ビビリ

 ひとりっ子だし、父親は公務員で、子どものころから金銭的な不安を感じたことはなく、私立高校に通う学費も訴えたらバイトを頼らなくてもいいぐらい出してもらえただろうが、地元を逃げる負い目か、海晴のほうから遠慮されて、公立高校を選んだところ、最寄りでも道のりで五キロ離れた先にあり、それでも自転車で海沿いを走る国道を南下したほうが早いのだが、僅かなこづかいを入学祝の革財布から絞り出してまで、通勤時間すら便のごく少ない電車により高校へ通うことを選んだ。入学式のとき、おろしたての学生服で緊張しつつ潜った駅前の桜並木が、見惚れて遅刻してしまったぐらい、海晴の地元に咲くものと品種が違うというそれが、素晴らしく美しいからだった。また、その景観にふさわしい神秘性のある駅名で、他にひとのいない駅舎で電車を待つ退屈な時間すら特別に思え、「高校生活のうち何度この思索に耽るのだろうか」と詩人の心持ちを愉しんだ。遅れて教室に滑りこみ、背中の汗も乾かないうちに自己紹介のトリを頼まれ、まばらな拍手とともに、奇異なものを見るような、あるいは、なにかを期待するような目線を浴びながら、面白いことのひとつでも言わないといけないのではないかと、そう仲良くもなかった中学のときの中田くんを思い出し、かといってテレビもダウンタウンしか知らないほどに歌番組以外は好きではなく、およそユーモアなど考えたこともなかった頭を捻りつつ、寄る辺ない半笑いを浮かべていたところ、いきなり地面が揺れた。まず縦に突きあがり、それから時間を置いて横に振動するという、感じたことのない揺れだった。

「うおおおっ……!?」

 海晴は鼠が猫に追われるディズニーのアニメみたいに跳ね、反射的に飛びこんだ教壇のなかで尻を抱えるように体を縮めた。一分ぐらい続いたようにも思えた揺れがようやく収まったころ、海晴がそろそろ泣きそうな顔を覗かせると、教室中が大爆笑に包まれると同時に、海晴の仇名だとか、クラスの役どころが落ち着いた。呆れた声色で、いわく。

「お前、ビビリかよー」

 太平洋側の海岸線に沿って海洋プレートと大洋プレートが沈みこむ日本海溝があるから、このあたりでは地震が多いんだよ、と、担任が持って回ったようにぴかぴかの黒板を白い地図で汚し、筆捌きのわりには居丈高な口調で教えてくれた。お洒落な赤い眼鏡がいんちきくさい彼は現代文を教えていたはずで、それでもなお地理に詳しいぐらい、またクラスメイトの誰しもが驚いていない様相を鑑みても、地震が非常に多い土地柄なのだと説得力があった。沖ではおよそ三十年周期でマグニチュード8程度の地震が起こるという。マグニチュードと震度の違いもよく分からず、むしろ分からないことが分からないほどに実感がなかったが、さっきの地震は震度2ぐらいだったと隣の席の女子にツインテールを跳ねさせながら囁かれ、椅子に座った海晴の膝は揺れを思い出したように小刻みに震えた。およそ三十年前にも大地震があったため、周期によれば数年以内に同等の地震がある確率は九十パーセントを越えるらしい、と聞かされても、生徒たちはつまらない噂を聞いたような顔で鼻をほじったり欠伸を噛み殺し、命の価値は町によって違うのだろうか、と、海晴はずっと揺れているような感覚を持て余しながら、担任が締めとして黒板に書いた「未来とは、未だ来ていないということ」の言葉に、逃げたくなった。

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