関西騒擾夜 5:雷神疾駆

「――ああぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」

 悲痛な女の声が響き渡る中、蹴り折られた左角はくるくると宙を舞ったあと、カンと軽い音をたてて道路に転がった。

あて・・の、あての角ッ……! 嘘じゃ、そんなぁ……っ!」

 それを目で追った栗駒くりこまは、もはや直志なおしのことなど忘れたように背を向けてそれへ一目散に駆け寄る。

 隙だらけの背を晒しての行為だった。

「ああぁぁぁぁぁ……!? いや、いやじゃ、こんなっ、こんなぁ……! うぅぅぅ、ぅぁぁぁ、うぁぁぁ~……!」

 ひざまずき、震える手で角を地面から拾い上げた栗駒は、それを両手で胸元へと抱えむと声をあげて泣きはじめた。

 ゆっくりと立ち上がった直志が、アスファルトの欠片を蹴り散らしながらそこへ近寄る。

「立てや。まだ左が折れただけで、右は残っとるやん」

 そうして鬼の哭く声に構わず、冷たく告げると容赦なく脚を振り上げた。

「ひっ……! やっ、やーっ! いやっ、もういやじゃ! いやじゃあ!」

 肩を蹴られた鬼が、子供のように高い悲鳴を上げる。

 直志を見上げる顔には、もはやひとかけらの戦意も残ってはいなかった。

 恐ろしいほどに整った美貌を、くしゃくしゃに歪めて栗駒は訴える。

「あて、あてらはただ、ちぃと遊ぼうとしただけえ? それをこんな……なんでこんな、酷い。あぁ、あての、あての角ぉ……!」

「やる気ないんやったら、ボクはかまへんよ。このままへし折ったるだけや」

 無論それが直志の心に響くことはない。

 つまらなそうに泣いた鬼を見下ろして、容赦なく鬼の残った右角を狙って蹴りを放つ。女の頭が後ろにのけぞった。

「ひっ!」

 霊力こそ込められているが、先の一撃と比べればさしたる威力はない、しかしそれでも角をかばうために栗駒は両腕で頭を抱えて体を丸めた。

「そ、そんな……! ゆるして、もうゆるしておくれえ? なぁ……!」

 その体勢のまま、叫ぶ。

「――そう、そうじゃ、話す! 今夜のこと、あてが知っているすべて話す! なれも気にしておったろう!? それでゆるしておくれ、な、な!?」

「いや、もうそんなん別にええわ。オマエぶちのめす方が大事や」

「え――」

葛道かずらみち殿!?」

「お、お怒りはもっともですが、言っていることが本当ならば無視は――!」

 慌てて声を上げた讃良ささらたちに、直志は意外なほどに落ち着いた声で答えた。

「いや、ええねん。今の態度で分かった。コイツらはな、別に大それたことなんて考えてへんよ。やから角を折られたくらい・・・・・・・・・で泣き入れよる。普通やったら怒り狂うとこやん、なぁ?」

「ひっ、やめて、やめとくれ……!」

 ボールでも蹴るように二度三度と栗駒の体を足蹴にしながら直志は続ける。

「さっき言うてたやろ『ちぃと遊ぼうとしただけ』やって――あれが本音なんよ」

「あ――」

「た、確かに……?」

 にわかには飲みこめなかったが、内容もまた筋が通っている。

 目の前の鬼があまりにあっさりと戦意を失ったのも、直志の言葉を裏付けているように思われた。

「いえ、しかしこの鬼がそうでも他でもそうとは限らないのでは……?」

「それやったらコイツもそう言うはずやで。でもまぁ、念のために聞いとこか」

「あぅっ……!」

 蹴りを入れる足を止めて、直志は栗駒の髪を掴むとぐいと顔を引き起こさせる。

 妙に手慣れて見える動きだった。

「おう、クソ鬼」

「な、なんじゃ……? なれ、いやお前様・・・。あては嘘は言わん、約束するえ。だ、だから何でも聞いておくれ……?」

 にへら、と恐怖でひきつった笑みを浮かべながら、栗駒は媚びた声で訴える。

 だが直志の目はそれを聞いて冷たさを増すだけだった。

「ほぉん、なら聞くわ。オマエらが何か切迫した理由があってのことやったら、これ以上はやめたる。ただしぬるーい遊び半分の理由やったら死なす――その上で、この騒動の狙い、全部話せるんか?」

「――――そ、それ、は……」

 鬼が言葉に詰まる、沈黙はこの上なく雄弁な答えだった。

 直志の観察眼に感心するとともに、この緊張と苦労はなんだったのか、と綾部の退魔師たちも栗駒へ冷たい視線を向ける。

「はぁ……」

「ひ――」

 誰かのため息に、鬼は大きく身を震わせた。

 女の髪から手を放して直志は立ち上がる。

「ほらな? こいつらはこういうことするねん。自分らが人より強い、上やと思うとるから好き勝手しよる」

「そ、それは違うえ! なぁお前様、その聞き方は意地が悪い! もっと別な聞き方をしとくれ。な? な? あてらは、本当に悪さする気はなかったんえ?」

「もう十分悪さはしとるわボケ。讃良さん、今の話管区指令に伝えてもらえるかいな。今日のあやかし連中相手に、死人出すのはアホらしいってな」

「――承知いたしました。言葉は、工夫いたします」

「頼んました。さぁ立てやクソ鬼。ボクは今メチャクチャ機嫌が悪いんや、せっかくやから大妖相手に何なら効くんかオマエの体で全部試したるわ」

「うぅぅ、ぅぅ~、あ、あてはもう喧嘩はいやじゃあ……なんでもする、お前様の式鬼しきになって働いてもええ! この通り謝るから、どうかゆるしておくれ……!」

 詰め寄る直志に、ついに栗駒は土下座の姿勢をとって懇願した。

 呆れていた綾部の退魔師たちさえ、おもわず哀れに感じるような真に迫る謝罪だった。

「……ほな、折れた角よこしや」

 わずかにトーンを落とした直志の言葉に、栗駒はぱっと顔を上げる。

 しばしためらったあとで、手のひらに乗せた角をそろそろと差し出す。

 まるで秘密の宝物を要求された子供のような表情を浮かべて問う。

「な、何に使うんえ? 呪具か? 供物かえ? なんにせよお前様が、大事に使ってくれるんなら……」

「決まっとるやろ、オマエのケツに突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたるんや」

「な――」

 そうして続いた直志の言葉に、絵にかいたような絶望の表情を浮かべた。

 きゅと指を閉じて折れた角をふたたび握りしめ、のろのろとした動作で胸元へ引き戻すと、うつむきながら左右に小さく首を振った。

「そ、れは、それは、いやじゃ……いくらなんでも、それはあんまりじゃ……」

 か弱い声で訴える大きな体がカタカタと小刻みに震えていた。

 申し出を断ればどうなるか、それを理解したうえでの苦渋の決断なのは声色からも見てとれる。

 ぽつ、ぽつと時ならぬ雨がアスファルトに落ちた。

「ほな決裂やな。立て、右の角もへし折ったる――何を泣くねん。ボクをぶち殺せばええだけの話やろ。そんな大事なんやったら死ぬ気で守れや」

 対する直志はまったく斟酌しんしゃくする様子もなく平然としたものだった。

「うぅぅ……! いやじゃあ、もう勘弁しとくれぇ……あてにお前様は殺せぬ、喧嘩をしても勝ち目はないぃ……!」

「まだどっちが強いかなんてわからへんやろ」

「今さっきで十分わかった、お前様のほうがつよい……! それに、それにもし万一お前様を殺せても、他のものがあてを殺しに来るじゃろう……!?」

「せやね。黒須くろすのお嬢ちゃんか、妖怪爺か……まぁどっちが来るにせよ、ボクに勝つようなあやかしを放っとくことだけはないわ」

「それがわかってどうして……! こんな、あてを嬲るような……!」

「オマエらの悪ふざけで人は死ぬからや。今日ももう犠牲が出とるかもしらん。やから二度と軽い気持ちでこっち側に来んように、徹底的にわからせ・・・・たる――オマエを見て別のんが思いとどまるくらいにな」

 特に激するわけでもない、感情がこもらぬ直志の言葉はそれだけに冷徹な覚悟が伝わるものだった。

 退魔師とあやかし、互いに言葉を交えることがあろうとも、多くの場合でそもそも前提とする共通の認識を持ち合わせないことは、あまりに多い。

「あてはみせしめと、そういうことかえ……?」

「せやで、一罰百戒いちばつひゃっかい言うてな。今夜ん中で、多分オマエが一番いっちゃん強いんやろ? 都合がええ。それとこれは八つ当たりなんやけど――」

 それを今さらに栗駒は理解した。

「そもそもボク、鬼は嫌いやねん。特に女のんはな」

 自分は虎の尾をそうとは知らずに踏みつけにしていたのだと、それまで直志が隠し通していた強烈な敵意が教えてくれた。

 そのおおもとにあるのは怒りではなく、怨み。

 昨日今日のものではない、もはや拭えぬほどに長い年月に積み重なった念が込められている。

「っ、そうか、そうか……そもそも出てきたあてが、馬鹿だったのかえ」

 後悔を口にしながら折れた角をジャケットの内へとしまいこんで、栗駒は立ち上がり、そうしてせめてもの抵抗をするように腕をあげ構えを取った。

 しかしそこにはもう大妖と呼ばれるに相応しい力も覇気もありはしない。

 ただ諦めも受け入れもできない運命を前に、逃げることさえも許されず立ち尽くしているだけだ。

「そういうこっちゃ、ええ勉強になったやろ――ま、生きとったら次に活かしや」

 対する直志はまさしく意気衝天。

「生きとったらな」

 すでに全身を駆け巡る霊力の余波が、雷となって大気を焦がし、震わせている。

 カーテンコールの拍手のように万雷が鳴り響く。

 鬼を打ち負かす運命が、そこに人の形をして立っていた。

「あぁ、やっと思い出したえ、そのいかずち。覚えがある。そうかお前様はせきりゅう・・・・・の子、雷神の血脈――」

 古来かみなりとは、神鳴りだった。

 ならばそれを鳴らすものは、すなわち神に他ならない――

「死ね」

 雷神がく駆ける。

 ――決着を告げる轟音とともに生駒山から天へと上った雷は、実に長さ十三キロメートルにも達したという。

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