成仏できない理由
全身が凍った。まだ課長が抜けていないのだ。
そう思った瞬間、課長、いや桃屋さんがこちらを見た。
「白井」
「はい」
「契約は取れたんか?」
ぼくは反射的に逃げ出していた。
「待てーっ」
課長が憑依した桃屋さんは野犬のような速さでぼくを追ってきた。まるでオリンピック陸上短距離選手のようなフォーム。顔は般若のようだった。
ぼくは悲鳴を上げながらオフィスの外周に沿ってぐるぐる回りながら逃げた。
すると桃屋さんはオフィス机の上に飛び乗り、並ぶパソコンをハードルのようにまたぎながら、斜めに横切ってぼくを追ってきた。すでに仕事を始めていた社員たちが呆然と見ている。
「白井ーっ!」
なぜぼくは会社で朝からピンクの制服と三角巾のおばさんに追われているのか?意味がわからなかったが、追ってくるものは仕方ない。
べそをかきながら廊下に出て全速力で逃げる。だいぶ後ろで待てーっの声と共に桃屋さんも廊下に出たことがわかった。
「白井、契約取れたんか?」
契約取れたんか?って、そもそも課長の憑依が抜けたのは昨日の終業時刻ではないか。今は始業時刻になったばかりだ。この間の時間で契約が取れるわけない。頭おかしいのかと思ったが、おかしいから掃除のおばさんに乗り移ってぼくを追いかけているのだろう。助けて。
廊下の角を曲がったところで壁にあった用具入れの扉を開け、中に隠れた。少したって、白井ーっと叫びながら桃屋さんが前を通り過ぎて行った。
ゆっくり百数えた。それをあと三回。恐る恐る扉を開け、廊下を見回す。よかった。誰もいない。
ぼくは会社のスマホで会議室の空きを確認し、空いている部屋を予約した。とりあえずそこに隠れよう。オフィスには戻れないし、建物の外に出ようとしてもつかまる危険がある。
会議室で柿谷先輩に電話して助けてもらうのだ。それしかない。そう考えたぼくはこそこそと向かった。
会議室のドアを開けると誰もいない。ぼくはドアの札を「使用中」にして中に入った。ほっ。これで安心だ。
安心?全身を襲う寒気、そして殺気。誰もいないのに。いや、いる。どこから?左右にはいない。えっ、上?
「うわーっ」
見上げると、ぼくはこれまでの人生で最大の悲鳴を上げた。
天井と壁の隅に蜘蛛のように張りついた桃屋さんがいたのだ。スパイダーマンか、おまえは。
「白井!」
まるでスローモーションのように桃屋さんがぼくの上に降ってきた。倒れ込むぼく。
桃屋さんはぼくに馬乗りになると、ギラギラした目でにらめつけてきた。
「契約、契約は取れたんか?」
「取れていません」
「じゃあ死ね」
「く、苦しい」
桃屋さんは万力のような力でぼくの首を締め上げた。抵抗したが、彼女はびくともしない、もはや彼女は小柄なおばさんではなく、百貫デブかというぐらいの重さだった。なぜ契約を取れないと殺されないといけないのか。
薄れてゆく意識の中で、ぼんやりと考えた。父ちゃん、母ちゃん、ごめんなさい。大学まで出してくれて、就職して、さあこれからという時に会社で掃除のおばさんに絞め殺されるなんて。何のために生まれてきたんだよ、俺。
悪鬼のような桃屋さんの顔が一瞬、課長の顔に重なって見えた。情けないことに最後に意識に浮かんだのはこれだった。課長、契約取れたんかって、どの案件のことですか?そこで気を失った。
目が覚めると、天井が目に入った。会議室の天井。
「気がついたか?」
柿谷先輩がぼくの顔をのぞきこんだ。あわてて起き上がる。
「うわっ」
仰向けに倒れている桃屋さんの姿が目に入った。さっきまでぼくの首を締め上げていた人。
彼女のそばで私服姿の若い男がぶつぶつと何かお祈りのような言葉を唱えていた。初めて見る顔だ。
ぼくが柿谷先輩の顔を見ると、先輩は察したように言った。
「霊能者の先生だ。例の」
「えっ」
「もうリモートじゃ収拾がつかないから朝一に来てもらったんだよ。残念ながら、おまえの方が早く会社に来ちゃったんだな」
やがて桃屋さんがむくっと起き上がり、ぼくの方を見た。思わず後ずさりした。
「もう大丈夫ですよ」
若い霊能者が笑顔で言った。ぼくと同年配か、少し年下かもしれない。
桃屋さんはいきなり正座すると、ぼくに向けて両手を合わせた。
「白井さん、ごめんなさい!」
えっ。
「普通はこんなんじゃないのよ。私のごく一部を霊に貸して喋らせる感じなの。ところが、あの課長、降ろした瞬間に力ずくで私の体を全部占領して」
酷いことに自分の体がどう使われているかを桃屋さんは全部わかっていたらしい。抵抗することもできず、ただ眺めていたとのこと。
そしてぼくを絞め殺す寸前に霊能者が会議室へ入ってきて、課長の霊を追い出したそうだ。危うく殺人犯になるところだった桃屋さんは泣かんばかりに謝ってきた。
「根本的にやり方を見直さないといけないですね」
霊能者が柿谷先輩に言った。
午後の会議室。霊能者、柿谷先輩、ぼく、そして銀星部長がいた。
柿谷先輩が部長に頼んだ。
「話してください。あの日、何があったのですか?」
あの日とは課長が電話の受話器を握ったまま死んだ日曜日のことだ。これだけ酷い目に遭わされ続けると、とても亡くなったなどと言う気にはなれない。課長、いや、あいつが死んだ日だ。
またもや海外出張から帰りたての部長の身柄を確保した。部長は課長の死に関して、絶対に何かを知っている。
「まあ、ちょっと、人事のことだからな」
「勘弁してくださいよ!」
自分でもびっくりするぐらいの大声が出た。びくっとする部長。ぼくは危うく幽霊に絞め殺される所だったのだ。これは魂の叫びだった。
「部外者が立ち入ることではないのですが」
遠慮がちに霊能者が口を開いた。彼はその落ち着いた語り口が知性を感じさせる若者だった。
「普通の霊なら、今まで試した方法でお祓いできたのです。でも、灰田課長は現世にあり得ないほど強い執着心を抱いています。そこを解消しないと成仏できません」
「営業一課はめちゃくちゃです。もう限界なんです。みんな体がもちません」
そう言いながら、ぼくは柿谷先輩を見た。目は落ちくぼみ、げっそりとしている。このまま放っておくと、先輩まで幽霊になってしまいそうだった。それはそうだろう。毎晩夢の中で訳のわからない飛び込み営業をやらされ、昨日なんか課長が乗り移った掃除のおばさんにビンタまでされているのだ。
銀星部長は下を向いてしばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「わかった。話そう」
部長からすべてを聞いた柿谷先輩とぼくの口から同時に同じ言葉が出た。
「く、くだらない」
要はこんな話だ。銀星部長と灰田課長が飲んだ夜。部長が新しい営業部ができるかもという話をしたそうだ。よせばいいのに、そこの部長候補に灰田課長が挙がっていると言ってしまったらしい。実際は候補と言っても数ある候補の中で一番後ろだったそうだが、部長はそこまで言えなかった。
そこで驚喜し舞い上がった灰田課長は毎日部長の顔を見るたびにあの話どうなりました?と部長に尋ねてきた。新しい営業部の話は柔らかい話でいつできるか不明だったのだが、課長はすぐにでも自分が部長に昇進できるものと思い込み、しつこく部長に問い続けた。いつだ、いつ自分は部長になれるのか?と。
ついに部長が海外出張中の際にもわざわざ携帯へ電話をかけてきた。課長はせこいので日曜日の夜に出社して会社の電話を使ったのだ。
海外で寝入りばなを起こされた部長はぶち切れてしまい、しつこいぞ、組織なぞいつになるかわからん、おまえなんかが部長になれるはずはないと怒鳴ったそうだ。
すると電話が切れないまま課長はうんともすんとも言わなくなったとのこと。そこで死んだのだ。
「そんな大事なことをなんで教えてくれなかったんですか?」
ぼくが大声で尋ねた。
「いや、警察には話したけどな」
この人は駄目だ、と思ってぼくは銀星部長の顔を見た。課長の幽霊騒ぎも霊能者を呼んで何とかしようとしてたことも、すべて部長は知っていたはずだ。だって自分の顔写真を魔除けとしてオフィス中に貼りまくっていたのだから。それなのにこんな大事なことをぼくたちに言わないなんて。
部長は責任回避というか、根本的に無責任なのだ。生前だってあれだけ下から評判が悪かった灰田課長に好き勝手をやらせていた。やつが無能で性悪なことは誰だってわかるのに。それなのに上にへつらうだけの男を重用し、リップサービスとは言え次期部長をにおわすとは馬鹿の極みだ。
ぼくが軽蔑の目で部長を見ていると、柿谷先輩がぽつりと言った。
「昇進できなかったから死んだんですね」
サラリーマンの悲哀と言いたいところだが、死後にこれだけ迷惑をかけられては全く同情する気になれなかった。とことん馬鹿なやつという思いしかない。
それにしても部長、灰田課長が部長候補などと余計なことを言ってくれたものだ。もともとはあなたが原因ではないか。
「どうすれば灰田課長は成仏できますか?」
部長がすがりつくように霊能者の青年へ尋ねる。彼はしばらく考えてから答えた。
「昇進させるしかありませんね」
【連作ドタバタ短編】幽霊課長(こちら第一営業部①)第1話 山田貴文 @Moonlightsy358
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