関西騒擾夜 1:夜が来る

「――ほなすずりちゃん、今日はこんなもんにしとこか」

「ん、早くないか? 私はまだやれるぞ」

 すっかり馴染んだ光景になった葛道かずらみち家での鍛錬中、いつもより早い終了を告げた直志なおしにすずりは汗を拭いながら怪訝そうな表情を浮かべる。

「案の定忘れとるなぁ、今日新月やで」

「あっ」

 月のない夜は、あちら側・・・・のあやかしたちが出てきやすい。

 では満月はどうなのかといえば、それはそれで浮かれてやらかしたりもする。

 ともあれ普段から逢魔が時よりのち夜明けまでが、退魔師にとって警戒すべき時間であり、なかでも新月の晩はその最たるものだった。

「ほどほどで切り上げて疲れを残さんようにせにゃあかんやろ。ボクも仮眠しときたいし」

「そ、そうだな」

 もっとも完全な昼夜逆転の生活を送るのはそれはそれで不便があり、日々各家で調整がおこなわれている。

 しかし新月の夜だけは、普段の備えに加えて二級以上の退魔師は即応態勢での待機が望まれていた。

 もちろん無駄になることもあるが、それでも外すことのできない備えである。

「しゃんとしてえな? ボクんところで習うようになった以上、前より周りには厳しゅう見られるんやから」

「わかった、しっかりと備えておこう」

「あんま不甲斐ないところ見せたら、カリキュラム組みなおすんも考えなあかんくなるで?」

「ナオ兄は心配してるのか、ただ不安にさせたいのかどっちなんだ……!」

「これくらいでおたつくようじゃあまだまだ甘いっちゅうこっちゃね」

「むう……」

 呵々かかと笑う直志に、すずりは不満げな唸り声をあげた。


 §


 夜、静かな私室で瞑想にふけっていた直志の背を、にわかに悪寒が震わせた。

 ほとんど遅れず目の前の畳へ置いたスマホが着信を告げる。

 長い指の先が画面をなぞり、応答した。

「はい、葛道」

『こちら関西管区指令局です。生駒山にて大妖の出現兆候が確認されました。波形からおそらく妖鬼と思われます。葛道家当主代行様、ご出動願えますか』

 若い担当指令コントロールの声は、少し上ずっていた。

 無理もない、大妖の出現となれば三年ぶりの凶報、緊急事態だ。

 今日こんにちあやかしは、不定形で名前もまだないような木っ端である小妖から、伝承でよく知られる妖怪・怪異である中妖、そして個としての名を得るに至った鬼や龍、あるいは土着の神をも含む大妖の三つの等級に分類されている。

 霊的結界のほころびをついてどこにでも発生する小妖たちに対し、中妖以上が最初に現れるのは多くが山中だ。

 時代が礼和へ移り、周辺の開発がどれだけ進もうとも、今なおは異界へとつながっている。

 厄介な話ではあるが、そうと分かっていれば今回のように備えることもできた。

「はいよ、準備はできとる。大妖相手や、ウチのは全員連れてってええやろ?」

『はい、大阪、奈良の各家にも協力をお願いしています。続報は随時お届けを』

「よろしゅう、現場は?」

『すでに地元の二級退魔師が率いる一斑が向かっています』

「そん人らに手出しは厳禁や言うといて。ただ下山の動きだけは見逃さんように」

『了解しました、そのように伝えます』

「急ぎやし、霊道使わせてもらうわ。許可、お願いします」

『はい――あ、少々、お待ちを――』

「――どないしたん」

『いえ、な、奈良の吉野、滋賀の大津にも複数の中妖出現との報が……!』

「手は? 足りとるん?」

 大妖ほどの脅威でなくとも、中妖が相手となれば数もだが質も求められる。

 それが二か所同時ともなれば、それだけで緊急事態だ。

『大津は叡山寺社連よりすでに迎撃が出たとの報、滋賀側も一級の壬生みぶ様が控えています。吉野には奈良側祭田まつりだ家より第一陣が。また現地に逗留中だった中部管区の雙葉ふたば家先代様から協力の申し出があったとのことです』

唯月いつきに三重の妖怪爺か、まぁ上等やな。ほな阪内戦力は予定通り生駒に――」

 まわしてくれ、と言おうとした直志の背をかつて感じたことがないほどの悪寒が走りぬけた。

『――え!? そんな、嘘――』

「指令、なにがあったんや」

 慌てた指令の声が、それがただの予感ではないということをすぐに裏付けた。

 問い返す言葉に、隠し切れない焦りがにじむ。

『しょ、少々お待ちください! 今、詳細の確認を――』

「あとでええ。間違うててかまへん、どこや!」

『み、御堂筋みどうすじ終点付近に、百鬼夜行出現の兆候あり、と……!』

「――ミナミか、まぁた面倒なとこに」

 あやかしたちの行進、百鬼夜行。

 一般人にどれほどの害を与えるかは集まったあやかしの性質次第だが、周辺の混乱は約束されている。

 なにせ告げられた場所は大阪の大動脈、深夜とはいえ最悪中の最悪だ。

 しかし純粋な脅威度でみれば、先の三件と比べれば低かった。

 それがこの場合は事態をややこしくする。

 容易に決断はできない、しかしまた時は一刻を争うのだ。

「兵庫と和歌山は? 西で動きはないんやね?」

『はい、そちらは今のところは。ただこの状況ですと備えは必要かと――』

「当然やね、泡食って地元を空けてそちらが本命じゃ目も当てられんわ」

 管区指令局は陰陽寮の地方機関で、縄張り意識の強い退魔師たちに各家の垣根を越えて市井を守らせるために全国を八つに分けて置かれた。

 過去の膨大な資料を基にして作られたマニュアルと霊力の計測に従い、それぞれ評価づけされた脅威に対し、必要な能力をもった人員の派遣を各家に要請する。

 属人的な力や権威に寄らず退魔師を広く運用するためのシステムは、時に形式的に過ぎるとの批判もありつつ、おおむねうまく対応してきた――これまでは。

 だが今回のこれは、明らかに管区指令局が想定していた規模を越えている。

 複数の中妖が二か所で同時に確認されるだけでも年に一度あるかないか、そこに大妖の出現も重なるとなれば、四半世紀前の大災害を思い出すような事態。

 明らかに一管区の指令が即断できる領域を越えており、それでも状況は断固たる決断を要している。

 ――こらしゃあないか。

 ふぅ、と長く息を吐いたあと、直志は努めて平静な声で言った。

「担当指令、葛道家当主代行としてご提案申し上げる」

『は、はい、うかがいます』

「生駒の大妖には葛道の一級ボクが独力であたります。かわりに阪内の動かせる戦力は御堂筋の対処に全力をあげていただきたい」

『お一人で? よろしい、のですか?』

「よろしゅうはないね」

 指令の確認に直志は皮肉気に言った。

 そうして続ける。

「それでも、夜行を抑えるにゃ数も頼まにゃどうにもならん。ほんで大妖にすぐぶつけられるんはどのみちボクくらい、他に頼れるんもおらんしな」

『し、しかし……』

「今は悩んどる暇も話しあう余裕もないで。そちらが決められんのやったら、葛道は勝手に動くわ」

『っ、了解しました。少しだけお待ちを――』

 瞑目し、直志は心中でカウントをはじめる。

 きっかり三十秒で返事は来た。

『承認、出ました。あらためて管区指令より葛道直志一級退魔師へ要請します。単独で生駒山へ向かい、出現した大妖に害意あればこれの排除をお願いします』

「たしかに承った――おおきに。おどかしてすんませんね」

『いえ、こちらこそありがとうございます』

 スマホを手に立ち上がり、直志は部屋を出た。

 廊下ではすでに家人が二人、影のように控えている。

「御堂筋に向かう面子の取りまとめは佳哉よしや叔父に任す、あっちについたら紫雲しうんさんの指示に従ってもろて」

「はっ」

「それからまたなんや起きたら、義虎よしとら大叔父おじ龍臣たつおみさんに判断あおいでや。さすがにボクもあっちにいったら余裕ないわ」

「かしこまりました……義直よしただ様はいかがいたしましょうか」

「あー、必要なら佳哉叔父なり義虎大叔父なりでうまいこと使うやろ。ボクからは特になしや」

「ではそのように」

赤穂あこ様がいらっしゃれば……」

「おらん人間の話してもしゃあないで、やれることやりゃええねん」

 つき従う家人たちに歩きながら指示を出して、必要な準備を済ませていく。

「――あぁ、そうや担当指令。他管区への情報共有もよろしゅうお願いできます? 特に四国の黒須くろすさんには確実に連絡が行くように」

『ご心配なく、すでに行っています』

「そら余計な口出し失礼。ええね、仕事ができる人は大歓迎や――あぁ、それならもう一つ。個人的なお願いをええかな?」

『はい、私にできることでしたら。なんでしょう?』

「今回の件、丸く収まったら食事でも一緒にどない? キミ美人やろ。ボクくらいやと声でわかるねん」

『――一度お会いしたことがありますよ、葛道さん。あいにく、その時はお褒めの言葉はいただけませんでしたが』

「あっちゃあ、藪蛇やぶへびやった……こりゃとっとと行けっちゅうこっちゃな。ほな霊道の使用許可、よろしく」

『はい、どうかご武運を。ランチがおいしいお店、探しておきますね』

「あんまお高いとこは勘弁してや」

 ふふ、という担当指令の小さな笑い声を最後に、通話を切って玄関を出る。

 そこにはすでに万端準備を整えた葛道家の退魔師たちが控えていた。

 皆もの言いたげに、じっと直志に視線を向けている。

 それを真っ直ぐに受け止めて、笑みさえ浮かべて直志は言った。

「――ほな、そういうことで。当主代行としての命や。葛道の術師は全員、大阪市内の混乱を防ぐのに力を尽くしや」

 元々は手勢を連れていく予定ではあったがそれはあくまで不測の事態に備えてだ。

 そしてそれ・・はすでに起こった、ならば使いどころは間違えられない。

「しかし、若!」

「やはり大妖相手にお一人では……!」

「若はやめえや。どのみち大妖相手に数は頼みにできひん、そんなんしたら何人死ぬかわかったもんやないで? さすがにボクもお守りしながらじゃ勝てんわ」

 突き放すような言葉に、食い下がった数人が悔し気に表情を歪めた。

 だがそれはまったくの事実でしかない。

「それとな? どこの誰やろうと退魔師と一般人、どっちの命が大事か。ボクもキミらも必要なら死ね言われて育ったはずやで。ここは意地の張りどころやろ」

「それは……」

「おっしゃる通りですが……!」

 なおも食い下がる家人たちに、直志は大げさに肩をすくめた。

「はぁ――そもそもな? 今キミらの目の前にいる男は誰やねん」

「……我らが主、一級退魔師にして葛道家の惣領、当主代行直志様です」

「せや、関西最強・・・・の退魔師サマやろ。一番いっちゃん強いやつが一番しんどくておいしいところ・・・・・・・は貰っていく、単純な道理やん?」

 謙譲けんじょうからではなく心底で嫌っているその呼び名を、直志が自ら口にする意図を誤解するものはいなかった。

 もはやその覚悟に意見できるものがいようはずもない。

「時は金なり、や――行くで。関西に葛道ありと見せつけるええ機会や思うとき」

「は――!」

 傲然ごうぜんと笑って告げる主に、皆自然と頭を下げていた。


§


「――なぜです、父上。なぜ私が待機など! 生駒には大妖が出たというのに!」

「管区指令の要請からそれが最善と私が判断した。もとより大阪・堺の市内は我ら紫雲が守る約定。万一にも失敗は許されぬ。備えがいる――和馬かずま君がまだ動けない現状、それはお前の役目だ」

 娘の言葉に紫雲家当主は苦々しい表情を浮かべながら答える。

 義弟である紫雲和馬に前線を任せ、当主は後ろで備えておくのが本来の紫雲家の戦力運用である。

 だが負傷により彼を欠く現状では、当主自身が陣頭に立ち、実力はあるが経験の足りぬすずりを予備戦力として残しておく必要があった。

 ――しかし好いた男の側にいられるようになって少しは落ち着いたかと思えばこれだ。

 だがその責任がどこにあるかを間違えるほどに紫雲家当主は愚かではなかった。

「ですが……!」

「すずり、お前は私や管区指令局よりものが見えているのか? そしてそれに従う各家の者たちよりも道理を弁えていると、そういうつもりか? 自重せよ」

「っ、しかし、今の私ならナオ兄の力にだって――」

おごるな――!!」

「ッ!?」

 聞きわけの悪い娘に、つい声を張り上げる。

 最近は頻度を減らせていた自らのその悪癖を、紫雲家当主は恥じていた。

 実の娘にさえ声を荒げなくてはものを言い聞かせられない男に、いったいどうして退魔師の一族をまとめられるというのか――そんな、己の器をしみじみと思い知らされるからだ。

「彼がお前ごときの力に頼らねば戦えない男か!? 葛道家の者はみな命に従って御堂筋に集まっている。主を守らねばならない彼らでさえ自重しているのだぞ!」

「それ、は……」

 自身にもう少し才気が、いや気概さえあれば妻に似てよくできた子供たちの成長を待つくらいのつなぎ・・・の当主など簡単にこなせたはずなのだ。

 生まれは紫雲家の傍流で、得意としたのは退魔の業よりもむしろ金勘定。

 だから本来は本家に婿入りするのは、才能に恵まれた兄のはずだった。

 それが兄の死でその役目が回ってきて、それでも才媛と名高かった本家の長女を婿として支えるのが当初期待されていたことだった。

 けれどそれさえも、妻の負傷からの引退によって変わってしまう。

 兄でも妻でもどちらかが健在であれば、長女すずりを家の頼りとするまでもなく、彼女がのぞめばいつでも嫁に出せただろう――いやまぁ希望先には一度きっぱりと断られてはいるが。

 しかしそれでも、たとえ望んだ立場でなかろうと今の紫雲家当主は己なのだ。

 投げ出すことはできなかった。

 三人の子供たちのために、そして兄と妻、敬愛する二人のために。

 たとえ彼らには遠く及ばない非才の身だとしても。

「己の願望を現実の問題とすり替える――そういう甘さ、弱さこそ彼がもっとも嫌うものだろう! すずり、お前は彼の元で何を学んだのだ! もののわからぬ子供でもあるまいに、遊びのつもりでいたのではないだろうな!?」

「っ、申し訳、ございません……」

「……わかればいい。御堂筋での指揮は私がとる。お前は不測の事態への備えだ。ことあらば私の指示を待たずに行動せよ」

「は、承知しました……お気をつけて」

「ああ」

 気落ちした様子の娘を残して当主は部屋を出た。

 襖を締めるとそれまでこらえていた息が漏れた。

「…………はぁ」

 ――子供でもあるまいに? よく言ったものだ、実際に娘はまだ子供といえる年だというのに!

 だがもはやそうであってもらっては困る、それが許されない道を選んだのは他でもない彼女自身なのだ。

 そして、それを是とせざるを得ない状況にしたのが己だった。

 苦い顔の下に全ての想いを押し殺した紫雲家当主に、それまで影のように付き従っていた家人が口を開いた。

「――ご当主。兵庫の神部かんべ家に生駒への助勢をすでに依頼してあること、お嬢様にはお伝えせずによろしいのですか?」

「なにも娘のためではない。若い葛道殿のかわりの根回しくらいは同じ大阪を守る家として当然のことだ」

 確かに、葛道直志は強い。

 だがそのせいか自分で多くを背負い込もうとしすぎる、こころがけは立派だが若くもあった。

 今、彼に何かあればその影響は葛道家どころか八家はっけにとどまらず、関西管区全域に及ぶことを理解していない。

「しかもそれとて兵庫あちらにも動きがあれば取りやめる、その程度の話でしかない。妙な期待を持たせるべきではなかろう」

「しかし……」

「それ以上は言うな。私も妻も、あれには少々甘すぎた。力だけではなく、いい加減独り立ちしてもらわねばならん」

「は――承知いたしました」

「ご当主!」

 ばたばたとあわただしい足音を立てて駆け寄る家人の姿に、紫雲家当主はらしくもなく虫の知らせを受け取った気がした。

 先んじて、問う。

「――兵庫でも、なにかあったか?」

「は、はい。六甲山地に大妖出現の兆候あり――妖狐だそうです」

「ばかな……! 大妖が一晩で二か所にだと……!?」

「――わかった。娘には知らせるな、これ以上余計なことに気を取られても困る。どのみち我らによそに構う余裕はないのだ」

「はっ!」

 力のあるあやかしは、別のあやかしを引き寄せるものだ。

 生駒の大妖につられて他のものが出てくるのはまだわかる。

「……気に入らんな」

 だがこうも立て続けに時期と場所をずらし、おまけに二つ目の大妖出現となれば、どうしても作為を感じずにはいられなかった。

 実際にそれがために娘の思い人は、いよいよ誰の助けも無しに大妖へと挑むことになっている。

 それでも彼ならばどうにかするだろうという信用はある。

 葛道直志を越える退魔師は関西にはいない、それは行くか引くかの判断においてもだ。

 しかし――

 気に入らん、と紫雲家当主はもう一度繰り返す。

「一体、何が起きようとしているのだ……」

 思わず漏れた思いに対する答えは、当然この場の誰も持っていなかった。

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