関西騒擾夜 2:生駒の鬼
月のない秋の夜、山中にただよう息は白い。
大妖出現の兆候ありとの報を受け、まず生駒山へ急行したのは地元
揃いの黒装束に身を包み、白い狐面で顔を隠した彼らは、速やかに山を越える幹線道路の通行止めと結界による生駒山の封鎖を行った。
時刻はすでに深夜。
真っ当な人間が立ち入る時間帯ではないがことは妖鬼と見られる大妖が関わる。
運悪く付近に過敏な一般人がいようものなら、その強い気配にあてられてふらふらと山へ入りかねない。
必要な準備を万端整えたのち八名は、目標の確認とのちの本隊の案内のためにと山へ入り――すぐにその足を止めることになった。
すでに
無論、綾部の退魔師たちが気づいたように、あちらもまた彼らに気づいたはずである。
それでもなおすぐに動きを見せないのは、何らかの企みがあるのか、あるいはただの気まぐれか。
大妖の気配に誘われてきた有象無象のあやかしを処理しながら、子班は本命の動きに注視する。
「――妖力値は? 観測できたか?」
「はい、班長。波形からやはり妖鬼と思われます。妖力値は――およそ五十万と」
「ばかな、五十万だと……!?」
「いや、大妖なら十分考えられる数字だ、しかし……」
「静かに、気配を乱すな」
それはあくまで数字、目安に過ぎない。
だがもしそれとの衝突が避けられないとなれば、そのまま班の全滅を容易に想像させる絶望的な数字だった。
もとより手出し厳禁との通達があるとはいえ、妖鬼の側には控える理由もない。子班の面々が背に冷たいものを覚えるのは無理もない。
「――はっ…………はっ……」
おそらく誰も意識していないだろうが、彼らの息は重圧に乱れつつあった。
ただでさえ緊張は消耗を早くする。
それが身じろぎひとつさえためらわれるような極度の、となればなおさらだ。
班を率いる二級退魔師は、自分たちがもはや十全の状態で戦うことができない状況に陥ったことに気づいていた。
もっと悪いことに、このまま対峙が続けばこらえきれず、行動に移るものが出てくるかもしれない。
もちろん、その先に待っているのは死だ。
しかし動かずとも迫ってくるように思われる脅威に、ただじっと耐え続けるというのはあるいは戦うよりもよほど難しい事だった。
――本隊はまだか?
だというのに、それがもう今ははるか遠い昔のように思われてならなかった。
「ッ、班長、目標が動きだしました――」
班員の報告通りに、大妖が動く気配を感じた。
登りではない、山を下っている。
それも西、より人の多い大阪側への動きだった。それにつられるように、追い立てられるように湧いて出た小妖たちも同じ方角へ動きつつある。
「こらえろ、我らが命じられたのは監視だ。繰り返すが目標への手出しは厳禁。戦闘はあくまで木っ端を払うのにとどめろ」
舌打ちしたい気持ちをこらえて再度全員に確認し、取るべき手だてを考える。
一度引くべきか? おそらく、そうだろう。
だが術者が怯えたように引き下がれば、相手は与しやすいと見るはずだ。
それはいずれの付け入る隙となる前に、今このときに下山をためらう理由を無くすことにつながるかもしれない。
ならば――
「結界の手前ぎりぎりまで下がる。速やかに、しかし密かにだ」
応、と小さく班員たちが頷く。
果たして綾部の一斑はそれを見た誰もが見事と称えるだろう、統率を保った動きで山中から引き上げていった。
大妖の足はとまらず、けれど退魔師たちを追うために早まることもない。
己の望む通り、気が向くままの歩みで山を下ってくる。
「――よし、ここまでだ。備えて待て、ただし武器は構えるな」
「は」
結界の端に位置する道路まで戻り、班長は暴発の危険を考えそう告げた。
よどみない班員たちの返事に満足しつつ、耳が痛いほどに静まり返った生駒の山を見上げた。
市街とは比べるべくもなく暗い、夜の色に塗りつぶされた影。
いつもと変わらぬはずの山の姿は、今は異界のそれとも思われる穏やかならぬ空気で満ちている。
――はたして退魔師たちに遅れること数分、
部下に禁じたとうの班長が思わず腰の短刀に手を伸ばしかけたほどの、不吉で凶悪な気配、間違いなく妖鬼のものだった。
身の丈は、おおよそ六尺。
額からは左右非対称の長短二本の角が伸びている。
派手なファーが飾る黒のレザージャケットにピンクの
それでも遠目にでもはっきり女と知れたのは、きゅっと締まってから丸みを帯びる腰や、どんとせり出した豊かな胸のふくらみなどが、その性を主張をしてやまないからだ。
そうして街灯の光に陰を払われた顔が見えると、彫りの深い、恐ろしいほどに整った顔に不穏な空気がただよっていることがわかる。
洋風の衣服とまったく調和のとれないそれの中身をあおって、鬼はようやっと綾部の退魔師たちに気づいたように視線をあわせる。
「それなりの出方を見せれば、相応の歓待があろうと思うておったが――
涼やかな声、どうということのない問い。
しかしそれを聞いた退魔師たちの背に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走る。
「――っ!」
――まずい。これはまずい……!
鬼の言葉は綾部の退魔師たちを越えてさらにその先、ここにはいない関西の、今世の退魔師たち全体へと向けられていた。
「もしそうなら悲しいのう、かなしくてかなしくて――なにをしてしまうか、あてにもわからんのう」
自分を侮っているのか、という不満。
これほどに力のあるあやかしのそれが爆発したときに起こることなど、想像もしたくない。
ここで、少しでも意地と力を示す必要があるのでは?
自衛のためではなく、誇りのためでもなく、ただ必要のために。
もはや自らの安全を省みることもなく綾部の退魔師たちが霊気を練りはじめた瞬間、鬼がふっと視線を遠くした。
「ほう」
退魔師たちが待ち望んでいたものがやってきたのはその直後だった。
「――いやいや、
果たしてそれまではどうやって抑えていたのか、突如として背に感じた眼前の鬼にも負けない強い気配に、綾部の退魔師たちは思わず振り返っていた。
§
「いつの時代や思ってんねん。なぁ、キミらもそう思うやろ?」
世間話の最中に同意を求めるような気負わぬ声。
「
「や、だいぶお待たせしたみたいやね」
枯草色の髪が風に揺れる、書生風の服を着た長身の優男が片手をあげる。
関西最強の退魔師は、まるで散歩にでも来たような自然体でそこにいた。
ふっと肩が軽くなった気がしたのはわずかのことで、恐らく霊道を通って転移してきたのだろう彼が一人として供を連れていない事実が困惑を呼ぶ。
「代行殿おひとり、ですか?」
「せや、ここはボク一人で十分――やったらええんやけど、そうやない。大津と吉野に中妖複数、おまけに御堂筋に夜行の兆候や。今夜はどこも大荒れやで」
「なんと……」
それまでなんとか落ち着きを保っていた綾部の退魔師たちに大きく動揺が走る。
知らされた事態の重大さもそうだが、なによりもそれゆえにたった一人でここへやって来たという
「ま、あちらさんは、それで不満なさそうやし。ちょうどええやん」
言われてみれば、鬼は先ほどの不機嫌な様子などどこへやら、どっかと宙に
直志たちのやりとりを肴にでもしているのか、濃い酒精の匂いがあたりへ漂っていた。
「しかし、無茶です。奴の妖力値は五十万を超えています……!」
「ボクの霊力値は五十三万やで。それも、去年の計測や」
「な……!?」
化け物とは聞いていた、何人かは身をもって片りんを体感したこともある。
しかしまさかそれほどとは、と綾部の退魔師たちは息をのんだ。
「まぁ、そもそもゲームやないんや、そうそう数字通りに事は運ばへんで」
「それは、そうですが。せめて我らも加勢を……!」
「いらんいらん、どうせ急場で連携なんてとれへんし。あとな、これは管区指令から受けた正式な要請やねん。ボクが一人でなんとかせえってな」
ぴしゃりと言って直志は目を細めて口元をゆがませた。
「頼られんのは悪い気せぇへんけど、いや人気者はつらいで」
笑みを浮かべたのだろう。しかし、彼への印象がそう思わせるのか、どうにも小ばかにされた気がする表情だった。
「しかしまぁ、さすが綾部さんところの人らやね」
心のこもっていない言葉が続く、とくに家名を呼ぶところでは。
葛道直志が公然と批判する相手の中には、綾部家の現当主も含まれているのは周知の事実だった。
だがしかし、だからこそ続いた言葉の
「
「はっ――」
本来、その必要はまったくなかった。
けれど綾部の退魔師たちは主家に対してそうするように気づけば頭を垂れていた。
家のためにと陰での働きに徹する者たちが唯一の誇りとし、そしてなによりの報酬として望む、理解と称賛がそこに込められていたからだ。
「せやから、あとは任しとき。こっからはボクの仕事や」
そこへこう重ねられてしまえば、もはや否やもない。
「――承知」
もとよりどれだけ意気込もうとも直志と鬼の間に入れば、
それよりは今なおざわめく小妖たちの対処に力を割く方がよほど意味がある。
「ああ、それと最後に一点確認や。もし、万が一ボクが負けたらやけど、そん時はわかっとるね?」
「は、我ら全員刺し違えてでも鬼に一矢を――」
「
「は?」
「ボクが負けたあとのキミらの仕事は時間稼ぎや。命と引き換えても短い時間しか稼げへんで? やったらそれ以外と引き換えに、もっともーっと時間を稼いでもらわなあかん。それこそ無様に命乞いでもなんでもしてな」
「しかし、それでは――!」
「手段を選んでええんは、それでも勝てるやつだけやで」
「ぐっ――」
「キミらのプライドのために何人殺す気や? 黒須さんの嬢ちゃんか三重の妖怪爺かはしらんけど、アレに勝てる誰かがくるまで時間を稼ぐんが次のキミらの戦いや――それやって楽やないで」
命だけではない、必要ならばそれ以上のものも差し出せと直志は要求している。
だがしかしまず真っ先に己が命を懸ける者への反論は、この場の誰も持ち合わせていなかった。
「――承知しました。必ず、おっしゃられた通りにいたしましょう」
総意を長である二級退魔師が口にする。
満足げにうなずいた直志は、例によって内心のうかがえない笑みで続ける。
「頼むで。なに、鬼はみぃんな
「それならば演技の必要もありませんね、直志殿には鍛錬で何度か手ひどく叩きのめされたことがあります」
「言うやん。あー……、ゴメン、そちらナニさんやったかいな?」
「綾部家退魔衆、子班班長。綾部
「讃良さんな、覚えとくわ。ほな、ちょい下がっとき」
「は。ご武運を――」
「おおきに」
讃良はもはや直志の言葉を、この場では主家の命令と同様に扱うと決めている。
しかし、演技の必要がないと伝えたことだけは嘘だった。
葛道直志への悪印象は、今のわずかなやりとりですっかり裏返っている。
彼が弱者をさげすみ、嫌うのにも理由があると知れたからだ。
弱いということは、それを思い知らされるのは、これほどに誇りを傷つける。
退魔師であることを自ら選びながら、その痛みを知ってなお弱いままでいることに甘んじるなど、それは虫にも劣るだろう。
誇れる己でいたいのなら、なによりもまず先に強く在らねばならない。
葛道直志はその言葉で、振る舞いで、その全てでそれを眩しく示していた。
(どうか、無事の勝利を――)
だからその希望に、願わずにはいられない。
少しでも近づき、追いつけるその時までまばゆいままの存在でいてほしいと。
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