邂逅編 結:ビトレイヤーの幻視

『――ナオにい、どうしたの? 変な顔してるよ』

『今日な、すずりちゃんにお別れ言いにきてん』

『おわかれ? どうして? なんで?』

『ごめんなぁ、ボクもうキミにかまってあげられへん。やらなあかんこと、たっくさんできてもうた』

『やだ! 私がナオ兄のお手伝いするよ。なんでも手伝うから!』

『ありがとな。嬉しいわ、ホンマに。でもこれはボクが自分でやらなあかん、誰の手ぇも借りられへんねん』

『やだ! やだよ! なんでそんなこというの? 私が悪い子だから?』

『いいや、すずりちゃんはええ子や。アカンのはボクやねん――やからキミはええ子のまんまでおってな』

『ナオ兄? ナオ兄――!』


「なお、にぃ……」

 彼を呼ぶ自分の声で目覚めた。

 見慣れない部屋の見慣れない天井、それから全身の倦怠感。

 なめらかで少し冷たいシーツの感覚に、すずりは再びまぶたを下ろしたくなる強い誘惑にかられた。

 けれど、その前に――

「――ナオ兄?」

「ここおるで。どないしたん」

 声とともにぽんと頭に手が置かれる。

 それだけでかつての別れの記憶に呼び起こされた不安が消えた。

 すぐ隣りで片膝を立てて頬杖を突いた直志なおしは、部屋の大型テレビに映し出された洋画をつまらなそうな表情で眺めている。

 自分ではない遠くを見る横顔に、場面が切り替わるごとに形を変える青い光が複雑な陰影を落としていた。

 しばらくの間、ただだまって彼を見つめ続ける。

「すき」

「まだ寝ぼけとんの?」

 遠くを見ていた顔が、とたんに俗っぽく呆れた表情になってこちらを向く。

 短絡した思考がそのまま出力されたとはいえ、愛のささやきへの返事としてはあんまりではなかろうか。

 むっとしたすずりは彼の腿を軽く叩いた。

「あいた」

 直志が大げさに悲鳴をあげるのを無視して、小さな怒りにより活力を取り戻した身を起こす。

 相当に汗をかいていたはずだが、バスローブだけを着せられた体はさらりと乾いていて、不快な感じはしなかった。

「あ、寝とる間に体拭かせてもろたで。いや顔はべっとべとやし、体は汗まみれ、おまけに股も汁まみれでひっどいザマやったから。下着は枕元な」

「寝てたんじゃなくて気絶させられたんだ……! このノンデリ男……!」

 顔を真っ赤にしつつ、ひとまずショーツだけをとって布団の中で脚を通した。

 三つ折りで綺麗に畳まれていたのが逆に辱めを受けた気分にさせる。

「ひどいなあ、お礼がまず先ちゃう?」

「先に私をヤリ潰したことを謝るべきじゃないのか」

「ヤリ潰したて、記念すべきデートの日にはじめての失神絶頂をプレゼントしたっただけやん?」

「頼んだ覚えがないし、なにもかもがひどすぎる……!」

 ハイハイ、と例によって適当な返事をして直志がテレビを消した。

 ニイと口角をあげて、実に悪い笑みを浮かべる。

 思わず、背筋が震えた。

「でも、気持ちよかったやろ?」

「――この、女たらし」

「あっれ、よおなかった?」

 繰り返された問いを再度はねのけることはすずりにはできなかった。

「……すごく、よかった、けど」

「そらなによりで」

 くつくつと喉を鳴らして直志は笑った。

 意地は悪いし態度は最悪だけれど、言葉それ自体は裏表なく彼の本音だというのは察せられてしまう。

 想い人と通じ合っていると聞こえはいいが、いまだ責任を取ってもらう確約がないことを考えると素直には喜べない。

 アホ、と口の中だけで言って恨みがましい視線を向けるすずりの髪を、男の長い指が撫でた。

「どないしよか、シャワーでも浴びる?」

「ん……正直体がだるい、眠気もひどいし明日起きてからでいい」

「さよで」

「ナオ兄、添い寝。腕枕も」

「はいはい、ほんっと甘えた・・・な子ぉやね」

「こういう時くらい、ええやんか」

 言い返すと、肩をすくめたあとで直志が布団の中へ体を潜らせてくる。

 掛け布団がめくれた拍子に、むわりと漂った性交の残り香と熱に努めて平静を装いながら、すずりは彼の腕に身をゆだねた。

「――ナオ兄」

「ん?」

「キスして、初恋のお姫様に捧げるファーストキスみたいに優しく、だ」

「注文、細かすぎやろ。こぉのおひいさんはホンマに」

 苦笑しながらも、ごくごく優しく唇を重ねるだけのキスは及第点に達していた。

「おやすみ」

「ハイハイ、おやすみ。ちゃあんと起きるときには横にいたるから」

「うん――」


 §


「――ホンマ寝つきのええ子やなぁ」

 眼を閉じてすぐにすやすやと静かな寝息を立てはじめた娘の頬を軽く撫でて、直志は薄い笑みを浮かべる。

 とは言え今夜は中々に激しかった上、そもそも昼間にダンジョン探索で結構な運動をしている。無理もないところだろう。

 しかし梅田の地下にダンジョンとは。

 これで地球外の物質やら生物やら、謎のエネルギーやらが産出していたら確実に現代ダンジョンものがはじまってたのではないだろうか。

 ええよね、ボクも嫌いやないで現代ダンジョン。

 経済とか軍事周りの設定が大抵大味なところとか、序盤から厄ネタ匂わせといて大抵伏線回収までいかへんとことか。

 でも生憎、そっちの方向にはいかへんかった。

 出てくるのはあやかしだけでアイテムもドロップしなければ経験値が入ることもない、だから現代ダンジョンものはここでおしまいな上に、葛道直志の死亡フラグストーリーは今後も続いていくわけだ。

 クソが。

 いやでも考えたら現代ダンジョンものも脇役はよう死んどる気ィするな?

 世界の無常観というか、探索者という生き方の儚さをアピールするためのエッセンスに上手いこと死が使われるわけやね。

 つまりどのみちボクに逃げ場はないっちゅうことや、タチ悪ない?

「はぁぁ~……」

 世界はどうしてこうも残酷なのか。

 どうにも一人になるとクソデカため息をつくことが増えている気がする。

 昼にすずりの成長が感じられていなければいよいよ絶望していたところだ。

 そしてまた、気がかりなことが新たに増えたのも悩ましい。

 壬生みぶ唯月いつき、同い年の一級退魔師。

「唯月、唯月なぁ……さて何の話やったんやろ」

 当人へのあたりは強くなったが、直志としても全く情がないわけではない。

 ただ、不可解な存在であるのも事実だった。

 優男面がいけ好かないのもありはするが……なんかこう、あれはあれで主人公サイドを裏切って敵に通じていそうな雰囲気が出ているのが良くない。

 それと突っかかっているのはこちらでも、あちらもなにかこうこちらにたいしてじめっとした昏い感情がある気がするのだ。

 まぁ最強の座を奪われたという素直な理由もあるところだし、見当違いということもあるまい。

 とまれ次の機会があるのならば、唯月が言うとおりに落ち着いて話を聞く機会を設けるべきだった。

 なにせ仮に裏切りを起こすなら直志以上にいい手土産になるのもいない、関係の再確認というか再構築は必須だろう。

 油断しているとこう、毒を塗った伸びる刃物とかで刺されそう。

 従弟よしただのような目に見える動きなど知れている、真に恐ろしいのは目に見えていない動きなのだ。

 まぁでも人――退魔師と敵対しとるあやかしの組織とかないし平気やろ。

 ……なかったよな?

 知性を有するような強いあやかしは基本的に個人主義で、そも人に対するスタンスからして千差万別、一切のまとまりがないと来ている。

 だがもしそれらを結びつける何かがあるとすればおそらく、人への恨み。

 それゆえに前回のあやかしの一斉出現――関西騒擾そうじょうは危険視されたわけだが、動機は実に卑俗なものだった。

「ん……」

 となりのすずりが小さく身じろぎする。

 ――これくらいにしとこか。どうせ例によって材料ないしなぁ。

 物思いを中断しベッドサイドの明かりを消して直志もまた瞳を閉じた。

 眠っている間くらいはせめて未来に怯えずに済むようにと願いながら。

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