捧げ、一族に余力が生まれたためだったということを。

「人の上に立つのに必要なのは、決して強さだけではないのだ」

 義直は認めない。

 実力だけではなく年齢、血統、実績――おおよそあらゆる要素において直志のほうが葛道家の次期当主としての正当性を有していることを。

 義直のすべての論は、自分こそが正しいという前提によって立っていることを。

 母によって呪いのように長年繰り返されてきたそれらの理屈は、もはや彼のなかで確たる真実となりつつあった。

 無論、父である佳哉は幾度となくその誤謬ごびゅうについて諭してきたが、息子はそれを人の好い父が伯父と従兄を立てるためにやむなく言っていること、と話半分にも受け取っていない。

「アレが何者かなどと関係ない。直志のようなものを長といただくことは我が一族にとっての不幸――それを正す時がきただけのことだ。何も恐れることはない」

「――はい。義直さまの仰る通りです」

 主の力強い言葉に、従者は目が眩んだように頬を紅潮させて同意する。

 愚かで忠実な娘は主人を思いとどまらせる最後の機会を自ら手放した。


 ――義直の母、瑞穂みずほは疑いなく愛情深い女だった。

 歴史ある退魔師の名家に末子として生まれ、高い霊力を持ちながらも生き方を強制されることなく蝶よ花よと愛されて育ち、良き夫と結ばれ子宝にも恵まれた。

 葛道瑞穂の人生は常に成功と幸福で満ちていた。

 そして彼女はそれを自分の努力の結果と信じて疑うことはなかった。

、それ故に年若い義理の甥に代行として一族を任せる現当主の瑕疵かしを見逃せず、夫こそが、彼にその気がないと見れば息子こそが名門葛道家を背負うべきなのだと思い込んだ。

 結局のところ彼女は、退魔師の家に生まれ同業の家に嫁ぎながらも、力以上に尊ばれるものはないという前提を、そうでなければそも生き残れないのだという真理をついぞ理解できなかった。

 その歪んだ認知は、悪いことに愛する息子へと受け継がれる。

 そして彼女の息子が生きる世界は、過ちの代償を払わずにいられるほどに優しいものではなかったのだ。

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