幕間 退魔師にはありがちな悲劇

「こちら、乙の二班。異常ありません。引き続き巡回を続けます。はい、はい、了解しました――」

 定時の連絡を終えて、スマホを懐にしまい込む。

 見上げた空、街の明かりで照らされる臥待月ふせまちづきの輝く夜。

 陽が落ちてからもうだるようだった暑さはようやく去りはじめていた。

「姉ちゃんさ、もうちょい場所を考えてくれよ」

 ふう、と息を吐いたところで背後から声がかかる。

 揃いの退魔師の装束をまとった弟は、屋上の床に描いた気配消しの陣の上でエナジーバーをかじっていた。

 屋上のフェンスから飛びおりて、彼の前に立つ。

 身長はもう抜かれてしまって久しい、一抹の寂しさとともに父に似てきた姿への頼もしさも覚える。

「別に、落っこちやしないわよ」

「そうじゃなくて、あんな目立つところで霊気を出してたらどこから見られるかわかったもんじゃないだろ」

 小言癖までは似てくれなくて良かったのにとも少し思うが。

「それであやかしが寄ってくるなら手間が省けていいじゃない。こんな街中、小物しかいないんだし。あんまり弱気でいないでよ、二級への昇級試験アンタと一緒なんだし」

 三級退魔師と二級退魔師で待遇は大違いだ、もっともそれだけに任務の危険も増すが、それを避けたいのならばそもそも退魔師になどなるべきではない。

「だからこそ言ってるんだろ……」

「なにがよ、ここで二級にあがれば代行様とお話しする機会もできるだろうし、大事な時期なんだから」

「ミーハー」

「なによ、悪い? ウチの代行様は関西最強なのよ? おまけにお顔もお声も素敵なんだから」

「どーせ姉ちゃんみたいなちんちくりん相手にされないって」

「あんたの明日の晩のおかず、一品減ったわよ」

「ひっでぇ! 兵糧攻めは反則だろ!?」

「姉弟喧嘩にルールは無用なの、そもそも先に個人攻撃してきたのはそっち」

「それは悪かったけどさ……こういう時期が一番危ないって師匠も言ってたぜ? 浮かれないようにって口酸っぱくしてさ」

「はいはい、わかって――――」

「――姉ちゃん」

「ええ、感じた」

 あやかしの気配に、脇にたばさんでいた折り畳み式の錫杖を組み立てた。

 弟もすでに独鈷杵どっこしょを構え、正確な位置を探ろうと首をめぐらせている。

 方位は東、妖気を隠すこともなく、間違いなくこちらへまっすぐに向かってきていた。

「強い気配が一体。どう考えても小妖じゃあない、中妖がなんでこんなところまで……報告は?」

「――来てない。結界を抜けてきたんだ、街中まで」

「そう、あたしたちが最初に見つけたってことね、あんたは陣から出ないで。捉えられたのは多分あたしの霊気だから――ごめんね、今度から気をつける」

「やめてくれよ、姉ちゃんが謝るなんて……! 逃げながら、時間を稼ごう!」

「馬鹿ね、それで一般人に被害が出たらどうするの? お父さんとお母さんになんて言うつもりよ」

「それ、は――!」

「ここに来てくれるなら好都合、心配しなくても別に時間稼ぎくらいあたし一人でできるわ。あんたはもしもの備え、いい?」

「でもよぉ!」

「なら命令。班長はあたし、あんたは班員――いいわね?」

「ッ……わかった。でも無理すんなよ」

「生意気、誰に言ってんの? ――本部、こちら乙の二班。中妖の気配を察知、数は一。向こうにも気づかれました。至急救援を願います」

『――了解、すぐに向かわせる。無理はするな』

 手短に報告を終え、腰のポーチから人型に切り抜いた和紙を取り出す。

「さぁ、どっからでも来なさい……!」

 白い人型がざぁと風に乗って屋上中に散った。

 警戒のために放った式神人形は二十を超える、三級退魔師ならば破格の数。

 しかしそれが一瞬で五枚、抜かれた。

「ッッ!?」」

 結界が抜かれた方向へ振り向こうとした矢先に、足首に激痛が走る。

「姉ちゃんっ!」

 ぐらりと揺れる視界で、弟が叫んでいるのが見えた。

(馬鹿、声を出したら陣の意味が――)

「――見ツケタ、メスカ」

 直後、左から顔を打つ強烈な衝撃に退魔師の娘は意識を手放した。


 §


「――っ、痛……!」

 覚醒して最初に感じたのは痛みだった。

 刺し傷、切り傷、打撲傷――退魔師となることを決めた日から、そのどれとも泣きながら付き合ってきた。骨を折ったのだって一度や二度ではない。

 それでも今日ほどの痛みを感じたことはなかった。

 力の入らない腕や脚は折れている気がするし、寒気がしはじめた手のひらは、貫通した刺し傷のせいで指を動かすのさえためらわれるほどに痛む。

 顔も左半分が、じくじくとした熱を持ってひどく疼いていた。

「いっ……ぎぃっ……!」

 そんな状況だっていうのに、どこの馬鹿が体を揺するのか。

 涙でにじんだ視界には、うつぶせで倒れる弟の姿があった。

 半死半生の血まみれで昏い目をこちらへ向ける彼は、奇妙なことに天井にはりついている。

 いや、これは仰向けの自分が頭側に倒れている弟を上目で見ているためだった。

 どうしてこんな不自然な姿勢でいるんだろうと思っても、全身の痛みだけでなく、体にのしかかる重みが動くことを許さない。

「ねえ、ちゃん…………っ!」

 あぁ、けれど弟が呼んでいる。

 泣きそうな声で、こちらに手を必死に伸ばしている。

 いかないと、傷だらけの弟を早く助けてあげないと、だってお父さんたちともそう約束したんだから。お姉ちゃんのあたしが守ってあげるんだって――

「――オイ、コッチヲ見ロ」

「ヒッ……!」

 その現実からの逃避を、濁った声と生臭い空気がさえぎった。

 ――いやだ、いやだ、いやだいやだ。

 見てしまったら、すべて理解してしまう。

 体にのしかかる謎の重み、上下さかさまで揺れる視界、それから下腹部を貫く鈍い痛み、それらすべての理由を。

 自分が何から目を逸らし、今何をされているのかを理解してしまう。

「コッチヲ見ロォ……!」

「いや……いや……」

 こんなのは嘘だ。何かの間違いだ。

 こんなのが、現実であっていいはずがない。

「弟ダッタカ? アッチノオスヲ殺シテヤロウカ」

「あぁ……うぁぁぁ……」

 だがそんな娘の願望を、無慈悲な現実は斟酌などしない。

 生臭い息とともに降ってきた言葉に観念した。

 ただの逃避のために、最後に残った家族までを失うわけにはいかなかった。

 意を決して視界を、正面へと戻す。

 直後、ごうっと吹き抜けた一陣の風に思わず目を閉じた。

 ふっと体にのしかかっていた重みが消える。

「――え」

 おそるおそる目を開けたときには、視界には臥待月の輝く空が広がっていた。

 それから、こちらをのぞき込むキツネ顔の男性が。

「なおし、さま……?」

「おう、ボクやで」

 冗談っぽく葛道かずらみち直志なおしが微笑んだ。

 夢かな? と半信半疑の中、それでも胸に暖かいものが満ちていく。

 けれど同時に泣き出したくなる衝動もそれを追いかけて広がる。

「ぁぁ、あぁ……あぁ――……!」

 喉が震える、自身でもよくわからない何かが内から飛び出そうとしていた。

「ああ、ちょっとしんどそうやな。もう休んどき・・・・

 それを額に触れた大きな手と、心地の良い男の声が抑え込む。

 まぶたが急激に重くなった。

 ――待って。

 もう少し、あと少しだけ、どうかこのときの記憶だけ・・・・・・・・・をのちには思い出せるように、心に焼き付けておきたい――

 そう考えながら優しく自分を見つめる直志を見上げた娘は、二秒と持たずにやがて意識を手放した。


 §


「こら間に合ったとは言えんなぁ」

 血と体液で汚れた半裸の娘に自らの羽織をかけてやりながら直志は頭をかいた。

 言霊で眠りに落とした娘の目、そこに映っていたどこか曖昧な光。

 正気と狂気の境目から「なにか」が生まれようとしていた。

 命は間違いなく助かる、だが果たしてまた戦えるかどうか。

 もう一人、倒れている青年の様子も確かめる。

 より重傷の彼はすでにもう意識がなかった、危険な状況ではあるがまだ間に合うだろう。しかし――

「これやから男女で組ますのはやめえ言うたんに」

 男は殺す、女はなぶる。

 それが人に祟る類のあやかしの基本行動だ。

 理由など問うまでもない。

 昔から退魔師はあやかしを払い、あやかしは人の領域を犯してきた。どちらが先を論じるまでもなく恨みは互いに積みあがっている。

 さてでは男女が揃えば?

 犯しながら殺すか、殺しながら犯すか。

 どちらにせよまぁ碌でもないことになるのがお定まりだ。

 いや、嬲り殺そうとしたがゆえに今回は二人とも命を拾ったと見れば、意味はあったのか。

 手放しで喜べる事態ではないが、そもそも負けること自体がすでに不本意――

「グ、ガギ……」

 物思いを不快な濁声が遮る。

 カエルとトカゲを掛け合わせたような、妖魔と分類されるあやかしは、いびつな二足歩行の人型を更にゆがませた姿でそれでもまだ立っていた。

「ありゃ生きとったか、ボクもまだまだやね」

 蹴り殺したつもりだったが、娘と近かったために加減が過ぎたらしい。

「ヨ、グモ、ジャマヲ……!」

「ごめんなぁ、無駄に苦しませて。今楽にしたるわ」

「ジ、ジネッ!」

 ヒュンと風を切る音、長く垂れた舌が何倍も伸びて、直前まで直志の頭があった場所を貫く。

 銃弾の速度にも匹敵する、姉弟を倒した一撃。

 だが、今度の相手には分が悪かった。

「トロすぎるわ、隙だらけやで」

 まさしく瞬殺。

 背後に回り込み手刀で一撃、告げたときにはすでに首をねている。

 カエルに似たあやかしの顔が、意外なほど豊かに驚きの表情を浮かべて転がる、それを直志はためらいなく一息に踏みつぶした。

 せいぜいが並の中妖など彼からすればこの程度だ。しかし――

「この子ら、確か昇級の話も上がっとった姉弟やんな」

 直志に限らず、葛道家の退魔師は関西では上澄みに入る。

 当然のことだ、そうあるように命じていた。

 だがそれでも有望株の三級退魔師二人で、たかが中妖一匹に手も足も出ない。

 それが今の現実だった。

「たっかい靴は汚れるわ、頭痛いでホンマ……メイちゃんはまぁ許してくれるやろけど、今度埋め合わせもしたらんとなあ」

 姉弟のこれから、中座したデート、あやかしの体液で汚れたお気に入りの靴。

 それらすべての問題を直志は同列で考える。

 起きたことは紛れもない悲劇だ、けれど特段珍しいことではない。

 あやかしに負けた退魔師にはありがちな顛末てんまつ、むしろ二人そろって命があるだけ彼女たちは運がいい。それが純然たる事実だった。

 一族を率いる当主代行には、姉弟を哀れに思おうともそれにおぼれる贅沢は許されない。少なくとも、直志はそう思っている。

 一方で、中妖発見の報ののち連絡を絶った三級退魔師の捜索にいの一番に飛び出したことも無理なく正当化できた。

 もっとも早く、もっとも安全に様子を確かめられるのは最強最速の直志であるのだから。

「代行!」

「申し訳ございません、お休みのところを……!」

「かまへんよ、家のもんの命のが大事やわ。それよりはよ運んだって、男の子の方が重傷や」

「はっ!」

 遅れて駆けつけてきた家人にあとを任せて、直志はスマホを取り出した。

「――おう、山桜桃ゆすら。今ちょいええか?」

『いいけど。アンタの連絡なんてどうせ頼み事でしょ? 言ってみなさいよぉ』

「話が早うて助かるわ。あんな、記憶処理の得意な術師、今手ぇ空いてへん?」

 電話の向こうで聞えよがしにため息がつかれた。

『あのねぇ、ナオ。回せないことはないけど、そういうのはちゃんと家を通してくれない? 頭越しに話をされたんじゃ伯父様だって面白くないし、それでにらまれるのアタシなんだから』

「ちゃあんとそっちもあとでやるわ、これは事前の根回しってやつや」

『呆れたぁ、人脈コネのつもりなら普段からもう少しマメに連絡よこしなさいよ』

「ええ年した男同士・・・で何話せっちゅうねん、なんや昼飯の画像でも送ればええ?」

『いらなぁい、どうせ粉もんばっかでしょ。紫雲しうんのご長女の話とかあるじゃない……もしかして、今回はそれ? やめてよね、そんな大事なおのこと家を――』

「あー、ちゃうちゃう。単にウチの三級が下手こいてん」

『あらぁお優しい、目をかけてた子なの?』

「んにゃ、よう知らん姉と弟クンの二人」

『――ああ、そういうこと』

「なにを一人で納得しとんねん」

『別にぃ? とりあえず話はわかった。伯父様が渋るようなら、アタシが口添えしたげる。それでいい?』

「おう、恩に着るわ。今度久しぶりにメシでも行こや」

『こっちの趣味でぇ、そっちの奢りならいいわよぉ』

「オマエに店任すと趣味はええけど、量がなあ……」

『恩に着たんでしょぉ? ぐだぐだ言わないの』

「ハイハイ、んじゃな。また連絡するわ――」

 友人との通話を終えて、別の連絡先を呼び出す。

 当主代行としての仕事はここまでだ。

「――あぁ、メイちゃん今ええ? ごめんなぁ、話はすぐついたんにゃけど、やっぱボクが直接出張らんとダメやってん。そうそう、家のお仕事。ほんで、今からそっち戻ってもええ? アカンかな――……」

 しかし切り替えたつもりでも、頭の中にはこれからのことが残っていた。

(すずりちゃん次第で、今後も考えといかんなぁ)

 預かり、鍛えることになった紫雲家の長女。もちろん彼女は先の姉弟とは隔絶した力量を有している。

 だが同時に二級の彼女にはより強いあやかしに立ち向かう義務があるのだ。

 そしてあやかしは強くなればなるほどより悪辣に、そして悪趣味になる。

 もし敗れればただ嬲られ、犯されるだけではすむまい。

 自らを慕うあの娘をあんな目に合わせたくはない、そして同時に彼女を鍛える機会から自身も家のために学ばなくてはいけない――考えることは多かった。

「ホンマ、楽はできんで」

 けれどそれが、それこそが葛道直志の選んだ道だった。

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