第5話 形あるもの

次の日の朝。ぼくは寝不足の目をこすりながら出社した。昨夜もまた、夢の中で課長に詰められ続けたのだ。あの野郎、生前より厳しいじゃないか。ほとんど口を開く間もなく罵倒し続けられるのだから、たまったものじゃない。


「おはようございます」


オフィスに入ると明るい声で迎えられた。ピンクの制服を着た掃除のおばさん、桃屋さんだ。小柄な方だが、今日も元気いっぱいだ。


始業前に掃除をしてくれているのだが、ちょうどぼくの母親と同年配の桃屋さんはぼくを息子のように感じるのか、親しく接してくれていた。


「寝不足じゃないの?顔が死んでるわよ」


「わかります?」


「無理しないでね」


そう言って桃屋さんは去って行った。ぼくだって寝られるものなら寝たい。あの幽霊おやじめ。


今日は昼休みに予定があった。柿谷先輩に時間を空けとくように言われていたのだ。だから昼食は早めに取った。


「今度こそ大丈夫なんですかね?」


「わからん。でも、できることは全部やるしかないだろ」


昼休み。応接室へ向かう途中。柿谷先輩は文字通り死にかけていた。寝ている間中、飛び込み営業させられているのだからたまったものではない。昨夜は幼稚園に工作機械を売り込みに行き、園児たちから集団リンチに遭ったそうだ。


今度の作戦について概要は聞いていた。簡単に言うと、灰谷課長の実体化作戦である。例の霊能者からのアドバイスだ。


それが何かと言うと、いわゆるイタコ、霊媒師に課長の霊を降ろし、成仏してと説得しようというのだ。そのイタコは既に応接室へ来ているそうだ。


「なんで部長いないんだよ」


柿谷先輩が悔しそうに言った。これで何回目か。


詳細は不明ながら灰谷課長に影響がありそうな銀星部長だが、またもや海外出張で不在だった。本当なら応接室で直接説得して欲しいところだ。


「しかし、幽霊が人間の形になったら話が通じるんですかね?」


ぼくはこの作戦に半信半疑だった。あの傍若無人なおばけが言うことを聞くのか?


「まあ、幽霊のままだと話のしようがないからな」


話しながら応接室の前に着いた。


ノックしてドアを開ける。そして中にいた人を見てぼくはすぐにドアを閉じた。


「すみません。間違えました」


「どうしたの?」


けげんな顔の柿谷先輩。


「いや、部屋を間違えたみたいで」


「合ってるよ」


柿谷先輩が指さした応接室の表示を見ると、確かに聞いていた部屋はここだ。えっ、何これ?


恐る恐るもう一度ドアを開けると、中にいた人が満面の笑顔で言った。


「私です」


えっ。中のソファに座っていたのは掃除のおばさん、桃屋さんだった。制服と頭の三角巾はピンク。仕事の服装のままだった。


「ごめんなさい。着替える暇がなくて」


「ひょっとして・・・・・・」


「はい、私がイタコです」


霊能者が紹介してくれた霊媒師、イタコは桃屋さんだったのだ。何たる偶然。ぼくたちと同じビルで働いている人だなんて。


桃屋さんも灰田課長のことはもちろん知っているから、話は早かった。さっそく霊を降ろしてもらうことにした。


桃屋さんは数珠を取り出し、両手をこすりながらお経とも呪文ともつかぬ言葉を唱え始めた。もちろん柿谷先輩とぼくは降霊術を生で見るのは初めてだ。本当に課長が出てくるのか?


突然、桃屋さんはばったりとテーブルに突っ伏した。思わず助け起こそうとしたぼくを柿谷先輩が制する。


「待て。見ろ!」


やがて桃屋さんは起き上がり、ゆっくりと顔を上げた。その顔はまぎれもなく灰田課長だった。


「白井」


ドスのきいた声でぼくを呼んだ。


「おまえ、山田機械の契約は取れたのか?」


「いえ、課長もご覧になっていた通り、あの話はお断りしましたよね」


ぼくはしどろもどろになった。山田機械は先日の訪問で幽霊の課長が暴れた取引先だ。提案を辞退するのしないのと騒ぎになったあれ。


「誰が断っていいと言った!」


大声で怒鳴り散らす桃屋さん、いや灰田課長。


「課長、あの話は」


「うるさい!」


桃屋さんにビンタされる柿谷先輩。さすがに生前でもそこまではしなかったぞ。


「おまえらじゃ話にならん」


桃屋さんは跳び上がると、脱兎のごとく応接室を飛び出して行った。あわてて後を追ったが、もの凄いスピードで廊下を走る桃屋さんを見失ってしまった。


「どこに行った?」


蒼ざめた柿谷先輩とぼくは社内をくまなく探したが、どうしても桃屋さんを見つけることができなかった。


「柿谷さん、実体化した方がたちが悪いじゃないですか」


「そうだったな」


狐憑きというやつを思い出した。それが取り憑くと常人では考えられない力を発揮することがあるという。今見たのがまさにそれだ。狐憑きならぬ課長憑き。


しばらくすると、柿谷先輩の携帯に電話があった。山田機械の担当者からのようだ。先輩の顔がみるみるうちに変わる。


「申し訳ありません。すぐに伺います」


電話を切った柿谷先輩は頭を抱えてその場に座り込んだ。


「助けてくれ」


「どうしたんですか?」


「灰田と名乗るピンクの女性がやってきて、やっぱり例の商談をうちにやらせろと騒いだんだってよ」


これは地獄だ。この世の地獄。死んでからここまで迷惑をかける馬鹿上司。


柿谷先輩とぼくは慌ててタクシーに乗り、山田機械へと向かった。だが、着いた時には既に課長、いや桃屋さんは去った後だった。


ぼくたちは唖然としている担当者に平謝りした。思いつく限りの病名を並べ立てて言い訳したが、どこまで通じただろうか。すべての取引を切られてもおかしくない。


意気消沈したぼくたちがオフィスが戻ると、課長席にピンクの人がいた。桃屋さんだ。周囲はただ呆然と彼女を遠巻きに眺めている。


桃屋さんが顔を上げてぼくたちを見た。


「柿谷、白井、どこに行ってた?こっちに来い」


手招きされ、ぼくたちはよろよろと吸い寄せられるように課長席前の椅子へ座った。


ビジネスレビューが始まった。執拗な追及と中身のない説教を延々と。ネチネチ、ネチネチ。課長の生前そのままだが、前と違うのはぼくたちを責めているのが灰田課長ではなく、ピンクの三角巾と制服を着た桃屋さんということだ。ぼくたちはなぜ清掃のおばさんに契約取れないなら死ねと言われているのだろう?


桃屋さんが突然話を止め、腕時計を見た。


「おっ、時間だ」


彼女はオフィスから飛び出していった。もはやぼくたちには後を追う気力すらない。


ぼくの携帯が鳴った。黄林主任からだ。


「助けてくれ」


今日は大会議室で当社代理店のメンバーを集めたセミナーを開催していた。黄林さんが担当だ。そこに桃屋さんが「どうも。課長の灰田です」と現れ、演説を始めたそうだ。


そこにいた人たちは突然現れたピンクの女性に固まる。黄林さんは彼女を部屋から出そうとして、逆に凄い力で突き飛ばされたそうだ。


柿谷先輩とぼくは半べそをかきながら大会議室へ向かった。部屋の外から大音量の声が聞こえる。桃屋さん、ふだんは可愛い声なのに聞こえてくる音は野太い男のようだった。どこからあんな声が出るのか。


ぼくたちは会議室に入り、すみませんと出席者たちに頭を下げながら桃屋さんのところへ向かった。取り憑かれたように喋っていると言うか、まぎれもなく取り憑かれている彼女を部屋から出そうと肩に手をかける。


「何をするか!」


桃屋さんは目にも止まらぬスピードでぼくに頭突き、柿谷先輩のボディにパンチを入れた。たまらず倒れ込むぼくたち。出席者たちはただ唖然としている。


その時。終業時間を知らせるチャイムが鳴った。


「あらっ」


女性の声。


ぼくは顔を上げると、両手で顔を覆う桃屋さんの顔が目に入った。


「私、私、何をしていました?」


震える声。桃屋さん、正気に戻ったようだ。課長が抜けたのか?


会議室の後始末を黄林主任にまかせ、柿谷先輩とぼくは別室で桃屋さんと話をした。


「これまでいろいろな霊を降ろしてきましたけど、こんなのは初めてです」


憔悴した様子で語る桃屋さん。


「灰田さんを降ろした瞬間に凄い力で押しのけられて、完全に私を占領されてしまったんです」


普通、イタコは自分の一割か多くても二割のスペースを霊に解放して語らせるものらしい。それをあの強欲課長は桃屋さんのすべてを一気に独占したそうだ。自分の体の暴走をわかっていても止められなかったらしい。


「しかし、あの幽霊、定時で抜けるんですね」


「よかったです。もう二度と降ろしませんから大丈夫です」


肉体を酷使された桃屋さんは疲れ果て、明日からしばらく休みたいとのことだった。


今回の作戦は見事な失敗に終わったが、騒動はとりあえず収まったようだ。


それにしても大き過ぎる犠牲だった。社内はまだいいが、取引先の山田機械や代理店各社の信用をどうやって取り戻せばいいのか。彼らのあっけに取られた顔を思い出すと絶望的な気持ちになる。


「今は何も考えたくないな」


柿谷先輩はぼくと同じ思いだったようだ。


ぼくたちは仕事を続ける気になれず帰宅した。


その夜はまたお約束の課長タイムとなったが、リアル世界で暴れられるよりはるかにましだった。不快には変わりないが、これは夢だとわかっていると結構耐えられるものだ。


翌朝。出社すると課長席にピンクの人がいた。桃屋さんだった。


ー第6話(最終話)に続くー

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【連作ドタバタ短編】幽霊課長(こちら第一営業部①)第1話 山田貴文 @Moonlightsy358

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