関西騒擾夜 4:疾風迅雷を放てッ

(――死んだ?)

 道路に埋め込まれる勢いで視界から消えた青年の姿に、見守る退魔師たちの浮かんだのはそんな思いだった。

「――!」

「――――ッ!」

「待てッ、動くな――!」

 最悪の想像が自らの頭をよぎる中、綾部あやべ讃良ささらは思わず飛び出そうとしていた班の部下たちを手振りと声で制する。

 多少の距離があり、直志なおしの警告に備えてなお破裂音の被害は甚大だった。

 彼らが何を言っているのか、むしろまず何かを言っているのかはもちろん、自分が正しく言葉を発せているかさえもあやしい。

「――――ッ!」

「我らが行って何になる! 直志殿の言葉を忘れたか!」

 闇を見通すべく霊気を回して、暗闇の戦場に目を凝らす。

 鬼に踏みつけにされた直志はぴくりとも動かなかった。

 それでも今は動いてはならない。

 わずかに数瞬。

 直志が言っていた通り、自分たちがあの鬼に立ち向かったところで数度の瞬きのあいだに蹴散らされて終わりだ。

 彼の覚悟を考えれば、決してそんな無駄は、我儘は許されない――!

「ほれ、どうした? 死んだふりかえ?」

 その思いを込めて見つめる視線の先、無造作に持ち上げられ、下ろされた鬼の足が直志ごしにアスファルトを砕き、彼の頭を完全に地面の下へと埋め込んだ。

 そこから更に二度三度と足蹴にしたあと、栗駒くりこまは動かなくなった彼の様子をうかがう。

「――なんじゃ。これくらいで正体を無くすとは、案外だらしないのお」

 嘆息した鬼は頭を鷲掴みにすると、腕一本で軽々と青年を自らの頭上まで持ちあげた。

 吊りあげられた直志の体からは、完全に力が抜けている。

 鬼の女はそんな彼をぽぉんと二メートルは上へと放り投げると、空中で左の足首を掴んだ。

「ほれ」

「ヒッ……!」

 そうしてぶんとタオルでも振り回すように軽々と腕を振るう。

 見守る綾部の退魔師が、思わず声を上げるおぞましい風きり音のあと、直志の体が鈍い音を立ててアスファルトの地面にぶつかり、反動でまた浮き上がった。

「――はよう起きんと、そのまま死んでしまうえ?」

 鬼が腕を振る動きに遅れて、再びその体が弧を描く。

 そうしてそのまま栗駒は幼児が乱暴に人形を扱うように、直志の体を右へ左へと振り回しては地面に叩きつけはじめた。

 その度に人体が、出してはいけない低く鈍い衝突音をあげる。

「ほれ、はよう」

 そう呼びかける表情にも動きにも悪意は感じられない。

 はよう、はようと繰り返しながら、ただ子供のような無邪気さで鬼は人の体を弄び、破壊しようとしていた。

「く……!」

「お、おのれぇ……ッ」

「――むごすぎる……!」

 聴力が戻って来た耳に、人の体が地面に叩きつけられる物騒な音に混じって部下たちの悲痛な声が届く。

 讃良とて、立場がなければそうしていただろう。

 それを噛み殺せたのは彼らを率い、直志に後を頼まれた者としてのせめてもの意地ゆえだった。

(このまま負けるなど、さすがに恨みますよ直志殿――!)

 しかし、こんなものを見せられたあとで、どうやって笑えというのだ。

 悪印象はあった、だが示された思いにそれを全てくつがえされた。

 その上で、その相手をこうも無残に扱う相手に、媚びて笑って時間を稼げなど、必要だとわかっていても耐え難い拷問だ。

 そんな企みなど、いっそすぐに露呈してしまえばいい、そんなに命が惜しいかと嗤われればどれだけ楽か――あぁダメだ。

 そんな楽を願ったあげくの無意味な死など、やはり合わせる顔がない。

(だから、どうか)

 あやかしとの戦いで希望的観測など持つべきなどない。

 だがそうであってもそれしかできないのなら、願わずにはいられなかった。

(立って、戦ってください――!)

 はたして、その願いが届いたように突如として直志の体は再起動する。

 振り回されるだけだった四肢に力がこもり、叫びが上がった。

「――なめんなっ、メスブタァッ!」

「ぎゃっ!?」

 ぶんと十何度目かの振り上げる動きに乗じて、叫びとともに振るわれた踵が鬼の角に突き刺さった。

 ミシリ、と軋んだ音があがる。

「ああああ――ッッ!?」

 そしてそれをかき消すほどに、大きな悲鳴が響き渡った。

 人一人をたやすく振り回す鬼の膂力、直志自身の重み、それによって生まれた速度という破壊力・・・・・・・・

 それを踵という一点に集め、さらに霊力が込められた反撃は、鬼の長い左角に目に見えるほどのヒビを入れることに成功していた。

あて・・のっ、あての角ぉっ!?」

 それに気づいた栗駒は直志から手を放し、慌てて頭を押さえてうずくまる。

「ぐっ……!」

 放り出された直志は受け身もとれず地面に叩きつけられ小さくうめいたあと、ゆらりと幽鬼のように立ち上がった。

「よおもまぁ、好き勝手してくれたなあ……!」

 地の底から響いてくるような恨みのこもった声で吠える。

 土まみれ、傷まみれではあったが四肢が折れた様子もなく、先ほどまでの惨状を思えば意外なほどにその動きはしっかりしていた。

 戦意旺盛な様子といい、深刻な負傷をおったわけではないらしい。

 おぉ、と綾部の退魔師たちから驚き交じりの歓声があがった。

「ふぅ……」

 讃良もまたしらず安堵の息を漏らしている

「ああぁぁ……ああぁぁ……!」

「おう、たかが角一本折られかけたくらいでなにこの世の終わりみたいにへこんでんねん、ドブカスが……!」

 すすり泣くように背を震わせる鬼に向かいながら、擦り傷まみれの顔を乱暴に拭って直志は悪態をつく。

「たかが、角一本じゃと――?」

 きっ、と振り向いた栗駒くりこまの目には、怒りの炎が燃えていた。

なれ・・は、あての、あての大事な角に傷をいれたんえ……!? なんで、こんなひどいことを……!」

「ヒビくらいでなんや、今から綺麗にヘシ折ったるわ!」

「――ひっ」

 しかし負けぬほどに怒気のこもった直志の本気の一喝に、その意気はすぐに消し飛んだ。

 慌てて立ち上がるも、それは戦うというよりも身を守るための反応。

 鬼の顔に浮かんでいるのは紛れもなく怯えの表情だった。

「い、嫌じゃ、いやじゃ来るなぁ……!」

「――ッらァ!」

 そこへ気合の声とともに直志が間合いへと踏み込む。

「ぐっ……!」

 顔を狙った直志の拳を栗駒が交差させた両腕で防いだ。

 鬼を翻弄ほんろうしていた神速のそれとは違い、防御が間に合う程度の速さしかない。

 かわりに響いた鈍く低い打撃音は、先ほどまでの比ではない重さがあった。

 とても生物の肉体がぶつかってあがる音とは思えない重低音だ。

 たとえ霊力で強化した体、大妖たるあやかしの身であろうと、打った方も、打たれた方もただではすむまい。そう思えた。

「しゃあッ――――!」

「ぐぅ……おの、れぇ……!」

 しかし委細構わずと直志はそんな重い一撃を繰り返し叩き込んでいく。

 鬼の手痛い反撃を受けたかに見えたが、その拳の嵐は防御の上からでも鬼を叩きつぶさんばかりだった。

 伝承の時代から変わらぬ怪力乱神、大妖たる鬼をただ一人の人間が真正面から圧倒している。

「これが、関西最強の力……!」

 見守る綾部の退魔師たちの声には、畏敬を越えて畏怖の念さえこもっていた。


 §


「とっととくたばれや、カスが――!」

 痛みは覚えた・・・・・・

 今も体中を軋ませているそれは、ふと気を抜いてしまえばもはや立っていられなくなるかもしれないくらいだ。

 だが耐えられた、耐えている。ならばまだ戦える。勝利する。

 ゆえに直志は前へと出た。

 コイツは、自分の終わり・・・・・・ではない――!

「ぐぅっ……! なんじゃ、また拳が重く……!」

 不覚を取り、肉を焼く前の下ごしらえのように叩きつけられまくったからこそわかった。

 どの程度の霊力を防御に回せば、耐えられるのか。

 ならば不要な分は全てを攻めに回せる、掠らせもすまいと大げさに急ぎ、距離を取る必要もない。

 もっとも野蛮な戦い、互いの拳が届くクロスレンジの接近戦で仕留める――!

「こ、のぉ……!」

 ぶぅんと顔めがけて振るわれた鬼の拳を顔をひねってかわす。

 風圧を抜けたあと、掠めた右頬にピリピリとしびれるような痛みを覚えた。

 右耳はもっと燃えるように熱かった、肩が一気に濡れていく感覚を思えば、あるいはちぎれ飛んでいるのかもしれない。

 だが、それは直志の戦意を何ら損なわせるものではなかった。

 むしろ痛みと怒りが心の火にくべられて、いっそう強く燃え上がっている。

「――しゃあッ!」

「ぐっ……!」

 半身になりつつ踏み込んで、鬼の胸その中央に右の肘を叩きこむ、衝撃で後ろに下がったところへ、そのまま握りこんだ右拳を鉄槌のように振り下ろした。

「がっ……!」

 うめき声をあげて栗駒が下がる。

 続けて更に一歩、踏みこみながら左の拳を再度胸元へ打ち込んだ。

 ごほっ、と鬼の喉から水っぽい咳が漏れる。

「っ、ごっ――ォォオ!」

 空気の壁を抜くような「ボ」と物騒な音をあげ、大木さえ蹴り折りそうな鬼の右脚が唸る。しかしそれはいかにも苦しまぎれ、見えすいた一撃だ。

「ンなもんもらうかボケッ!」

 すでに初動で見切った直志は逆に鬼の懐に飛び込んで間合いを潰し、上げた腕と左肩を内腿にぶつけて威力を殺しきった。

 内に飛び込んだ勢いを身をひねることで右の拳に乗せ、不安定な姿勢となった鬼の脇腹をしたたかに打つ。

「ぐ――!」

 どんとまるで交通事故のような音がひびいて、女の身がくの字に折れた。

「――っ、う、があぁぁぁぁぁ!!」

 しかし鬼は大きく吠えてそれを堪え、外から内へと、張り手の要領で右腕を振りまわす。

 ごおっと背筋を寒くさせる勢いで風が唸った、だがそれは空を切った音だ。

 屈みこんで軌道の外へとすでに逃れた直志は、さながら飛びかかる前の蛇のように地で力をためている。

「――逝っとけや!」

 周囲のアスファルトの欠片を跳ね上げる震脚とともに、伸びあがった右の掌底が鬼の顎を撃ち抜く。

 拳を握るのはやめた。華奢に見えるそこが梵鐘の重みと手ごたえをもつなら、この腕を撞木しゅもくとして揺らし、吹き飛ばすまで――!

「っ!!」

 がちん、と歯が打ち合わされる音がした。

 鬼の顔がのけぞり、褐色の喉があらわになる。

 分厚い体の中で相対的に細い、女のくびだった。

 がく、と栗駒の片膝が折れる。

「――やったか!?」

「ッ、ちょお……!」

 綾部の退魔師の誰かが上げた言葉に、思わず直志は素で抗議の声をあげかけた。

 その隙を、鬼も見逃さない。

 体を投げ出し、直志の体に抱き着くように鬼が両腕を広げた。

 血の混じった泡が口元を汚している。

「――なれぇ、よくもよくも女子めのこの顔をぉッ!」

「ワレもさんざ男の頭ァ足蹴にしよったやんけ!」

 栗駒の声には余裕も覇気もない、悲痛でさえあった。

 だが追い詰められればネズミでさえもネコを噛む。ましてそれが鬼ともなればその悪あがきは巨岩だろうと砕き得るだろう。

「オォォォ――――!!」 

「クソがッ!」

 悪態が直志の口を突いて出る。

 膝が崩れかけていたこともあって栗駒の腕は直志の腰、文字通り動きの要を捕らえる高さに来ている。倒れこむ動きも手伝い、速度も十分に鋭かった。

 上へも下へも、そうして後ろへも逃れられない。

 逃げ場はない――ならば踏みとどまるまで。

「なめんな言うたで、メスブタァっ!」

「なっ!?」

 叫び両腕を広げた直志は、逆手で鬼の手首をつかんだ。

 おそらく大型肉食獣の咬合力をも上回るだろう、鬼の膂力りょりょく

 それを決して万全とはいえない姿勢で真正面から受けとめ――否、右を受ける左は拮抗にとどまれど、左を取った右の腕は逆に下側へと捻りこもうとしている。

「あてが、力で負けるのかえ!?」

「力だけや思っとるんか、ドアホッ!」

 言って直志は一切のためらいなく鬼の角へと自らの額を打ち付けた。

 ごっと鈍い音のあと皮膚が裂け、赤い花が咲くように血が飛び散る。

「覚悟もなんも、ボクのが上やッ!」

「ぎゃあああああ――!?」 

 だが悲鳴を上げたのは鬼の方だった。

 すでにひび割れた角への衝撃は、痛み云々ではない恐慌を引き起こす。

「やっ! いやぁ――! やっ、やぁ――!」

 幼女のように外聞もなく叫び、掴まれた両腕を振りまわして直志の手を引きはがすと、そのまま彼を近寄らせまいとやたらめっぽうに腕を振る。

 狙いも意図もない子供の駄々のようなそれも鬼の力であれば十分に脅威となる。

 その難から逃れるために直志も一歩を下がった。

「あっ、あぁ……!」

 すでに涙を浮かべている鬼の目に、一瞬だけ脅威を遠ざけた安堵の色が浮かぶ。

 今度は直志がその隙を突く番だった。

「――――ッッ!」

 発せられた鋭い呼気は、ばちりと空気が爆ぜる音に隠された。

 右脚を後ろとした半身の姿勢から、それ・・は始まる。

 栗駒の目にはこつぜんと直志の上体が消えて見えた、離れて見ていた綾部の退魔師たちは崩れ落ちるように前へと倒れこむ姿に、限界なのかと息を吞んだ。

 果たして、前方へくるりと投げだされた体に遅れて、鋭く弧を描く右脚が鬼の首を取らんと跳ね上がる。

 武を知らぬ鬼がその技を知る由もない、まして直志は今この瞬間まで攻め手のほとんど全てを拳打でまとめていた。

 それは隙の大きい動きを嫌ったほかにその瞬間・・・・まで札を伏せておく意味もある。

 そしてそのためにそもそも自分の角に・・・・・・・・・ヒビを入れたのはなに・・・・・・・・・・であったか・・・・・――それが栗駒の頭から抜け落ちた。

 予測は不能、ゆえに回避も不能となったその捨て身技の名を胴回し回転蹴り。

「が――ッ!?」

 意識と視界の外から振り下ろされた霊力の込もる足刀が、刃の鋭さでもって鬼の角を切り飛ばした。

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