第2話
23時、バーとしてはまだ早い時間帯に星ノ尾はクローズする。周囲が住宅街という環境で夜遅くまでオープンしない方が良いだろうという朔司の配慮だった。
朔司が銅製の看板を下げて、床のモップがけや店内を彩る生花に水やりをする。蒔乃はその間、食器やカクテルグラスの洗い物に励んだ。
刹那、蒔乃の洗剤の泡で濡れた手からカクテルグラスが一つ逃げた。
「あ…、」
床に触れた瞬間にキンッと甲高い音が立ち、薄いガラスが弾けてしまう。蒔乃は小さな溜息を吐き、膝をついてガラス片を拾おうとする。が、蒔乃の異変に気が付いた朔司によって止められた。
『僕が。』
と短く告げて、朔司は散ったガラス片を集めて新聞紙に包む。片付けを終えると、朔司は蒔乃の手を取った。そして一本一本の指を確かめるように診ていく。やがて両の手のひらを確認し終えると、ふと朔司は吐息を漏らした。そのまま蒔乃の手のひらに、くるくると円を描くように文字を書く。手話だと伝わらないニュアンスの会話は直接に肌に書くことが多い。
『良かった。ケガは無いようだね。』
朔司の指は長く骨張っていて、少し乾燥している。ざらりとした感触が肌に咲く時、背筋に快感にも似た震えが立った。
『力加減が難しいのだから、無茶はしないように。』
そのまま蒔乃の頭を優しく撫で、朔司は立ち上がろうとする。蒔乃は彼の手を握って、制止した。
「…痛かったら、良かったのに。」
一滴のインクをバスタブにぽとんと落としたかのような、蒔乃の呟き。
「ねえ。朔司さん。」
蒔乃は朔司の瞳を覗く。朔司のアンバーのような目色に蒔乃の姿が滲む。自分自身と目が合いながら、蒔乃は言葉を紡ぐのだった。
「噛んでもいい?」
微笑むように口角を上げた先に、八重歯が白く輝く。
蒔乃は無痛症を患っていた。
朔司が星ノ尾の戸締まりをしている間、蒔乃は一歩先に出た店先の小路で、夜空を仰いでいた。
四月の夜に桜の花びらが舞い、まるで温かい雪が降るようだった。
「蒔乃。今、上がり?」
自らの名前を呼ぶ声に視線を地上に戻すと、そこには一臣が傍らに自転車を携えて立っていた。蒔乃は頷いて、彼に近づく。
「おみくんも、帰りが今?頑張るね。」
「まーね。展示会、近いし。親父は?」
ざり、と砂利を踏みしめる音が響き二人が振り向くと、朔司が革のキーホルダーがついた鍵をポケットにしまいながら歩み寄るところだった。
一臣の名字は水瀬。朔司の息子だ。蒔乃は水瀬親子の元で、生活を共にしている。
『おかえり。』
朔司の手話に一臣も「ただいま」と手話で応えた。
「帰ろう。途中でコンビニ寄っていい?」
一臣の提案に乗るのは蒔乃だった。
「いいね。アイス食べたい気分。」
「こんな夜更けに食ったら太るぞ。」
まるで姉弟のように仲睦まじい若者二人の後ろを、朔司が見守りながらゆっくりと歩いて行く。
月は猫のように細く笑い、星明かりが白く道を照らす。三人の日常を彩る光は柔らかく、温かだった。
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