第3話
水瀬の家では食事作りの当番を決め、全員に順々と回ってくる。今朝は一臣が朝食当番だった。
「おはよー…。」
すでに食卓で新聞を読む朔司と台所に立つ一臣に、寝ぼけながらまだパジャマ姿の蒔乃は挨拶する。
『おはよう。』
朔司は新聞を畳み、手話で返してくれる。
「おはよう…って、寝癖がすごいことに。」
一臣の指摘に、後で直す、と間延びした声で返して蒔乃も席に着いた。
「はい、朝ごはん。」
全員が揃ったところで、一臣が作った朝食をテーブルに並べ始めた。
彼の調理スキルは低く、レパートリーも少ない。朝の定番は形の崩れた目玉焼きだ。それでも添える物を工夫しているらしく、焼いたウインナーやベーコン。スライスしたトマト、納豆などが食卓に並ぶ。基本は和食が多いが、今日はトーストした食パンが出てきた。
手早くいただきますをして、蒔乃は食パンにバターを塗りつつ口に運ぶ。
「朝、パンなの珍しいね。お米じゃないと昼まで保たないって言ってなかったっけ。」
「昨日、炊飯器をセットしとくの忘れた。」
言いながら、一臣は朔司にジャムの瓶を手渡す。
『ありがとう、あとコーヒーに入れる牛乳も取ってくれるかい。』
「ん。」
朔司は一臣から受け取った牛乳をマグカップのコーヒーにたっぷりと注ぐ。コーヒーの苦い味は苦手なのに、香りは好きだと言っていたことを蒔乃は思い出していた。
「蒔乃、急いで食べた方が良いんじゃね。この後、身だしなみ整えるために洗面所を占拠すんだろ。」
一臣と蒔乃は同じ大学に通っていた。大学では芸術を学び、一臣は陶芸科を。蒔乃は絵画科を専攻している。
「二限の東洋芸術史からだから、まだ余裕。」
頬袋のあるハムスターのように食事を摂りながら、蒔乃が答えた。
「いいなー。俺は座学、一限目からあるわ。」
「早いうちから単位取っちゃった方が楽だよ。」
大学二年生の一臣に先輩風を吹かせる。蒔乃は一年先輩の大学三年生だった。一臣が高校三年生のとき、同じ大学を受けると聞かされて随分と驚いたものだ。だが実際に学び舎を供にすると意外に便利で、忘れ物をしても補い合ったり、夜の時間帯の帰宅に用心棒にもなってくれる。
一臣は時計を見て時刻を確認すると、急いで朝食を掻き込んだ。そして慌ただしく席を立って、食器をシンクに下げる。
「悪い、蒔乃。食器洗っておいてくんない?」
「いいよ。夕食の買い物は行ってくれるんだよね。」
もちろん、と一臣は頷き、椅子にかけておいた上着を羽織って玄関まで駆けていった。
「行ってきまーす。」
バタバタと忙しない音が止むと、しんと静寂が家を統べた。
チッチッチ、と時計の秒針が時を刻む音が響き、字幕付きのニュースがテレビから流れている。ゆっくりと蒔乃は食事を続け、朔司はニュースを眺めながらコーヒーを啜った。そして食事を終えた三人分の食器を洗うために、蒔乃は台所のシンクの前に立った。
かちゃかちゃと食器同士が触れあう音を立てながら、蒔乃は鼻歌を口ずさむ。やがて白い泡を水で全て洗い流して、食器をかごに伏せた。一仕事を終えて振り向くと、朔司が『ありがとう』と手話で感謝を蒔乃に伝える。
「ううん。ね、朔司さん。今日はお店が休みなんだよね?」
ひらひらと手話で話す言葉はいつも浮き足立つ蝶々のようだと思った。その動きの優雅さに憧れて蒔乃が勉強すると、予想以上に喜んだのは朔司だった。蒔乃が初めて覚えた手話は『ありがとう』。それを披露したとき、朔司は目を丸くして次の瞬間に涙を零した。
『そうだよ。夕食は皆で食べよう。』
星ノ尾が休みのとき、夕食は朔司が腕を振るってくれる。休みの日まで料理をしなくてもいいのに、と一臣と供に言うと、朔司は『休みの日だからこそ、作りたいんだよ』と微笑んで言うのだった。一週間に一度訪れるこの休みの日は三人そろっての夕食が恒例になった。飲み会や遊びに誘われようと、この日だけは大学から二人は一直線に帰ってくる。
「楽しみ!献立はもう決まってるの?」
蒔乃は両手を叩いて喜ぶ。そんな彼女を見て、朔司はいたずらっ子のように笑うのだ。
『秘密。楽しみにしてなさい。』
「ええー…。一日中、気になるなあ。」
唇を尖らせる蒔乃に、朔司は時計を指さす。逆算して、もう身支度に取りかからないとバスに間に合わなくある時間だった。きゃっと悲鳴を上げて、蒔乃は慌てて洗面所に向かった。
鏡で見る自らの寝癖の付いた髪の毛に、蒔乃は溜息を吐く。蒔乃の髪の毛は太く艶やかだが、癖が付くとそのしっかりとした毛質から直しづらいのだ。
今日もまた、四苦八苦しながら寝癖を直す。髪の毛の根元とて濡らしても、頑固な寝癖だった。
「ああ、もう…。これでいっか。」
頭を左右に振って確認し、及第点の出来に仕上げる。その後、歯磨きや顔を洗った。メイクは嫌いだ。バーテンダーの時だけでいい。
蒔乃は自室に戻り、昨夜から準備しておいた私服に着替えて、高校の時から使っているリュックサックを手に取った。そしてリビングにいる猫に餌を与えている朔司の肩をつんと突き、振り向いた彼に行ってきますと言う。
『行ってらっしゃい。気をつけて。』
朔司の手話に大きく頷いて、蒔乃は玄関を出るのだった。
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