津波なんか来るはずない

「おーい、海晴」

 海晴がしゅんと背中を丸め下駄箱から出した靴を三和土に並べていると、男のわりに甲高い声が投げかけられた。親しげな声色に眉を顰めながら顔を上げたところ、パチンコ玉みたいな銀色に光った坊主頭に見覚えがある。通学中、電車の窓枠に肘を載せて外をそぞろ眺めていたとき、電車と並び田んぼを突き抜ける畦道を、競輪選手みたく尻をぷりっと上げたママチャリの立ち漕ぎで、疾走していたのがこいつじゃなかったか。それも、この日と、受験のときと、二度だ。彼は遅刻しなかったらしく、ずいぶん走るのが速いんだな、と、海晴は可笑しいぐらい顎を上げ白目を剥いた形相を思い出しかけたが、どうでもいいことだと慌てて顔を引き締め、返す一言目を呑みこんだ。小学校のときは少年野球で盗塁とバントヒットが得意な一番遊撃手だったらしいとのちに知る。頭のほうは必要十分条件で躓くぐらいからきしだったものの、運動神経はクラスでもいちばんぐらいに優れ、甲子園だとかジョークのまな板にものぼらないぐらいスポーツに熱心な高校ではなかったが、いくつかの運動部から勧誘されていたことと、反復横跳びでやり直しを命じられるぐらいとんでもない記録を出していたことが、海晴にとって彼の第一印象に近い。いずれにせよ、ここ昇降口で顔を合わせたときが初対面で、「もう話すことはないだろうな」とセクシー・ボーイのフェロモン臭に呼吸を堪えながら思った。レンズのない丸眼鏡とおそろいの金色をした陰陽のピアスは悪趣味だし、そのぶんだけ坊主頭も勤勉な高校生というよりは大麻あたりで捕まった受刑者という様相。大きくひらいた胸元には紫地に白抜きの英文が書かれたTシャツが覗く。トイレの個室から立ち上る煙を見つかっても「勉強しろよ」という小言に留まるほど、校則に厳しい学校でもなかったが、さすがに教師の何人かには体のいい見せしめの対象として目をつけられ、廊下で全身ジャージ姿に諭されながら、しかしシャツをズボンから出しっぱなしにしてポケットに手を突っ込んだまま笑顔で話を聞き、チャックから中指を出しておどけた途端、丸めた教科書で頭をしこたま叩かれるなど、自他ともに「真面目」と認める海晴にとっては、接点なんかありえない存在である。

「……なに?」

 靴ずれを堪えながらナイキの踵を整え、後ずさりで砂利をセメントに鳴かせつつ、声を擦れさせると、坊主頭は、

「帰るん?」

 と茶目っ気を漂わせて首を傾げた。

 だとしたらなんだというのか。

「うん」

 しばらく間を置いたのち、ようやくほとんど声になっていない返事を捻り出すと、坊主頭は不気味なほどにこにこ笑っている。教科書の落書きで髭を生やしたブッダの顔に似ているなと思い、海晴は、驚いたような憐れむような表情で彼を見ていたが、前歯のど真ん中に付着した海苔に気づくと、ついでにとんちんかんだ、と、うっかり笑ってしまった。

「ガッチャーン!」

 ふたりの目線だけの会話は、親しい子を見つけたとき特有の女子の伸びやかな掛け声によって遮られた。リノリウムに深緑の二重線が引かれた真っ直ぐな廊下の向こうから、他の女子よりも一回りスカートが短いセーラー服の子が、胸元の赤いリボンを蝶々のように羽ばたかせながら、だぼっとしたルーズソックスを邪魔そうに揺らし、スリッパの音を喧しく鳴らした大股で駆けてくる。

 あ。と海晴は息を呑んだ。どうしてか彼女とは結婚をするような気がしたのだ。

 かつて城下町だったという海晴の地元は、日本三位の広さだという県下を山脈で三分割された一角のうちではもっとも賑わっており、地方都市らしい大きな商業施設もあるし、ませた子は教師に気づかれない程度に髪を染めていたり、透明樹脂を詰めたピアスホールを耳に掛けた髪で器用に隠すなど、垢抜けた子も少なくはなかったが、それでもテレビドラマですら見たことがないぐらい、綺麗な女の子で、なにより体中から漂わせた周りのひとを幸せにする日向のような雰囲気は、自分だけが感じている特別なものではなく、誰にとってもそうなんだろうな、と、海晴は股間の突っ張りを堪えた。腋の匂いを嗅いだり、嘘をつくときの顔を見たり、風呂上がりにバスタオル一枚でなにを食べているのか、もっと知りたいと思った。

 ふたりの明け透けな会話に耳をそばだてていたところ、どうやらふたりとも新入生で、坊主頭のほうはガッチャン、女の子のほうは愁香と呼ばれている。

「海晴くん。だよね?」

 付き合ってはいないのだろうが、むしろそれ以上に親密に感じられる、お互いの体を叩きあうような夫婦漫才然としたふたりのやりとりが落ち着いたころ、愁香の、すべすべの頬に形のいい笑窪が入った遠慮がちな表情が海晴に向けられた。

「ん」

 いきなり声をかけられ、なにかを我慢しているような声を上げたのち、愁香のやわらかそうな涙袋がゆるんだのを見ると、海晴が子どものころ、コンセントに挿した鍵に触れたかのごとく、体中が痺れた。

「おいおい愁香、イケメンだからっていきなり狙ってんじゃねーぞ」

 ガッチャンが頭の悪そうな高笑いを上げながら言うと、愁香は、

「馬鹿、そんなんじゃないって!」

 とガッチャンの腰を廊下中に破裂音が響き渡るぐらい強く平手でしばき、白い頬を絵の具で塗ったかのごとく真っ赤に染めた。思いのほか純朴な反応に海晴は驚いた。

 駅までぐねぐねと続く細い古道の真ん中を、愁香が自転車に乗り、後ろの荷台をガッチャンが押して、その隣を海晴が歩いた。アスファルトはあちこちが瘡蓋のように浮き立ち、段差を車輪が越えるたび簡素なベルがしゃりんと鳴る。かつては炭鉱で賑わっていたドヤ街もすっかり廃れてしまって、脱衣マージャンの音を漏らす純喫茶と安居酒屋がお化けのような赤ちょうちんをぶら下げているほかはシャッターにカラースプレーの落書きが踊り、いまは「日本一小さい漁港」に由来するささやかな漁業と、首都圏に電気を送る巨大なふたつの原発でようやく食い繋いでいる「その日暮らし」の風体、美味いのは酒だけである。国道に出ても、見かける車はほとんどが排気まみれの軽自動車または梯子を背負い荷室が散らかったハイエースで、走る姿も生きる姿も急いでいるような、そう豊かな町には見えなかったものの、なおのこと原発から落ちる金は潤沢であったらしく、食べ盛りの海晴も腹を空かせることはなかったし、親戚の家で一汁三菜に預かり、食後のとちおとめを無言で咀嚼しつつ原発がなかったころの暮らしを間違ってカラオケバージョンを入れたカセットテープみたいに聞かされて、まさしくカラオケならぬ独演会、どこか言い訳のようだと海晴は憤慨というより諦念に近い気持ちを後ろめたく感じ入ったりした。

「俺さあ、さっき、こいつと仲良くなれるかもしれない、って思ったんだよね」

 取り留めのないおしゃべりが落ち着いて、それほど窮屈でもない沈黙が続いたのち、ガッチャンは下手糞な芝居のごとくいきなり声を張った。ふたりの会話によれば、ガッチャンはいわゆる浜と呼ばれる当地の出身だが、愁香は高校進学にあたり神戸から越してきて、いまはひとりで暮らしているらしい。どうしてこんな田舎の名もない公立高校にはるばる越境入学するのか、愁香は話さなかったけれど、よく考えれば海晴の身の上も距離の差こそあれ似たようなもので、事情が異なるだろうことを弁えつつ身勝手な親近感を覚えたし、それ以上、愁香とガッチャンがほぼ初対面でありながらこんな仲が良いことに、胸の奥がすとんとパズルのピースを欠けさせたかの様相、落ち着かなくなった。

「さっきってなんかあったっけ?」

 ゆっくりガッチャンに自転車を押してもらっている愁香は、歪んだU字のハンドルをぐねぐねと捻ってバランスを取りながら尋ねた。底が深い前カゴのなかで重そうなエナメルバッグが揺れる。今日は授業がなかったにも関わらず、一体なにが入っているのか、むかし田村くんがしたり顔で披露した「可愛い子ほど鞄が小さい」の定説はそれほど当を得ていないな、などと、童貞にしてコロンブスのごとく発見の心持ちだ。

「さっきは、さっきだよ」

 ガッチャンは憮然と髭が黒胡麻のように散った口を尖らせ、耳先の赤さを誤魔化すように自転車を強く押し、細い前輪が大きめの石を噛めば、サドルに腰かけた愁香が「いやあ」と嬉しそうな声を上げ、プリーツスカートの裾がぴょんと跳ねて高校一年生のみずみずしい太ももが春のおだやかな陽光に曝された。

 またしばらく沈黙が続いて、赤が褪せた瓦屋根の駅舎が見え、ちょうど電車が去っていく規則正しい車輪音が遠のいたころ、愁香が「ああ」と間延びした相槌を打ったと同時に、海晴にも「さっき」がなにを指しているのか分かった。

 海晴が自己紹介をしているときに地震があり、慌てて教壇のしたに隠れ、揺れが収まったころ、おそるおそる顔を覗かせると、爆笑に包まれる教室のなかで、たったふたり笑っていなかったのがガッチャンと愁香だったんじゃないか、と、海晴はふたりの顔を覚えてもいなかったのに、そんな気がした。笑われて悔しかったわけでも恥ずかしかったわけでもない、ただ、笑わなかったのはどうしてだろう、と、それは尊い営みであるように思った。

「地震なんか来るはずないって」

 愁香は肩に切り揃えた群青色の真っ直ぐな髪を揺らしけらけら笑った。たぶんそれが、はるか遠い神戸からこの浜へやってきた子の実感で、だから笑ってなかったんだろう。

「『津波てんでんこ』って知ってる?」

 一方、幼い時分より浜で暮らしていたガッチャンの返しは、舌に針金でも絡まったかのごとく、海晴にはおおげさだと感じられるほどに、重々しい。

 次の電車まで二時間近くあるだろうことは歯抜けだらけの時刻表を見ずとも察せられた。海晴は、子どものときのかくれんぼで皆が諦めても辺りが真っ暗になるまで隠れ続けるぐらい、生来、気が長く、二時間ぼんやりホームのベンチに座りダンゴ虫を運ぶ蟻の行列を眺め続けるのでも、まるで苦ではなかったのだが、ガッチャンと愁香が付き合ってくれるのは嬉しかった。ガッチャンがふたりに奢ってくれると胸を叩き、海晴は恐縮し、愁香は口をへの字に曲げ「そんなんいいって」と嫌そうですらあったけれど、ガッチャンは「引越祝い」だと譲らない。性質の悪いセールスみたいな口上がいよいよ面倒くさくなった海晴と愁香が諦めるかたちで、海晴は駅舎外の自動販売機で棒つきアイスを買って貰い、愁香はコンビニキオスクで明治の白い板チョコを買って貰い、細長い缶の緑茶をそれぞれ渡されて、ステンドグラス奥の待合室の堅いベンチに向かい合って座り、ガッチャンのレシートだらけの財布に比べればずいぶん整然とした説明に耳を傾けた。

 海晴の地元とガッチャンが育ったこの町は行政区分としてはおなじ県に属するが、およそちがう土地と捉えてもいいほどに風土や文化や言葉ですら二つの山脈に三分されている。海晴の地元には大きな湖があり、それを海だと思っていたぐらい津波という言葉を意識していなかった彼に、ガッチャンは教示したかったらしい。彼自身意識してはいないだろうが、なかなか大層な歓迎もとい洗礼である。

 「津波てんでんこ」は、浜をはじめ、とりわけ北方のリアス式海岸が並ぶ地帯など、地震による津波に古くから襲われた地方で先祖代々伝えられている言葉だという。いわく、「津波が来たら親も子も捨てて『てんでばらばら』に逃げろ」という意味だと、ガッチャンは膝のまえで血管の青く浮き出た手を堅く組み、彼らしくもなく気色ばんだ。

「でもさあ、津波なんて来なくない? あたし、ここに引っ越してくるまえ、ちょっとは調べたよ?」

 愁香は軽快な音を鳴らして板チョコを話の腰ごと折り、ガッチャンに咥えさせ、彼が不満そうな顔で反論とともにもごもご咀嚼しているうち、彼女が調べてきたらしいいくつかの知識を、身振りを交え、いっぱしの女優を思わせる言い回しで披露した。

 三十年前の津波で百名余の死者が出たがほとんどの被害は北方に集中していたこと、この町ではむしろ波が引いたあとの広い砂浜に残された魚や海藻を拾って楽しんだこと、津波が来ないからこそ原発を建てる場所として選ばれたこと……。

「海晴は、どう思う?」

 自信満々なようで、あるいはゆえに俗っぽい、愁香の説明だか物語りだかがひとしきり落ち着いたのち、ガッチャンは一転、多数決を取る生活指導の教師みたいな口調で、海晴に水を向けた。

「俺は……」

 喉が強張り、言葉に詰まったのは、きんきんのアイスで冷えていたからか、それとも、言える言葉がなかった、からではなかったし、言う言葉のいくつかを悩んでいた、からでもなかった。

「津波が来たら、どこに逃げたらいいんだろう?」

 ふっと息を吐くように海晴が言うと、同時にガッチャンも息を吐き、おなじ台詞をおなじとき口にするようなこの現象を一年後には「ロビンソンが来た」と形容して笑うのだが、まだ初めての海晴には股間いじりを覚えたときとおなじく、心地悪さのほうが先立つ一方、ガッチャンの嬉しそうな頬にさした赤みが印象的だった。

「寺か神社に逃げればいい。それも千二百年前からある寺社だ」

 つまりそれらは貞観の大津波に被災しなかった場所だから安心、という理屈は分かったけれど、そもそも千二百年前なんて、うぐいすの鳴く、平安時代あたりじゃないのか。やはりガッチャンの話も要領を得ているようには聞こえない。薄ぼんやりした他人事のような肌感覚は、高校に入ったばかりで他人の痛いところに触れてもいない子どもという、若さに由来する欠如なのか。十年、二十年して、結婚し、子どもができれば、「津波てんでんこ」という言葉にもリアリティが付与されるのか。少なくとも現時点では、数十年後もまだこの浜にいるか分からない、どこにいるかすら分かりようがない、という実感のなさが、どうしようもなく子どもだった。

「でもさあ、子を捨てて逃げるなんてできないんじゃない? 親はともかく」

 そう応えた愁香の投げやりな口調に気圧されて、少し先を歩いていた海晴はぎょっと彼女を振り返る。時間を止めたいぐらい綺麗な横顔だと思った。遠く神戸から両親を置いてこの浜に来た愁香の覚悟と、似たような境遇の自分のそれを比較すれば、海晴はいわんや親離れできていない自分の矮小さを認めるものの、いつか愁香が子どもを持つかもしれないと思えば、あわい色彩のついた裸の想像は、弾けんばかりの興奮に昇華される。

「だからこそ、さっき校舎が揺れたとき、真っ先に逃げた海晴を見て、俺は偉いと思ったんだ」

 これを伝えるために海晴を呼び止めたかのごとく、ガッチャンはきっぱりと言葉を置き、口元を堅く結びつつ、目元だけは泣いているんじゃないかというぐらい穏やかだった。

 海晴はかさかさのくちびるを舌先で濡らしながら、返事に困ったし、そもそも返事をしなくてもいいんじゃないかとそっぽを向く。海晴は揺れに慣れていないから驚いただけで、「津波てんでんこ」が教えるような、どこか高尚なようにも思える思想に誘われたわけではない。海晴を笑い、「ビビリ」と呼んだような、浜の子たちのほうがよっぽど偉いんじゃないのか。それとも海晴もいつか浜に馴染んでしまったら揺れにも動じなくなるのだろうか。それが浜で生きるということなのか……。

 駅のホームでだけ複線になるさびた鉄路を、逆方向に向かうおもちゃのような車両が去ったころ、見慣れない都会の名前を行先に貼りつけたその便に話題を持ち去られたかのごとく、三人は一転、どうでもいいことばかりを話し、ガッチャンの冷静に聞けばしょうもないように思えるギャグに愁香が腹を抱えて笑い、打ち解ければ、電車が着いたため、海晴は「じゃあ」と不器用な挨拶を残し、ホームとのあいだにできた広すぎる隙間を跳び越えた。後ろから「また明日な」と声がして、海晴は振り返らず、電車が動きだすのを待ち、気のないふりで車窓の外に目をやると、カズダンスみたいに両手をばたつかせる愁香のとなり、ガッチャンが驚いたような顔で立ち尽くしていたのを見た途端、伸ばしかけた手は扉に遮られた。

 電車は揺れる。作務衣のおばあちゃんが歯の窺えない空洞みたいな口を大きくひらいて鼾をこだまさせ、おなじ高校の三年生だろうかセーラー服の子が付箋のたくさん生えた参考書をぶあつい眼鏡ごしに睨んでいるほか、座席は空いているにも関わらず、海晴は立って膝の揺れを確かめる。車窓に映る他人みたいな間抜け面を「ビビリ」と罵ってみる。やがて電車が長いトンネルを抜ければ、窓の向こうには、パールをまぶしたような砂浜と、どっしり青い海が見渡すかぎりひらけていた。地元の山のうえに突き抜ける空が動かないことは知っていた。海も動かないんだ。海晴はそう気づき、じっと握りしめすぎて汗ばんだ手のひらに、おそるおそる鼻先を付ければ、「海晴」と呼ばれた気がして、申し訳なさそうに誰もいない車内を振り返る。

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